えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

三文小説集

書籍化、という言葉を見たときに、買うと決めていた。
その漫画を最初に見かけたのはいつだったか思い出せない。少なくとも、二度三度読んでいたように思う。



「僕は兄になりたかった」


ツイートでいくつかに分かれたその漫画が私はとても好きだ。
そして今回、「三文小説集」というタイトルがつき、「野犬夜曲」シリーズとともに発売されたこの愛おしい漫画について語りたいと思う。



「野犬夜曲」はある男と、小説家の女の物語である。
ふたりとも、帯の言葉を借りればどこか歪だ。
男…啓吾は心のうちに渦巻くこころを言葉にする術を持たない、言葉自体を持たない。
女…綾川ツキは心も何もかもを"娯楽"に変える。


ふたりが惹かれあって、と表現するには少し言葉が負けてしまう感覚がある。啓吾の人生を"娯楽"に変えた綾川ツキは、その啓吾とともに暮らす。

なんというか、なんなんでしょうね。
この野犬シリーズは、私はTwitterで読んでいなかったので、コミックで初めて読んだんだけど、シンプルに「なんだこれは」と思った。
恋愛漫画、という枠ではないし、かといって他のジャンルに入れられるかというとそんな気は少しもしないし
いやそもそも、枠に入れることすら意味があるように思えなかった。



ただ、ざわざわと身体の内側に何かが湧くような感覚。言ってしまうと、そういうものに近かったように思う。


心がどこにあるのか。
啓吾は、言葉にできない。言葉にすることは、感情に出口を与えてやることだと思う。
例えば、心と言葉がイコールかといえばそういうものでもないんじゃないか。ただそれでも、言葉を与えてやれば、名前を与えてやれば出口が見つかる。
綾川ツキが作中言った通り、言葉にして、意味を与えてやる。そうすることで、壊さずに済む、壊れずに済むことはあるんだと思う。




ただ同時に、言葉にすることは変えて軽くすることだ。だからこそ、言葉を知らない啓吾のうちで渦巻く激情に綾川ツキは惹かれるんじゃないか。そこにあるのは、言葉にしてしまえる綾川ツキにはもう二度と持ち得ないようなそれであり、また、そんな彼に触れるとき、たしかに綾川ツキの中にもそれに似た何か、言葉が追いつかないものが湧いてくる。

それすらきっと、彼女は言葉に変え、娯楽にするのかもしれないけど。



それでも、その言葉が追いつかないような激情に駆られる啓吾の姿は作中、黒い獣と表現されるように美しい。それに、その感情の一旦が自分に向けられるとしたら、それは、間違いなく、甘美だと思う。言葉で誤魔化せない。



人生に意味を与えて、色んなものを手に入れる。その中で虚しいわけでもないだろうけど「こんなもんか」と過ぎる時が来る気がする。
加えて、啓吾が満ち足りてるはずなのに足りない・満たされないという姿が心に残っていて。



ふたりの間にあるものが恋情か性欲か、あるいは執着か、みたいなのをずっと考えてる。それこそ「名前を与えたい」とずっと思ってる。
こんなもんか、と諦めとかうんざりとか、「大体こんなもん」を忘れられる瞬間があのふたりの間にはあるのかもしれない。
それが名前を付けられないからこそ惹かれる。なんとか近い言葉を当てはめることはできても、そんな枠を易々と壊してどこかへ駆け出してしまうような熱量が、紙いっぱいから伝わってくるから、私は好きだ。




そして、「僕は兄になりたかった」である。
ある兄弟の物語で、ある弟の物語だ。
本当にね、私はこの話が大好きなんです。何度かツイートで流れてくるたびに読み返して、そのたびに泣いてしまう。うまく言葉にできない気持ちが胸の中にいっぱいになって、喉が詰まる。
Twitterでも読めるし、でもできたら、ぜひ、本で手に取って欲しい。
私は今回、書籍化した本を購入して、手に持ちながら読めて嬉しかった。手の中に自分の大切な物語があるというのは、すごいことだな、と思った。




諦めかける一歩手前、くだらないと落としてしまうその前をそっと手を握ってくれる作品達だと思う。
「僕は兄になりたかった」で"彼"が本当は何をしたかったのかと問いかけられ、自身に問うシーンが好きだ。
悲惨な結論や虚しい結論すら出せそうなあの場面からの展開が本当に本当に好きだ。


描くことでなんとか生きるひとたちの話だったな、と思う。し、でも、描かないひとも平等に描いててどっちがいいとか悪いとかではなくて、どっちも必要なんだ。
そう思うと三文小説集ってタイトルが秀逸すぎてすごい。全くうまく言えない。言葉にしたくないのかもしれない。もう少しこの、名付けようのないものの輪郭や熱量を自分の中で確認していたい。



ものすごく激しい、怒りや悲しみに近いものを描きもするんだけど、それを過度に飾り立てず、かと言ってちっぽけだと言い捨てもせず、
手を伸ばしてくれるこの瀬川環さんの作品をこれからも観たい。観れるということが、私はたまらなく嬉しい。

積み重ねた"あの日"

「あの日」という特定の日というわけではない。だけど、最近、ずっと考えている時のことがある。
 
 
 
「覚えといたが良いですよ」
帰りの電車の中、後輩にそう言われた。唐突なその言葉に私はん?と首を傾げて聞き返す。
 
転勤が決まり、好きな人たちと会うことも当分できないと自分のお別れ会を自分で開いた。その帰り道、集まってくれた友人達と電車に乗りながら言いようもないような感覚を頭の中で確認していた、そんな時だった。なんでもないように後輩は淡々と言った。
 
 
「つくさんが集まってほしいって言ったら、こうして集まってくれるひとがいるってこと。忘れちゃダメですよ」
 
 
 
それはとてもうつしくてびっくりする言葉で、そのくせ私はまぬけにそうねえ、とぼんやり頷いた。なんとなく、その時のことを思い出している。
 
 
 
人見知りだと、自分のことを思っている。人付き合いが下手で愛想がなく、友達を作るのも苦手だ。
 
愛想良く喋る、は学生時代・社会人と経て少し得意にはなったし、誰かと話すことは得意だと思えるようにもなった。
だけど「人付き合い」と考えるといつだって変わらず自信がない。
 
 
 
それは学生時代からの根強いコンプレックスで、だから転勤を言い渡された時は、はじめ、居心地のいい場所を離れ、その「苦手」に取り組まなきゃいけない状況に飛び込むのが本当に本当に嫌だった。100%、いや120%の確率で病むと思った。
 
 
しかし同時に、その時の自分の人生でそれもまた予想しなかったくらい居心地のいい環境にいることに焦ってもいた。
そこそこうまくいってる、満足している。満ち足りている。でもそうだと思えば思うほどなんか違うっていう違和感がずっとあった。
 
 
それは、昔からどこにいても感じる居心地の悪さなのか、建前ばかりがうまい自分の嫌悪感か。それとも、人付き合いへの自信のなさからくるものなのか。
 
 
 
少し前、Twitterで見かけた言葉が頭に残っている。
「口ばかりがうまく分不相応な評価を得てる人はいつか痛い目に遭う」というツイートで、それを観て私は、ただただ、はいすいませんと項垂れた。わかってるし、その不安はいつだってあるけど、でもだってと言い訳を重ねたくなり、そうすればするほど、またさらに居心地が悪くなる。
 
 
こんなに居心地の良い場所にいれるのは、どこかズルをしたからじゃないのか。
 
 
そんな不安からか、いつも何か焦っていた。分不相応に手に入れたものが今の居場所だとして、それがいつかぱちんと消えてしまうことがあるとしたら、それは結構、堪えることだと思っていた。
 
 
だから、仕事での内示をきっかけに全く違う環境に飛び込むことにした。
飛び込んだ直後、後悔もしたけど、同時にここでちゃんと、自分の力で立てたなら少し何か変われるような気がした。自分の居心地の良い場所を失わない方法として、いっそ逆に離れてみるのも必要なんだと改めて思う。
 
 
しかし、その時間は覚悟していたものと少し形を変えて私の前に現れる。
この一年と少し「ソーシャルディスタンス」という言葉を合言葉にひとはひとと距離をとった。それはつまり、何かあっても休息のために親しい人たちのもとに帰れないということであり、更に言えば新たな人間関係を築くハードルが自分の性格や努力とはまた違った面で上がる、ということだ。
 
 
そんな時間を過ごす中で、自分が、たったひとりでは何もできないことを知った。できない、というか、想像以上に自分にはたくさんの支えてくれるひとがいるんだと知った。
何度も心が折れたし、胃を痛めた。もう全部面倒だから放り出そうと思ったことは一度や二度じゃない。
でもその度、誰かが話をする時間をくれた。対面でハグをすることはできない代わりに音で繋がり、腰を据えて話をしてくれた。
あるいは、誰かが作ったエンタメが放り出すには惜しい世界を何度も何度も見せてくれた。
 
 
 
不思議な一年だ。大切なひとと物理的に過ごせた時間は、たぶん圧倒的にここ数年の中で少なかった。お別れもあった。
きっと人は決定的に徹底的にずっとひとりなんだろうと諦める年でもあった。
 
 
だというのに、「大丈夫だ」という腹落ちが残ったのだ。
それは、忘れちゃいけない時間の積み重ねでできている。
 
 
 
もうすぐ私は、元いた環境へと戻る。もちろん、世界が落ち着かない間は、以前のように集まり遊ぶことはできないだろう。それでも、落ち着いたその時は大切なひとひとりひとりをハグして回れる場所に、帰るのだ。
そして、この一年過ごした場所もまた、これから私にとって「帰る場所」の一つになる。
 
 
 
うんざりして嫌なことも多い。人間なんて、と自分だってそうなくせに匙を投げたくなる。だけどそんな自分の後ろ髪を引いてくれてるのは……いや、さすがにそれは表現が良くないな、落っこちないように手を握ってくれているのは、私を大なり小なり、大切に思ってくれてる人たちに違いないのだ。
そんな人たちからもらったいろんな「忘れられないあの日」が私の毎日を"簡単に放り出してしまうには惜しい日々"に変えてくれている。
そしてきっとそんな日々がこれからも増えていくんだと信じることは、口ばかりでどうしようもない私にだってあるなけなしの良心からくる果たしたいこと、なのだ。
 
 
 
大切にしてくれてる友達がいること、これからもその人たちと過ごすこと。
それを信じることはもしかしたら自慢っぽいだとか驕りだとかと言われるものなのかもしれない。
だけど、だとすればそれはそれでいい。
自慢だと言われても私はそういう人たちのことを忘れたくないし、謙遜してなかったことにしたくない。そうしてしまうのは、すごく失礼なことな気がする。
もちろん、それでも時々過ぎたるもの、と口にしたくなるし怯えるし持て余すけど、でもそうして手放したりないフリをするよりか、嬉しい!とその手をちゃんと握り返して少しでも大切にして恩を返す方法を探す方がいいんじゃやいか。
 
 
 
大切なひとにただいま、という日のことをきっと私は忘れないだろう。忘れちゃ、いけないと思う。
そして同時にそんな日が当たり前の毎日の中、一日あることが何より本当に奇跡のようだと思うのだ。
 
 

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」のために書きました

 

文を書くことの備忘録

言葉の話をしようと思う。
する必要のあるなしは一旦さておいて、言葉の話をしようと思う。


誰かと話すと間違えることがある。
今、話せば話すほどうまくいかなくなることが多い。
分かり合えた、同じ……ちょっとこれは意地の悪い言い方なので「仲のいい」と言い換える……相手でも、いやむしろそんな相手にこそ、話して傷付いたり傷付けたりする。
傷付きやすくなったから、と言ってしまえばそれまでかもしれないけど、行き場がない・終わりのない環境と、でもその中で全員が同じ状況じゃないことから生まれる差異から傷付かない・傷付けないことは難しい。
傷付ける、という言葉が強すぎるなら「違うんだ」と途方に暮れると言ってもいい。



そういうことを繰り返したり自分は体験せずとも見たりするとだんだん「喋らない・発信しない」を選びたくなる。いやそれでもお前結構しゃべってるよと言われればまあそうなんですが。


何を言えば傷付けるのか、と考えると自然と何を言えば傷付けないのか、になり、そうなるとそれって出来るのか?というドツボにハマって口を閉じるしかないじゃないか、と思う。


例えば、このブログは元々「感想」ブログである。
お芝居の感想を残すために作り、そこに映画やライブ、ドラマなどの感想を書くようになった。そして、一年位前から定期的に「自分の話」をするようになった。



しながら、お前本当に自分のこと好きだなと茶化したくなるし、ということはたぶん、これでいいのか?と思ってる自分もいるんだと思う。
誰がこんな話を聴きたいのか、と思うし多少の自己陶酔があることは否定しきれない気がする。
全くの創作物ならともかくどちらかといえば「私がこう思う」をよくもまあ恥ずかしげも面白みもなく書けるもんだな、と冷静な自分がツッコミを入れてくる。呆れられてんじゃないの、と指摘してくる。お前に求めてるのは「感想」で「自分のこと」を書くことじゃないし、そんなどこまでも自分のためでしかない文は誰にも見せない日記帳にでも書いてろよ、と思う。
ブログでやろうとした、始めたところから遠くに進んでるとしても、やりたいから仕方ないし、楽しい。でもだからこそ、怖いんだと思う。楽しいと思うこれを誰かが呆れて見てたら?ここから自分にがっかりされたら?傷付けたら?
それなら、何もせずに黙っておいたほうが無難でベストなんじゃないか。



それでも書くのが楽しい。
書くことを得意だとも思わないし、人より秀でてるものだとも思えない。でも、自分にとっては必要なものなのだ。
そして、私はそうして書いている・表現していると言われるものが好きだ。物語でも、音楽でも、そういう思いを込められて作られてるものにどうしようもなく惹かれる。
だから自分の書いてるこれも意味があるなんて次元を並べていうことはさすがにできないけれど。


人生のオチのことをずっと考えてる。
遺書のようなもの。そう、はてなブログを呼んでるひとがいた。絶妙な表現だな、と思う。
人が死んだ後、何が残るのかって話をすれば、もちろん、友達や家族の中にだって残る。でも思い出す方法、を残す手段として、このブログは一つ、指標になるのかもしれない。
それこそ、何かを作るわけではない私が「生き続ける」場所をこんなふうに手軽に作れるのはインターネットが発達したからこそで、それはとても恐ろしい部分も多分にあるけれど、でも、面白いな、と私は思うのだ。


自分のやりたいことや、居たい場所を考えると一朝一夕で果たせるものじゃなく、なんならそもそもその場所すらもやがかっているなかで、その途方もなさみたいなものに投げ出したくなる時がある。
その上、元の人間嫌いが顔を出しやすい状況だと、それに乗っかって、無理だとか嫌だとか興味のないふり、上辺だけの辻褄合わせが楽になる。
でも、そんな楽な面白くないことは、やりたくない。全くやらないなんてことはないけど、でも嫌だ、と思う。楽なんかしてたまるか。



創作物が人を傷付けることを考えることが増えた。ずっと考えていたつもりだけど、前以上に「傷付ける」や「伝わらない」を考える。
伝わって欲しい、傷つけたくないし怒られたくない。
でも、そこに「伝わって欲しい」がある限り、言葉を綴ることを止めるわけにはいかない。というか、やりたくない。
伝え続けるしかない、考えて考え続けて、喋り続ける。
私にとって、言葉を使うことは考える方法なんだ。



なんだかそんなことを、ラジオを聴き友達と喋ったなかで思ったので残しておく。
必要があるかないかなんか、分からない。私には必要だったということしか分からないし、知ることはできない。
でも、良いんだ。こうして残しておけば、未来の自分には届くだろう。それにもしかしたら、どこかの誰かにだって、届くことがあるかもしれないじゃないか。

クレオパトラな女たち

クレオパトラな女たち
そのドラマを綾野剛さん目的で観た。放送当時、とびとびでぼんやり誰かが観てるついでで観ていた記憶があって、工場を眺めに行くのとかは覚えていた。でもあれ、誰と観てたんだろう。


そんな薄ぼんやりとした記憶のまま、Tverでの配信を観た。観出して、おおこれはもしかしたら地雷がたくさんあるかもしれないぞ、と逆に清々しいような気持ちになって、見始めた。


ルッキズムの話かと思った。
美容整形外科を舞台にしているから当たり前といえば当たり前だけど。
綺麗になること、容姿で人よりも"優れている"こと。そこに執着すること。


それを良いことと描くのか悪いことと描くのか。
いずれにせよ、ずいぶん尻座りの悪い気持ちで見ることになりそうだなあと思っていた。



それが、どうやら様子が違うぞと気付いたのは数話観た頃だった。
もちろん、やっぱり何度も「美」に執着する話は出てくる。
そしてともすれば、その善悪の話のようにも感じることはある。だけど、そういうことじゃないだろう。たぶん。
主人公は保険外であり大金がかかる美容手術をたびたび下らないと言う。人を救いたいと学んだ医療を私利私欲のために使うことを嫌悪する。



しかし、それは嫌悪されないといけないことだろうか?



例えば他人からすればそんなことで、と言われることがしばしば人生の中で嫌なことだったりする。それが、内面であったり外見であったりは人それぞれだ。
例えば私は鼻がともかくまん丸なんだけど、私はその鼻を化粧をするために鏡を覗き見るたびにははあーとため息を吐きたくなる。それがちりつもになれば、それは「そんなことで」だろうか。

外見で判断されることはない、は美しい物語だけど、そんなもの、物語でしかない。見た目が変われば、と願うことは当たり前に私たちの生活の中にある。


そして、それと内面の悩みはとても身近でくっついているのだ。
しかし、同時にそれって言葉にしようがなかったりとか、例えば好きに生きて良いといえば美しいけど、それが不倫をして家族を置いていく話だとすれば頷きづらくなるし、しかし、その家族内、必要なのは「母」という記号と稼ぎだけだ、と思うとなんだか虚しいし、ならもう、好きな人と一緒に生きなよと背中を押しそうにもなるし、ああもう、ままならないな。



言葉にならない、ままならない、日々降り積もっていくそれを物語にしようとしたからこそ、良くも悪くも煮え切らなかったのではないか。
曖昧に笑うような、あるいは泣くのをごまかすようなそんな微妙な表現を「分かりにくい」と言ってしまうには、少し惜しい。


分かるようで分からない登場人物たちをいつのまにか愛おしく思っていた。それは作中出てきた言葉を借りれば「無様」だからかもしれない。だって確かにそうだ。そつなくこなす、なんてところから程遠いところで彼らが足掻き、もがく姿がたしかに私は愛おしかったのだ。


そして、当初見る目的だった綾野剛さんのお芝居がまた素晴らしかった。叶わないと分かりながらでもほんの少し期待して諦めて、最後にたった一度、ハグされることを望んだ彼の幸せを祈らずにはいられない。
なんというか、彼を通してあの物語を観たのは、絶対に良かった。ままならなさとか、どうしようもなさとかそれでも愛おしい気持ちとかを全部ぜんぶ飲み込んで仕方ないな、と笑う、そんな気持ちが私のこのドラマを観て残った感覚なのだ。


全部をはるかに飛び越えたところに、真実はあると言ったお父さんの台詞をメモしていた。分かるようで、やっぱり分からない。正解はどこにあるんだろう。でもそれもこれも、分かるまで活き活きと無様に足掻くしか無い,と思えばまあそれもそうか、と思うのだ。

星野源のオールナイトニッポン 2021.07.20

ラジオが好きだ。
まだ聴き始めて一年も経っていないけどそれでも今、もし好きなラジオ番組がいつか終わってしまったらと思うとちょっとぼんやりしてしまうくらい生活の一部になっている。


なんでラジオが好きなんだろう。
元々、私の中で「深夜ラジオ」は憧れの存在だった。
こだわりがある人が好きだ。そして深夜ラジオ、はそんな人たちのコミュニティだと思っていた。
昔、全く聴いてなかったわけじゃないけれど、姉の真似をして、というか引っ付いて聴いていたからやっぱり「格好いい姉が好きなもの」という引け目というか、足を突っ込むにはハードルが高い場所だった。


それでも「ラジオ」そのものが縁遠い存在だったわけじゃない。九州の田舎育ちの私にとって、移動といえば車、車といえばラジオだった。時には両親や私たちが編集したカセットテープを流すこともあったが、大半はラジオが流れていた。
そこで聞いた「あ、阿部礼司」をはじめ休日の夕方かかる番組や朝、予備校をサボりたいと駄々をこねた朝強制送迎されるなか聞いた地方の朝番組などなど…。そこには、子どもの頃の思い出がくっついている。


そんな中、大人になり車に乗ることも減ってすっかりラジオが遠くなっていた頃、ひょっこりまたラジオが私の生活に帰ってきた。



星野源を好きになったからラジオを好きになった。
言ってしまえばそれだけのことかもしれないけど、そうじゃない、と思いたい。いや、いつか例えばもっと好きな存在ができたり、生活が変わった時、ラジオが自分の生活からなくなることはあるかもしれない。
それでも、今、確かに私の生活にラジオがある。そしてそれが1週間の大きな糧になっている。
だとしたら、十分、残しておきたいと思う。私は私の感覚を信用していない。だからこそ、このブログを書いているのだ。何も変わらずそのままでいれるなら、そのくらいの強さがあるなら、ブログなんてしない。そうじゃないから、だから、私は今、こうして文を書く。


2021年、7月20日の放送の星野源オールナイトニッポン。それは私の中ですごく大きな意味を持つ放送になった。
星野源オールナイトニッポンにはジングルのコーナーと呼ばれるものがある。そこではリスナーから送られてきたジングル……CM明け後に流れる短いタイトルコール(の前に音楽や語りが入るもの)を紹介し、特によかったものは本当にジングルとして使うというものだ。
私はこのジングルのコーナーがすごくすごく好きだ。
素敵な短い自作の音楽や下ネタも含んだ想像しないような短いトークに毎週ワクワクしたり思い切り笑ったりしている。
そして今週も、それはもう笑った。
私もげらげら笑ったし、源さんも構成作家の寺坂さんもめちゃくちゃに笑った。
ただただ面白くておかしくて、部屋にひとりきりで大爆笑した。部屋には私とラジオから流れてくる笑い声が溢れていた。



ラジオを聴いて爆笑することもあれば、しみじみ言葉に聞き入ったり、知らない音楽や好きな音楽にらわくわくしたりする。
私のラジオの時間はだいたい、そういう時間だ。




ところで、メールを読まれたいか、と言われると難しい。送ったことがないわけでも、読んでもらえないかと夢見たことがないわけでもない。でも、心の底から120%、読まれたい!と思えてはいないし、ましてや「ハガキ職人」(今の言い方にするなら「メール職人」)になりたいとは一切思わないのだ。
それはなれるわけがない、という憧れからの諦めかもしれない。やっぱり未だに、私の中でラジオは少しハードルの残る憧れの場所なのである。
しかし、その「無理だと思う」以上に聞いて楽しむ、の距離感が居心地良く、私は好きなんだ。



で、ちょっと思ったんだけど、いい意味で私にとってラジオは他人事なのだ。
へえ、って思いながら聴いてる。だからこそ時々、不意打ちで刺さってそれがまた気持ちいい。
ヘビーリスナーさんの名前を覚え、時々番組内で出てくる名前に、お、相変わらず元気そうだなとにこにこしたりするのが楽しい。



そして、もちろん、メインパーソナリティが好きだからというのもあるけど、でもなんというか、ラジオを聴いてる時、私は彼をはじめ、彼ら(私が習慣的に聞いてるラジオ番組のメインパーソナリティの人々)を「推し」という感覚とは少し遠いところで聴いてる気がする。
そういえば、星野源オールナイトニッポンのCMで、深夜に友達の家に遊びに行くような感覚という表現があった。
(あのCMが本当に好きだったんですが、何曜日のオールナイトニッポンを聞けばまた聞けるんだろう…本当にまた聴きたい……)
それだ、と思う。
そうなんだ、だからくだらない話でげらげら笑ったり時々真剣な話をしたり、その直後にまたふざけたり。それは、確かに深夜、友人と眠いねなんて言いながら過ごすあの感覚に似てる。
だから、パーソナリティもヘビーリスナーも含めてなんだかその瞬間だけは「友達」のような気持ちになるのだ。
ラジオが終わればまた、それぞれそうじゃない存在に戻って生活に戻っていくんだけど。
ただ同じ話をしながら笑ったその感覚は、ほんとに、私の毎日の中に必要なのだ。



なんというか、日々、人と話したくなくなることが多すぎるじゃないですか。
好きだっていうことが誰かを傷付けたりもするし、本人は本当に悪意なく言ってるだろう言葉に何時間もぐるぐる考え込んだり。ここ数日、ずっとそんなものがあって嫌だなあと思っていた。
どうしたら伝わるだろう、と伝わりっこないのだ、が同時にやってくる。
伝えるって本当、難しい。論破することとは違うのだ。もっともな正論なロジックでいくら相手を殴ろうが、それじゃダメなんだ。
でも、正しいことは必要だと思うし、なんて答えのないことを延々と考えると思考回路は袋小路になって、出口をなくす。いやそもそもたぶん、出口なんてないのだ。



あーもう、一人でいれば良いんじゃないか人間、なんて、思ったりする。


ただ、今週ラジオを聴き、げらげら笑って、そしたらなんか、良いか、と思った。良いか、っていうか、あーたのしー!とニッコニコしていた。そうだ、ラジオは私にとって、論破とか誰かや何かを変えるためのそれではなくてただ笑ったり昔のことをふと思い出したり、そういう時間なんだ。そんなことを源さんの「ラジオは楽しい」という言葉を聴きながら、頷く。
嫌なことがある毎日の中で、週に思い切り笑えること、聴いていて楽しいと思える時間があること。それは、なんて幸せなことだろう。
そして私は来週も、楽しい話ができる友人の家に遊びに行くように、radikoのチャンネルを合わせるのだ。



今週の星野源オールナイトニッポンはタイムフリーで聞けます。
星野源オールナイトニッポン | STVラジオ http://radiko.jp/share/?t=20210721010000&sid=STV #radiko

リスナーさん、彼女ができてよかったね、おめでとう!

リコカツ

もう十二分に有名な主演のふたり。
それぞれに好きな作品があり、もう「ある程度」その魅力を知っていると思っていた。
ところが、そんなのは全く、思い上がりだと思った。
色んな作品でその魅力をたくさん見せてきてくれたおふたりはまだまだ、と言わんばかりに本当に魅力的で夢中になってしまうお芝居を「リコカツ」で見せてくれた。


中でも驚いたのは瑛太さんだ。
まほろ駅前便利屋多田軒をはじめ、好きな作品がいくつもある役者さん。だからこそ、最初から楽しみだった。
そして初まり、お、コメディでこんなお芝居もするのか、とライトに楽しんでいた。そっかあ、と滲むような彼のお芝居が好きな私は「またこれはこれで」なんて思っていたのだ。

それが、次第にとんだ表面しか見ていない感想だと気付いたのは、話数がそこそこ進んだタイミングだった。


頑固で変わり者の、旧時代的な自衛官
そんな役柄の彼は声を野太く作り、表情や仕草を大袈裟にデフォルメ化して演じていた。
それはそれで、ああこんなコメディなお芝居もあるのか、と思っていたけれど、離婚届を出す回、剥がれ落ちるように零れた彼の「そのままの声」にぶん殴られたような心地になった。



そうか、そうか、紘一さんはこんな人なのか。


それは単純に演技どうこうの話ではなかったと思う。デフォルメ化した芝居を見せてきたからこそのギャップというだけの話でもない。
きっと、演技の技術という話だけではなく、「緒原紘一」という人はこうなのだ。
厳格な自衛官であり、守る人であり、規律の人。そこにある自身の感情はずっと二の次にしてきた人。「こうあるべき」で固められた彼の顔がぽろりと剥がれていく。


寂しさやままならなさ、自身への怒り、そして何より咲さんを愛おしく思う気持ちがその剥がれた部分から覗くのが、心底愛おしかった。
あれは、本当に出会えたことを幸いと呼ぶタイプの奇跡的な瞬間だったと思う。



そして、それはこの作品の根幹のテーマと合わさった時、すごく優しい物語を紡いだように思うのだ。


最初は正直に言えば、「リコカツ」というタイトルになんとなく苦手な気配を察していた。離婚をそんなライトに描かれても、と思ったし、離婚から始まる恋愛ストーリーねえ…と一歩どころか十歩くらい引いた気持ちでいたのだ。

しかし、実際にドラマを観ながらその感覚はどんどん覆った。ほぼ交際0日に近い形で始まったふたりの結婚生活が破綻に近付きながら、同時にふたりが互いを知っていく。
もう離婚だ!と決めてからお互いに惹かれ出すふたりを観ながら、知るってすごいな、と思っていた。


なんというか、これはリコカツに限らず、同時期TBSで放送されていた「着飾る恋には理由があって」にも言えることな気がするけれど、
人と人との関係を継続させるのって、トキメキなんかじゃないんじゃないか。
それよりも、知ろうとすること、話すことなんじゃないか。
咲さんと紘一さんのそれぞれの両親がまさしくそうだ。自分の中で勝手に作り上げたふたりのストーリー(しかも自分にかなり都合が良いもの)だけを後生大事に抱えてしまえば、それは壊れて失くしてしまう。
そうじゃなくて、自分が思ってること、相手が思ってることを一つ一つ言葉にする必要があふのだ。他人はそもそも分かりえないし、なんなら自分だって本当に何を考えてるのかは言葉にしないと分からないんだから。


離婚する理由は100個ある、と言いながらいざ言葉にしていけば早々に詰まってしまった咲さんと紘一さんを思い出しながら、そう思う。


そして、同時にもちろん、そうした上であるいはそうできずに「お別れ」を選ぶ選択肢もあるのだということを、「リコカツ」はそっと咲さんの姉、楓さんの姿で描いた。個人的にはもう少し彼女の話を見たかったような気もするけど、尺的に難しかったのも事実だろう。
少なくとも、なんとなく、で関係が修繕されました!と描かれなくて、良かった。


人と人との関係を継続させるのは、トキメキなんかじゃない。そう書きはしたけれど、同時に、リコカツは人と人が相手を知ろうとして言葉を尽くしたその先に、トキメキも愛もある、とも描いていたように思う。
最終回、ふたりの幸せそうな笑顔は、他人と暮らす毎日の美しい希望の形だった。

アジアの天使

高校時代、カナダからきた友人ができた。
アニメが好きだという彼女を部活の顧問がうちの部はアニメが好きなやつがたくさんいるからと連れてきたのがきっかけだった。
ふと映画を観ながら、彼女のことを考えていた。



アジアの天使は、ふたつの家族の物語である。
困窮した小説家の剛が息子を連れて、兄を頼って韓国ソウルにやってきた。おりしも、その時の日韓関係は過去最悪に悪化していた。
一方、アイドルから歌手になったソルは仕事がうまくいかず、また家族ともうまくいかない。
それぞれがどん底にいるふたつの家族がたまたま同じ電車で乗り合い、言葉が通じないままに不思議な旅を共にしていく。


この映画を観た理由はたった一つだ。
通勤中、たまたま目に入った予告編、オダギリジョーが言っていた。



「この国で必要な言葉はメクチュ・チュセヨとサランヘヨだ」



ビールくださいと愛してる、である。それだけで、観ようと決めた。合うか合わないか、暗いのか明るいのか、ストーリーが好みかどうかなんてどうでも良いなと思った。その台詞を聴きたかったし、その台詞が出てくる映画を観たかった。

剛は、最初、不安に駆られながら「大切なのは相互理解だ」と自分の息子に言う。悪意に駆られないこと、理解し合うこと。でも、言葉は通じない。剛は韓国語を話せないし、でもなんとなく、怒ってることはわかる。
ソルは、アイドルを辞め、今は歌手だ。仕事のため、事務所の社長と寝ている。それは単に仕事のためだけでもない。恋ではないようにかんじたけど、社長のことは尊敬もしてるし、好きだとも思う。しかし、社長はソルのことを"女6"と登録する。


画面の中、あちこちに滲む不安と不快。寂しさ苦しさ、ままならなさ。それはたぶん、放り出せないから尚更、くるしい。

ふたつの家族が出会い、一緒に旅をする。目的があるのかといえば、微妙な下心と惰性に近い何かくらいだ。
そのうえ、彼らは言葉がほとんど通じない。剛の兄は韓国語ができるけど,別に通訳じゃないから訳したり訳さなかったりだ。
友好的、でもないけど、でもお互いを嫌悪するわけでもない。なんとなくの居心地の悪さ、興味、それがだんだん、形を変えていく。


言葉が少ない映画だ。
なんせ、話せない。なんとか話そうとすると、お互い不慣れな英語を中学英語のようなレベルでやりとりするのが精一杯だ。
だけど、それでも、お互いの目線や表情、様子で察していく。


その光景を見ながら、
カナダから来た友人のことを考えていた。私は英語が苦手だった。comeをコメ、と読んだくらい苦手だ。そして彼女も同じく日本語がそんなに得意じゃなかった。
だけど、私たちは好きなものや身振り手振りそれから単語で会話をして、次第に仲良くなった。
そんな彼女が言葉が通じない環境で過ごす寂しさに泣いてる時、私は励ます言葉を持っていなかった。だってそんな単語、習っていないのだ。
だから、必死に言葉を探し、なんなら日本語で喋ったりしながら、ハグをした。伝わればいいのに、と伝わらないことに心底、悔しく思いながら。
そしたら、友人は泣きそうな顔で笑ってそれから、「つくと私、カレーうどん、食べに行きます」と言った。たぶん、行きましょう、と言いたかったんだと思う。でも、そんなこと、気にならなかった。繰り返し言われた、食べに行きます、と言う言葉が嬉しくて嬉しくて、泣きそうだった。



言葉はいつだって過不足を生むんだな、そんなことを、思っていた。言いようもないような感情が徐々に込み上げてくる。
気が付けば笑い合い、「メクチュ・チュセヨ」と言って、酒を飲む。


あなたには私の言葉は分からないから。そう言って漏らされた弱音が。不器用な優しさと伝わらない言葉と共に差し出されたチョコレートが。



本当に必要なものってなんだろうな。そんなことを思う。
相互理解、なんてそれっぽい言葉で片付けてしまうにはあまりにも惜しい。柔らかくて熱くて愛おしい瞬間があった。でもそれは、するりとなくなってしまいそうだし、ああもう、なんだったんだろう、あれ。
きっと、観てなきゃ信じられないんだろうな、なんて思う。そんな奇跡みたいな瞬間の光を私は覚えてる。



別にそれはとんでもない解決策でもないし、何も変わってないんだけど、でもたしかに、そこにあるものだ。
たぶんそれは、愛に似た何かの話なんだと思う。私がそう、決めたのだ。