えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

手を繋ぐ話

今期、たくさんドラマを観ている。当社比ではあるし見逃してあとでまとめて観ようと決めているのもあるからあれだけど、たくさん見ている。
そして今見ている作品の中には、普段なら「好みじゃないな」と観ていなかっただろうな、と思うものもある。なんなら、ラインナップを眺めていたときにはこれは1話で離脱かなーと思っていた作品もなんだかんだ見続けそうだな、と思っている。
それが物凄く楽しい。これ、ツイートもしているし、なんならブログにも以前書いてるので、何回言うんだと自分に少し呆れるところではあるんだけど、どうしたって嬉しくて楽しいので、何度も言葉にしたくなる。
そうすることで、私はこの感覚を自分のものにしたいんだと思う。


ところで私は人と話をするのがわりと好きなんだけど、こないだ話していてすごく嬉しくなることがあった。話す話題は人それぞれ相手によって様々だけど、やはり、"推し"の話をすることが多い。その中である友人に推しの活動を見る中で「後悔したこと」の話をしてもらったのだ。


(あまり詳細には書けないなか念のため補足しておくとその「後悔した行動」は推しや他のファンに迷惑をかける類のものでは一切なかったし、何かマナー違反だ、と呼ばれることでもなかった。多くのファンが、そうしていることで、でも、その人は自身がやった後、違和感を感じた、という話だった)


推しに限らず、人との向き合い方、というのは人それぞれで、正解の形は人の数ほどあるんだと思う。
だから、私はその人がしたその行動が間違いだった、とは思わない。だけど、その人が自分の行動に違和感を感じた、というのはものすごく、分かる気がした。
し、同時にだからこの人から推しの話を聞くのが好きなんだよなと再認識した。
このコロナ禍においてエンタメや推しとの触れ合い方は今まで以上に多様化した。そして、その結果、今までにはなかった"違和感""間違え方"が生まれたのかもしれない。
これはあくまで、私を通しての結論だから、少しズレるかもしれないけど。
でも、その違和感を覚えたその人がこれからその推しさんの活動を観てどんなことを考えるのか、感じるのか、どうするのか、を私はまた聴いてみたいと思った。
だってそれは、きっとコミュニケーションや人間関係が生まれ続けてるからこそだと思うのだ。


推しだからコミュニケーションでも人間関係でもないでしょ、と言われるかもしれない。直接触れ合ったわけじゃないと言われるかもしれない。だけど、そこに人と人がいて、向き合いたいと思うならそれはもう立派な人間関係でコミュニケーションじゃないのか。
その人の表現が好きで、その表現を受け取ることが好きだとして。その"表現を受け取る"はコミュニケーション以外の、なんだというんだろう。
逆に、どれだけ身近な人でも向き合ってないそこには人間関係もコミュニケーションも存在しない。そんな風に私には思えて仕方ない。



私が後悔した、と聞いて嬉しくなったのは、それが生身のリアルな関係に思えたからだ。
好きな人との間で間違えるのはしんどいし辛いしできれば無い方が良いのかもしれないけど、
人は間違える。でも、その間違える、100点じゃなかったと思うのは相手が好きだからこそ、あり得ることなんじゃないだろうか。
相手にベストなやり方で何かを届けたい、と思っていなければ、あるいは受け取ろうとしなければ、きっと「違った」と気付くことはない。
一方だけの話なら、正解も間違いもなくて、ただそこに消費があるだけだ。するりと通り過ぎる時間があるだけだと、私は思う。
積極的に間違える必要があるかはもちろんまた別の話だけど、試行錯誤して、伝わるように、相手が喜んでくれるように(それは結果的に、そういうのが自分が嬉しいからこそ)することは、本当に、なんか、愛だよなと思う。


そういえば少し前、職場の人にそんなに人に会えなくて寂しいなら出会いに行けばいいのに、と言われた。
今はマッチングアプリもあるし、友達でも恋人でも作ろうと思えば知り合いがいない土地だろうといくらでも相手は作れるよ、と。
確かに、と検討してみて、いやでもこのご時世だし、とか色々考えながら、私はそういうのは必要ないな、と思った。
なんというか、それよりも今はドラマとか映画に出逢う時間にしたい、と相手に伝えた時「変わったこと言うねえ」と返された。


そうか、変わってるだろうか。私はそうは思わないけどな。


その違和感を、ふとその友人と推しの話をして思い出した。聴いた推しの話やドラマを手当たり次第に観ることがとても楽しいということを考えてる時に、蘇った。
そうか、私は、「あ、面白くなかったな」「合わなかったけどここは好きだったな」と思いながら観れる時間が、嬉しかったのか。


それは、後悔したり違った、という100点以外が生まれることが、生身の感覚だと捉えてるからかもしれない。


ドラマを怒涛の勢いで観ながら(本当にこんなにいくつもの作品を一度に観たのはほぼ初めてだと思う)私は、何度も思いがけない瞬間を味わった。面白い!と思ったり、え、なんでと思ったり。違うんだよな、と考え込んだり、その瞬間は言葉にならなくてもずっと小骨のように残る違和感について考え続けたり。

それって、すごく、コミュニケーションに思えた。少し前に放送された作品を観ることも多くて、その当時のことを思い出したり調べたりしながら"出逢い直し"をすることが楽しかった。

寂しいから、で自分の違和感(この時期に人と出会うことへの)に蓋をして動くよりか、よっぽど、正しく間違えたりズレたりしながら、思いがけず、好きなものが増えることの方がずっとずっと嬉しかったのだ。



違った、の中でどうしてだろうって考えたり、手を繋ぐ方法を探すことと、普段観ないドラマを好きになることをイコールにするこの感覚がどれくらい伝わるかは分からない。
私も結局、感覚でしかわかってないのかもしれない。でも、ともかく、普段「好きだろうな」だけでドラマを観ていた時とはまた違う幸せが今私にはある。
そのことに、友人と話していて気付けた気がする。

人は時々間違えるし、うまくいかないことだってたくさんある。そもそも、どれだけ似てても違うし、変わるから重なったりもしないのかもしれない。だけど、その時、手を離したくない・もっとしっかり手を掴みたいと思えることはすごく幸せなんじゃないか。

私は、なんというか、そういうことを考えてると無性に嬉しくなるのだ。