えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

不思議

気が付いたら、繰り返し聴いてる。
朝通勤する時、仕事が終わった瞬間。再生ボタンに指が伸びる。
なんなら最近は家でぼんやりしている時も、再生してしまう。


家にいる時、なんだか無性に焦ることがある。
何もしてない、という焦燥感に何かを始めようとする。たとえば、いつまでも放置している部屋の片付けや、1週間溜まったレシートの束。もしくは書こう書きたいと思ってる文のメモを捏ね回したり、気になったまま放置していたドラマの配信。
そういうものに手を伸ばしてほんの少しだけ触れて結局くたびれて止める。そうすると焦燥感はますます増して、嫌になる。
そんな時に、不思議を再生するようになった。



はじめ、ドラマで聴いた時は「ああ良い曲だな」というライトな感想だった。
こないだ友人達と音楽の話をして気付いた。私にとって音楽は音を楽しむというそれ自体もだけど、それ以上に歌詞を楽しむ側面が大きい。
なので大抵初めて触れる音楽は、歌詞を検索して楽しむことが多い。また源さんはだいたい公式サイトに歌詞や関わった人たちのクレジットを掲載してくれるので、まずはそれをじっくり読んで楽しむ。
不思議は、そうした中でも「ああ、良い曲だな」というふわふわした感想が先立った。穏やかにじんわりと、興奮して、とか「この曲は!」という衝撃は薄かった。かつ私はなんとなくそれが嬉しかった。
好きなものが増えるというのはいつだって嬉しいけれど、同時に何かに熱狂し続けることは私の中では怖いことだ。自分の思い込みやすい性格に疑念しかないので。
なので、この曲はそこそこの距離感を持って楽しむのかもな、とほわほわと楽しんで、初聴の夜は眠った。



そんな印象が覆ったのは、星野源オールナイトニッポンで曲を聴いてからだった。


歌詞が全く、違って聴こえた。耳に残る言葉が変わる。
ラジオだからか、源さんの作詞の時の話やリスナーのリアクションとともに楽しんだからか。
分からないけど、曲の印象がどんどん変わった。
それは、違う顔、とも表現できるけど、どちらかといえば奥行きに気付いたような感覚に近かった。
ここまでだと思っていた景色の向こうに、また違う植物や空や建物があるような。そこに、見知らぬ、でも仲良くなりたいと感じる人々がいるような。そんな気がした。


そしてそう思って聴くと、この不思議という曲はどこまでも愛おしく、何度も何度も触れていたくなる曲だった。どうして私は、初聴時そこそこの距離感で楽しむかもな、などと思えたんだろう。いまとなっては、そんな自分が全く理解できない。


不思議は、ドラマ『着飾る恋には理由があって』の主題歌で、ラブソングだ。
様々なインタビュー内で"初めて"自分なりのラブソングを正面から表現と源さん自身が口にする通り、その歌詞やメロディの中には恋心の柔らかさ、甘さが滲む。
また、ピアノを使って作曲されたメロディは優しくあたりにじんわりと満たすような心地がある。


そして同時に「ラブソング」とは人と人の間に生まれる恋愛感情のことだけを歌うわけじゃないのかもな、と思った。

友人や音楽、お芝居に映画、小説に漫画、そんなものにきゅんとすることがある。そんな瞬間にも、この曲はすごくマッチするような気がしたのだ。
 


そんな私に最初に刺さったのは歌詞のこの部分だ。

"好き"を持った日々をありのままで
文字にできるなら気が済むのにな

こうして、好きなものについて延々とろくろを回すタイプだからこそ、本当にそれ…!と言葉を噛み締めた。
伝わりきった、と思える日がくるなら、たぶん、その時文にすることを私は止めると思う。し、そんな日はきっとこない。



あなたが好きなのだ、一緒にいられて嬉しいのだと心の中のものをどれだけ吐き出し切ろうと言葉を尽くしても、いやむしろ、尽くせば尽くすほど伝わらない途方もなさに呆然とすることがある。
それは受け取ってもらえない寂しさとは少し違う。むしろ、相手はきっと受け止めてくれているということが分かるからこそ、余計に寂しい。
言葉にしてしまうことで生まれるズレや、この世のどこにもこの心の中にあるものを表現するものがないのだということに何度も、驚く。
そこにあるのに、いやむしろあるからこそ、伝わらない。手渡せない。


だけど、きっとそれが、どうしようもなさに飲まれずに済む唯一のお守りだ。
手渡せない、確認できないそれは確かにそこに在ってだからこそ、歩いていける。
そんなことを、今ではすっかり私の毎日の中に必要になった音楽を想いながら、考えている。

ボイルド シュリンプ&クラブ

なんであの時、まるで劇場にいるような気持ちになったんだろう。


楽しみにしていたシュリクラの一気公演の配信を購入し、観た。


自称「予知能力の達人」海老蔵と、自称「変装の名人」蟹子の探偵コンビがさまざまな事件を解決する4つの話で構成されている。
地下鉄ジャックを阻止したり、レストランで起こった殺人事件を解決したり、殺人現場から逃げるピエロと風俗嬢を逃したり、警察の浮気調査をしたり。

起こる時間はそれぞれに全く違うけど、
その全てに共通してるものがある。
それは、「犯人が分かった後」物語が始まることだ。
誰が犯人か、を探るわけでもなく、大どんでん返し的に犯人が変わるわけでもない。

私は初め、この設定を聞いた時に???が頭の中を渦巻いた。なんならあれ、大どんでん返しじゃないんだ?と困惑した。
じゃあどんなものを軸に進むんだろう,とワクワクしながら観た。


何故,犯人はその事件を起こしたのか。
もちろん、それも大きなテーマの一つではある。だけど、それは軸ではないように私は感じた。
むしろ「その後どうするのか」を描いてるように見えた。
事件を起こした犯人が大体依頼主になることが多いんだけど、それは「罪を懺悔したい」というより(もちろんそれはあると思うけど)そのこと自体を飲み込むための時間稼ぎなようにも思えるのだ。
そういう意味で、それぞれの話の主人公は徹底して犯人たち、だ。
でもそれを楽しく掻き回す探偵ふたりが、物凄く楽しくて、格好良くて、最高なのだ。……いや、掻き回すというよりかは解決しようとしてるんだけど!(笑)

舞台上にいる、全ての人たちが楽しくて愛おしくて全話、ずっとワクワクしながら観ていた。楽しかったなあ、本当に。



配信は、演劇とは違う。
何回も、何万回も言われた言葉である。
最近では、無観客上演に切り替えを、なんて無茶苦茶な要請があったこともあってさらに聞く機会が増えた。
作り手にとってはもちろん、私にとってこのことは、日々、考えない日はないくらい消えようもない事実だ。

どれだけ工夫がされても、配信は生の観劇とは違う。
お芝居の細部にある生きた人の気配は生で観なければ受け取りきれない。実際今回の公演は生での観劇の方々の感想ツイートを見ていると細かいところまで遊びがあって、それは配信だと拾いきれなかったりする(定点の場合は特に。でも、編集も例えばそっちに寄っちゃうとあざとくなるから寄る可能性は低いだろうな)
そして、何より劇場で観る時のあの会場内の空気がどんどん変わっていくことは、どうしたって体感できない。たとえ、笑い声が入ろうとそれは画面の向こうの出来事であり、空気を共有する、とは違うのだ。

だから、言われるまでもなく、配信は配信だ。


それでも、今回、色んな役者さんが画面が割れる勢いで届けます、と言っていた。
単に物語が伝わるように、という話だけでは、ないような気がする。

配信でお芝居を観るとき、そのスタイルは人それぞれだと思う。
なるべく会場に近づけるため,電気を消したり開演時間に合わせたり,配信をリアルタイムで観たりする人もいるだろう。
ちなみに私はじゃあせっかくだし配信でしか楽しめない楽しみ方をしようとお茶を淹れたりおやつを用意したりする。お酒を開けることもある。どうせなら、それでしか楽しめない楽しみ方をしたい。感想をメモしながら観ることもある。
今回のシュリクラも、そういう"配信スタイル"で楽しんでいた。それは没入とはすこし違う楽しみ方かもしれない。
それでも、ある瞬間。
目が引っ張られた。
劇場にいるような気持ちになった。それは確か,派手なシーンじゃなかったと思う。何気ない、物語の展開のキーの一つだった。

面白い、ってのと、なんか、ああ、お芝居観てる!と言葉にしようがない気持ちになった。なんだったのか、考え続けてるけどわからない。
なんなら、もっと物語としての感想を書ける人でありたいんだけど、どうしたって、こういう気持ちの話ばっかりになっちゃうな。

細部まで見切れなかったとしても、それでも、確かに、画面が割れるような熱量は届いていた。間違いなく。

ボイルド・シュリンプ&クラブが楽しみだという話

ボイルド・シュリンプ&クラブの配信がある!やったー!!!
苦しくなるようなニュースが多い中で、嬉しい告知があった。


「芝居が終わったら観客の心の中で芝居が始まる」をモットーにしている大好きな劇団6番シードさんの最新公演の配信が決まった。
今、様々な声があって、判断があって、その中で私はただの観客なので観たいということ以外の言葉を持ち得ない。
なので、時勢がどうこうではなくて、ただただ、観たいお芝居が観れるんだやったー!ということを言葉にしておきたい。言葉にしておけば、忘れない。ブレたとして、思い出せる。

今公演、劇団員以外の客演の方にも好きな方が多く、また6Cさん(劇団6番シードさんの愛称、以下、この表現をこのまま使う)で出逢うまだ観たことない役者さんにも毎度わくわくさせてもらってきたから、とんでもなくはしゃいでいる。好きな人たちのお芝居は私にとってモンスターやレッドブル以上に効果抜群の栄養ドリンクである。


そして何より、私は冒頭書いたことをモットーにしている6Cさんのお芝居が大好きだ。
観終わって、それから物語が始まる経験を何度もしてきた。
6Cさんの物語の多くは突拍子もない設定というよりかは丁寧な会話劇だ(あえていうならその会話劇は超高速会話劇だったりするけど)
ただ人が出会って、物語が始まる。


そして基本的には笑いがたくさん散りばめられている。コメディ、ということも多い。


ところで私は、笑わせてくれる脚本が好きだ。
これは完全に好みの話だけど、コメディやギャグがたくさん散りばめられた話が好きだ。笑えるという意味で「面白い」は最強だと思う。
だって笑ってると楽しくなるし。
さらに言えば、6Cさんのお話はコメディな上にヒューマンドラマだ。


こういう説明するときに、ヒューマンドラマ、と便宜上使うけど、これって結構難しいな、と思う。
なんか、だって、人が出る時点でヒューマンドラマでは…?とふと疑問が湧いてしまうのだ。でも、確かに自分がヒューマンドラマが好きな自覚がある。人が出ていてもヒューマンドラマ、には分類できないな、と思う作品もある。
とりあえず、ここで言いたいのはひとりひとりがわりと、しっかり生きてるということだ。
しかも、変に物語を背負ってとかではなくて、ただただ、生きてる。
きっとこの人は今日、布団から身体を起こしてご飯を食べたり歯を磨いたりしてここにいるんだな、と思う。もちろん、当然、役者さんの話ではなくて、その人が演じてる役の話だ。


6Cさんの作品の中でも特に私にとって大切な公演がふたつある。
2015年に上演された、「ふたりカオス」と、2016年に上演された「Life is Numbers」という作品たちだ。
私はその時、息を潜めるように、呼吸を忘れるように、舞台を、観た。
生の生きている人の強さと美しさがそこにはあった。

人と人が出会ったことで奇跡は生まれる。
だとしたら、舞台のあの瞬間瞬間、瞬くそれは、たぶん、奇跡そのものなんだと思う。



とはいえ、じゃあ生で観ないと体感できないのかというとここがまた難しい。
間違いなく圧倒的に、絶対、そりゃ、生がいい。というか、生と映像はまた違うものなのだ。私は喫茶店で飲むコーヒーも家で淹れるコーヒーも好きだけど、そういう話というか。同じコーヒーだけど、その二つは絶対的に違う。全く違う。でも、家で淹れるコーヒーも美味しい。
なんなら、私は6Cさんのお芝居に映像でも何度も、嬉しいくらいに出会ってきた。
そもそも、最初は別の劇団の役者さん目当てでDVDを見た。観て、そこに生きる人たちがコロコロと表情を変え、笑い怒り生きてる姿に惹かれて、劇団6番シードさん自体が大好きになったのだ。
生きている人間は最高だと思う。変わる表情とか、呼吸とか。そんな瞬間、人に出会える劇団6番シードさんが好きだ。



そして、劇団6番シードの代表である松本さんの脚本が大好きだらこそ、私は毎公演楽しみなんだと思う。大好きだ、と思う理由は先程書いた、笑えるという面白さは最強だということが一つ。
それから…間違いなくこれが大きい…一番核というか、ああだからだ、と実感した公演があった。

2018年に上演された「劇作家と小説家とシナリオライター」という公演である。
タイトルの通り、物語を描く人々の話だ。劇作家、小説家、シナリオライターが協力しながら一つの物語を描くことでお芝居自体が進んでいく。
その中、大切なシーンで登場人物である劇作家が言うある台詞が私は大好きだ。そしてだから松本さんの脚本を信じているし、大好きなんだと思う。


私がお芝居を観るのは、その時が一番、人間を好きだと思う瞬間だからだ。
そして、そんな私にとってあのワンシーン、人がそこにいて生きて、動くことで変わるということを信じた松本さんの言葉が、たまらなく好きで、だからこそ彼の描く作品を大好きだと思うのだ。


なんで長く書いてしまったけれど、明日から幕が開く「ボイルド・シュリンプ&クラブ」がともかくとんでもなく楽しみだというそれだけの話です。
大好きな劇団の、さらに大好きな人たちが客演で出演しているその舞台は、稽古期間のツイートを見ながらとんでもなく楽しみにしていたものなのだ。そしてその舞台を観たら、私はまた、ああ人間好きだなー!と大きな声で叫びたくなる、そんな気がしている。

手を繋ぐ話

今期、たくさんドラマを観ている。当社比ではあるし見逃してあとでまとめて観ようと決めているのもあるからあれだけど、たくさん見ている。
そして今見ている作品の中には、普段なら「好みじゃないな」と観ていなかっただろうな、と思うものもある。なんなら、ラインナップを眺めていたときにはこれは1話で離脱かなーと思っていた作品もなんだかんだ見続けそうだな、と思っている。
それが物凄く楽しい。これ、ツイートもしているし、なんならブログにも以前書いてるので、何回言うんだと自分に少し呆れるところではあるんだけど、どうしたって嬉しくて楽しいので、何度も言葉にしたくなる。
そうすることで、私はこの感覚を自分のものにしたいんだと思う。


ところで私は人と話をするのがわりと好きなんだけど、こないだ話していてすごく嬉しくなることがあった。話す話題は人それぞれ相手によって様々だけど、やはり、"推し"の話をすることが多い。その中である友人に推しの活動を見る中で「後悔したこと」の話をしてもらったのだ。


(あまり詳細には書けないなか念のため補足しておくとその「後悔した行動」は推しや他のファンに迷惑をかける類のものでは一切なかったし、何かマナー違反だ、と呼ばれることでもなかった。多くのファンが、そうしていることで、でも、その人は自身がやった後、違和感を感じた、という話だった)


推しに限らず、人との向き合い方、というのは人それぞれで、正解の形は人の数ほどあるんだと思う。
だから、私はその人がしたその行動が間違いだった、とは思わない。だけど、その人が自分の行動に違和感を感じた、というのはものすごく、分かる気がした。
し、同時にだからこの人から推しの話を聞くのが好きなんだよなと再認識した。
このコロナ禍においてエンタメや推しとの触れ合い方は今まで以上に多様化した。そして、その結果、今までにはなかった"違和感""間違え方"が生まれたのかもしれない。
これはあくまで、私を通しての結論だから、少しズレるかもしれないけど。
でも、その違和感を覚えたその人がこれからその推しさんの活動を観てどんなことを考えるのか、感じるのか、どうするのか、を私はまた聴いてみたいと思った。
だってそれは、きっとコミュニケーションや人間関係が生まれ続けてるからこそだと思うのだ。


推しだからコミュニケーションでも人間関係でもないでしょ、と言われるかもしれない。直接触れ合ったわけじゃないと言われるかもしれない。だけど、そこに人と人がいて、向き合いたいと思うならそれはもう立派な人間関係でコミュニケーションじゃないのか。
その人の表現が好きで、その表現を受け取ることが好きだとして。その"表現を受け取る"はコミュニケーション以外の、なんだというんだろう。
逆に、どれだけ身近な人でも向き合ってないそこには人間関係もコミュニケーションも存在しない。そんな風に私には思えて仕方ない。



私が後悔した、と聞いて嬉しくなったのは、それが生身のリアルな関係に思えたからだ。
好きな人との間で間違えるのはしんどいし辛いしできれば無い方が良いのかもしれないけど、
人は間違える。でも、その間違える、100点じゃなかったと思うのは相手が好きだからこそ、あり得ることなんじゃないだろうか。
相手にベストなやり方で何かを届けたい、と思っていなければ、あるいは受け取ろうとしなければ、きっと「違った」と気付くことはない。
一方だけの話なら、正解も間違いもなくて、ただそこに消費があるだけだ。するりと通り過ぎる時間があるだけだと、私は思う。
積極的に間違える必要があるかはもちろんまた別の話だけど、試行錯誤して、伝わるように、相手が喜んでくれるように(それは結果的に、そういうのが自分が嬉しいからこそ)することは、本当に、なんか、愛だよなと思う。


そういえば少し前、職場の人にそんなに人に会えなくて寂しいなら出会いに行けばいいのに、と言われた。
今はマッチングアプリもあるし、友達でも恋人でも作ろうと思えば知り合いがいない土地だろうといくらでも相手は作れるよ、と。
確かに、と検討してみて、いやでもこのご時世だし、とか色々考えながら、私はそういうのは必要ないな、と思った。
なんというか、それよりも今はドラマとか映画に出逢う時間にしたい、と相手に伝えた時「変わったこと言うねえ」と返された。


そうか、変わってるだろうか。私はそうは思わないけどな。


その違和感を、ふとその友人と推しの話をして思い出した。聴いた推しの話やドラマを手当たり次第に観ることがとても楽しいということを考えてる時に、蘇った。
そうか、私は、「あ、面白くなかったな」「合わなかったけどここは好きだったな」と思いながら観れる時間が、嬉しかったのか。


それは、後悔したり違った、という100点以外が生まれることが、生身の感覚だと捉えてるからかもしれない。


ドラマを怒涛の勢いで観ながら(本当にこんなにいくつもの作品を一度に観たのはほぼ初めてだと思う)私は、何度も思いがけない瞬間を味わった。面白い!と思ったり、え、なんでと思ったり。違うんだよな、と考え込んだり、その瞬間は言葉にならなくてもずっと小骨のように残る違和感について考え続けたり。

それって、すごく、コミュニケーションに思えた。少し前に放送された作品を観ることも多くて、その当時のことを思い出したり調べたりしながら"出逢い直し"をすることが楽しかった。

寂しいから、で自分の違和感(この時期に人と出会うことへの)に蓋をして動くよりか、よっぽど、正しく間違えたりズレたりしながら、思いがけず、好きなものが増えることの方がずっとずっと嬉しかったのだ。



違った、の中でどうしてだろうって考えたり、手を繋ぐ方法を探すことと、普段観ないドラマを好きになることをイコールにするこの感覚がどれくらい伝わるかは分からない。
私も結局、感覚でしかわかってないのかもしれない。でも、ともかく、普段「好きだろうな」だけでドラマを観ていた時とはまた違う幸せが今私にはある。
そのことに、友人と話していて気付けた気がする。

人は時々間違えるし、うまくいかないことだってたくさんある。そもそも、どれだけ似てても違うし、変わるから重なったりもしないのかもしれない。だけど、その時、手を離したくない・もっとしっかり手を掴みたいと思えることはすごく幸せなんじゃないか。

私は、なんというか、そういうことを考えてると無性に嬉しくなるのだ。

花束みたいな恋をした

これは、花束みたいな恋をした、にコンプレックスをゴリゴリに刺激された人間の感想だ。
誤解を恐れずに言うと、坂元裕二さんの作品を観るのが怖かった。
だってなんか、坂元裕二さんってお洒落な作品の印象が強すぎるのだ。台詞に洒落っ気があって、深みがあって、一つ一つの質量が重い。ちょっと捻ってあって、それこそ、花束みたいな恋をしたに出てくる麦くんや絹ちゃんが好む作品だと思えて仕方なかった。



そして、恥も外聞もなく白状するなら、私はそんな彼らにコンプレックスを抱いていた。
一つ一つのことにこだわれて、流行だとか社会だとかの目を気にせずに自分の好きなものをただ好きだと愛せる。
もう、そんなの、めちゃくちゃ格好良いじゃないか。お洒落じゃないか。
だからこそ、そんな坂元裕二作品を観るのが怖くて、そんな作品を好むふたりのラブストーリーなんて観ようもんなら身悶えしながら死んでしまうんじゃないかと半ば本気で思った。
だって、きっと彼らはお気に入りの音楽があって、古着屋で服を買い、レコードとか聴くのだ。今打ちながら偏見すぎて自分に引くけど、でもだってあれだろ、お気に入りの家具があって、こだわりのちょっとレトロだったりアンティークだったり、なんかカタカナのお洒落な感じのアレでまとめた部屋に住んでるんだろ。


残念ながらこちらは特に何かにこだわれず、と言って流行にも乗れずなんか薄ぼんやりした、どっちつかずの立ち位置でお洒落な人にも世間にも愛想笑いしてる感じですよ。
そんなコンプレックスと偏見にごりごり固まった私は、半ば本気でこの映画を観たら途中で身悶えして死ぬんじゃないかと思っていた。お洒落さや格好良さで人は死ぬ。オーダーメイドな人生を選びたいと思える人間への羨望で絶対に目が潰れる。その上べつに世間にも馴染めてるタイプじゃないから彼らをまたまた、なんて苦笑いすることもできない、確実に死ぬ。やってらんねえってなる。その自信だけはめちゃくちゃある。怖い。


そして、その予感はまあ、もちろん、めちゃくちゃ的中する。もう、なんか、冒頭の出逢って惹かれていくシーン、うわーー!!!!!!!!と羨ましさでハゲるかと思った。なんなら多分、心の中で二、三回禿げた。なんだろう、二、三回禿げるって。
手作りの生活たち、大切なもの、彼らだけの"共通言語"。普通になるのって大変だ、と呟く彼らが羨ましかった。特別な彼らがひたすらに眩しかった。


そして、眩しかったからこそ、生活に飲まれていく麦くんと絹ちゃんに、寂しくなった。
子どもみたいなこと、と言ってしまう言葉に傷付いた。いつかの言葉が届かなくなることが、共通言語が失われていくことが悲しかった。
あと、ほんの少し、悲しい寂しいと思える自分にほっとした。そこで、あのふたりのすれ違いを喜ぶような最低な人間になってなくてよかった。


あとさ、その、これは誰がそう思ったのかというのが難しいんだけど、観終わって数時間経って、思う。
特別、なんかじゃなかったんだよなあ。
たぶん、この話できるあなたが特別、世界で私たちだけなんてことはなくて。
さらに言うと、私と麦くんと絹ちゃんは違う種類の人なんかじゃなくて、
わりと当たり前にあちこちにいる人で、だからこそ羨ましかったし、寂しかったし悲しかった。


語弊をおそれずに言うなら、麦くんと絹ちゃんも、特別でありたかっただけなんじゃないかなあというか。
普通の人だった。
だからこそ、生活に飲まれていく彼らを悲しいと思ったんだな。


絹ちゃん、分かるよ。わかるんだ、でも実用書を読む姿を悲しいなんて思わないでよ。
なんとか二人でいられないかな、とファミレスのシーンで唸って、でも、いられないよなあと思った。
別れなくてもいいじゃん、やっていこうよ、という麦くんの台詞を思い出す。本当に、そうだよ。でも彼らのあの時間が特別であるためには、お別れしかなかったかもな。



私は、ゴリゴリの"労働者"だ。夢のある仕事をしてるわけでもない。よく、仕事で会う就活生に言っていた。憧れる仕事ではないかもしれない、将来の夢で挙げてもらえる仕事なんかじゃない。
でも、私は、毎日が楽しい。

あの頃の自分は、と考えて思う。たぶん、私は、将来こんなふうになりたいなんていう夢もビジョンもずっとなかった。
だけど今日、モーニングを気になった店で食べてのんびり街を歩き、本を読んで、映画を観て、それから昼間酒をする。それは、想像しなかった未来だ。なりたいとも、なりたくないとも思ってなかった。でも、わりと今、こんな生活が嫌いじゃない。


どっちが偉いとかどっちが正しいとか、
大人だ子どものまんまだとか、どーでもよくて、羨ましいとか共感とか、そういうのでも、ないんだよ。


そして、そんなことを考えながら思った。
お洒落で、ポストカードとか部屋に貼ってて色んなことを知っててこだわりがある絹ちゃんや麦くんも、「それっぽい」人なんかじゃないのだ。
それぞれに、彼らだけの人生を生きているのだ。

あの、好きなものを共有した特別な夜も、パズドラしかできないと呻いた日々も、どちらも変わらず、彼らの生活だと思う。
そこに、有利不利なんてなくてそれぞれに大変で、それぞれに幸せなんだろう。そうであって欲しい。彼らは彼らの幸せを、私は私なりの幸せを。まあ、そんなこと言っても、たぶん、生きてる限りどうなるんだ、って生きていくしかない。


だとして、彼らに「楽しかった」「幸せだった」と束ねて飾りたい時間があることは、とても、彼らのこれからにとって、心強いものだと良いと心の底から、願う。
そしてそれは、特別と呼んで、良いんじゃないか。

3年A組 -今から皆さんは、人質です-

先生の言葉は、届いたんだろうか。そんなことを考えるのは、野暮かもしれないけど。

今更だけど、3年A組を観た。
話題になったドラマなので、やんわりは知っていた。なんなら、1番肝になる結論……柊先生の目的は知っていた。そんな中、民王を観たことで菅田将暉さんのお芝居に今更ながら改めて惹かれた私はTverの配信をきっかけに観る機会を得たのだ。



さて、そもそもリアルタイムで刺さらなかったところの理由に配信を見ながらしみじみ思い至った。
リアリティ云々というよりかは大味という方がしっくりくる展開や設定の数々。それはなんというか、こう、絶妙なところだった。好きだな、というのとちょっと合わないな、というのの。
でもなんか、話外れるんだけど
Tverの配信で気になるドラマをわりと片っ端から観ていた。もう、それが物凄く楽しくて。
例えば苦手な役者さんとか、合うかなあと思ってた題材とか。そういうのが、いくつか合ったんだけど、それが面白かったんですよ。
楽しい、めちゃくちゃ楽しい…と噛み締めるように思っていた。楽しいだろうなと予測した作品が楽しいことも嬉しいけど、それ以上に「あ、こんなに面白いんだ?!」とわくわくするのは嬉しい。


もちろん、その面白い!は普段どストレートど真ん中に刺さった時とはちょっと違うんだけど、
それって、ふらっと入った居酒屋で通いてえ、とはならないんだけどあ、今夜ここで飲んだの最高じゃんって笑うような気持ちに似てる。
知ってる世界だけで構成されるより、楽しいんだよな、たぶん。



そんなわけで、私は3年A組をほんの少し、半歩くらい下がった感覚で観ていた。
それは冷めてたとかではなくて、なんか、また違った楽しい感覚だった。
しっくりこないことは時々あったんだけど、それは多かったんだけど、楽しかった。



しっくりこなかったのは
たとえば最初、柊先生の年齢設定が、しっくりこなかった。
余命幾らかだとして、大切な人が傷付いたとひて、その行動をするだろうか。いやでも、この年齢だからこの…言葉を選ばずに言うと突拍子もない、とんでもない…計画を選べたのか。そんなことをずっと考えながら観ていた。
生徒たちが柊先生の"授業"に感化され、影響され、変わっていく。誰にも理解してもらえないと閉じていた生徒たちが開いていく。


それを観ながらそうか、だからこの年齢じゃなきゃだめか、と納得した。
高校の時、果たして27歳の先生を自分が若いと観れていたかは微妙なところだけど、今アラサーと呼ばれる年齢になった、私は27歳が高校生とそう大して変わらない、とすら感じている。いやだって、私、全然あの頃から変われてる気がしないもんな。
それはともかく、だ。
だから、柊先生はこの年齢である必要があったし、きっと、生徒たちにも届いたのだ。
歳だけ重ねて、分かったようなことを口にする"大人"じゃなくて、
柊先生自身正解に迷いながら、方法を探しながら不恰好なくらい無茶苦茶な方法で、道を見つけようとするから。
だから、聴いてみようと思えたんじゃないか。
そうすれば、画面向こう、誰かに届くと思えたんじゃないか。



で、実際届いたんだろうか。
最終回の、弾丸のように湧くコメントともに、血を吐くような柊先生の台詞は、リアルタイム当時も観ていた。観ながらこのやり方って冷めて受け取られるんじゃないのかな、それとも逆にこれくらいのが響くのかな、とぼんやり考えながら。
その頃よりかは、彼の痛みを具体的にイメージしながら、それでも、やっぱり届くのかなあと思っていた。
実際、あれからも、いくらだってそんな「殺人」は日々、あちこちで繰り広げられてる。本当に人というものに心底、うんざりしたくなるくらい。いっそ、最低さは増してるんじゃないの、と思う。
でも、同時に思う。
たぶん、スタッフも、そして菅田さんを始めとするキャストも、分かってる。届かない、世界は変わらない。
実際、3年A組を観てると知り合いと話したときにあれ、サイコパスな感じの序盤は良かったのにと言われ、なんだか悲しくなったりもした。
ほら、届かないじゃん柊先生、と呟きたくもなった。


でも、多分、柊先生はそんなこと、分かってたんだよな。


浮いてるんじゃないのと思うくらいに大味の設定だって、なんか、そのバランスを勝手に感じていた。
なんとなく。
飲み込みやすいように整えられた形の中で、子どものように無邪気に信じてるというよりも、そうしていく中、一筋でも、と諦めすら滲む真剣さで、物語は進んだ。
なんかそれは、うまく言えないけど、すごくよかった。
バズって、届く範囲が広がれば、その先、どこか誰かひとり、手を繋げるんじゃないか。止められるんじゃないか。
大きく届けようとするよりも、全部に伝わると信じるよりも、そんな無謀な賭けにでも出ようとする彼らが、なんか無性に格好良かった。
そうか、柊先生はそうしたかったのか、となんだか斜め上の感想を抱きながら見終えた。少なくとも、ここには届いたと思い続けられたら良いな。

街の上で

※ネタバレがあります

不在を描いてくれるから、好きなんだろうか。
スクリーンの中に映る会話は、時々、思わず目を閉じたくなるほど居心地が良くて大好きだった。


街の上で、を観てきた。
所謂ミニシアターといわれる映画館で公開された作品で、なんか、それがすごく良かった。
街の上では、約一年前に前売券を買っていた作品だ。茶封筒に特典のステッカーと入れてずっと大切にしてきた。
そのチケットをようやく使える。そんなわくわく感を味わいながら映画を観れるのはそれはそれで、とても幸せだった。


この映画は……と打ちつつ、ほかの観たことのある今泉監督の作品もそうなのだけど……あらすじをどう書いて良いか迷う。
大筋の話をするならば、浮気をされ、その上だから別れて欲しいと言われた古着屋の青が学生監督の制作映画に(演技なんてしたことないのに)誘われる話である。ただ、これはあくまで大筋で、そういう話、と言ってしまうとどこか違和感がある。
むしろ、街の記憶の話という方が近いような気もするのだけど、それはそれでなんとなくズレてしまうような気がするのは私だけだろうか。
ただそれでも、やっぱり"下北沢"という街の記憶というか、温度感のようなものが映画のそこらじゅうに溢れていたと思う。


ネットで見かけた今泉監督とラッキーオルドサンのおふたりの対談がとても好きだった。

その中でも語られていたことですが、演劇が好きな地方出身者てある私にとっても下北沢って憧れの街の一つだった。
大学時代お芝居を観るために下北沢に降り立った時、ものすごく言いようもない気持ちになったことを覚えている。
青が生活の中で、あの街にいること。
その風景一つ一つに、いつの間にか馴染みの風景が増えたんだなあとじんわり、心の中、あたたかな気持ちが広がった。あの日、おっかなびっくりいつか降り立った私は気が付けば数え切れないほど、下北沢に行き、お芝居を観た。あるいは、友達とお茶をした。

あーーーあの街が好きだな、と映画の中、歩いたことがある道を見かけるたびに思った。そして、同時にもちろん、下北沢の話なんだけど"下北沢"だけの話ってわけでもないんじゃないか、と思う。


いや、間違いなく下北沢の話なんですが。
さらに言うと、街を歩けばお芝居のチラシを見かけ、すれ違う人はギターを背負い、単館系の映画のチラシが居酒屋には貼ってある。
そんなの、下北沢だろ!な気もするんだけど。
ただ、なんか、下北沢!って物語というよりも、文化が息づく街の気配、というか。


すごいな、今泉監督の作品を観るたびにそうだけど、本当に一つもうまく言葉にならないんですよ。
それは、もしかしたら救われた!感動した!あるいは、爆笑した!号泣した!なんてものとは少し離れたところにいるからかもしれない。


それは、青とイハのあの夜に似てる。
あんな夜が私は大好きだった。飲んだあと、少し話し足りなくて、話すような。
腹を割り切って話す、というと少し違う。ほんの少し気を使うし、でも、なんか時間のせいか柔らかく残ったアルコールのせいか、ふわふわといつもなら栓を締めるところが緩むような、そんか会話が私は好きだった。
お、よかったな、とそんな夜を越えるたびに思った。楽しいな、と思う。人生悪くねえな、なんてにやにやする。そう、にやにやするのだ。



あの眠い時間のなんとも言えない空気の中でしかできない会話は今、どこに行ったんだろうな。
ふとそう、さみしくなった。なりながら、ここにいたのか、とも思った。

なんとなく、街の上でをはじめとする今泉監督の撮る映画の中では、そんな空気の中で息をしているような気持ちになれるのだ。



元関取の人が言った、知らなかったんだ、という言葉。そこにあることとか、全部分かるわけではないけど、たしかにある。あるんだよな。
カメラを通して見ると変わった世界とか。
茶店で話す好きなものの話とか、それを聴いてる人とか。
聖地巡礼なんて言い方にするとズレてしまう、好きなものが存在した街とか。
あと、どれだけ色んな人に愛されてる人でも、本当に愛されたいたった一人とうまくいくかは分からないこととか。


そうか、好きな、手触りのいい(心地いい)ものがたくさんあったから、私は嬉しかったのか。
不在を考えることは、"居た"ことを覚えてることだ。だとしたら、考える時間は本当に愛おしくて私は好きだ。