えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ラーヤと龍の王国

世界各地で仲間を集めて世界を救う。
そんなある意味で「よくあるお話」の『ラーヤと龍の王国』にものすごく心を揺さぶられた。
全く予想外なくらい綺麗にぶん殴られたような気がした。


よくあるお話、と書いたけど、ラーヤは別に「世界を救いたい」と思っていたわけじゃない。
世界は、人々が自己利益だけを追求した結果、邪悪な魔物が溢れかえり崩壊してしまった。多くの人が石になり、また魔物のせいで人々の移動はかなり制限されている。
そんな中、世界が崩壊するきっかけの場にいたラーヤは父を石にされる。父をはじめ、自分の国の人々を石にされたラーヤは「自分の国」を救う為に危険を犯して旅をして回る。人を信じず、世界のため、というより【自己利益】のために行動する。
信じない、必要なら人を出し抜く。


そんなラーヤが出逢った最後の龍シスーは対照的に無邪気だ。人を信じる、すぐに仲良くなろうとする。贈り物をしようとする。泳ぎが得意以外の特別な力がないと彼女自身は言っていたけど、ある意味「人を信じること」は十二分に特別な力なんじゃないか。そう思わせるほど、シスーは明るく、当たり前のように人を信じる。


その姿に、あるいは世界の各地、ラーヤと同じように傷付いた人たちがラーヤのもとに集いまるで家族のようになっていく姿に、驚くほど揺さぶられたのだ。


ちょっとビックリした。自分でも驚くほど、ラーヤに心を動かされていた。
もともと、観る予定があったわけではなく友人からの「面白かった」に興味が湧いてふらっと観に行った。なんならほぼ徹夜明けで「こんな状態で映画観て大丈夫かしら」と少し心配すらしていたんだけど、観出して、そんな心配は吹き飛んでいった。



ラーヤはコロナの影響で上映期間が延期され、ようやく今年公開された作品らしい。
だけど、むしろまるで「今この時」に公開されるために作られたような気がした。
これは、あちこちで言われていることでもある。正体不明の魔物に翻弄され、失わないようこれ以上傷つかないよう逆毛立つ猫みたいに過ごす人々。信じることのハードルが高く、疑うことの方が簡単で安全で確実だ。


ラーヤを観て、私はなんかこのコロナ禍で色々…敢えてその言葉を選ぶけど…傷付いたのはこんな状況をもってしても人は協力し合えないどころか分断するのか、ということだったんだなあ、と気付いた。
私は、たとえ普段は協力できない人々も大きな敵や危機を前にしたら人々は手を伸ばせる、繋げるという物語をどこかでずっと信じていたのかもしれない。だからこそ、それが間違いだったと気付くことになる世界の様子に傷ついた。
そして、傷付いたということを誤魔化すように「ほら世界は最低なんだ」と嘯いた。良くはならないとどこかで聞いた言葉をそのまま自分のものにした。それはたぶん、物凄く格好悪くて、不幸なことだった。
例え、最終的に「やっぱり世界は変わらない、最低のままだ」と結論を出すにしても、今じゃない。何もしていない、手を伸ばして足掻き切ったわけじゃない今では、絶対にないのだ。



ラーヤでも、人々は大きな敵を前に疑う。人を信じない、助けようとしない。それはそれで「間違ってない」。簡単に人は信じられる、と言いはしない。それがどれだけ怖く難しいことか、ハッキリと描く。
その上で、ラーヤの中で描かれた「信じること」「協力すること」は綺麗事と一蹴するものではないと思うし、どちらかというと切実な祈りで、ほんと、すごくすごく良かった。


ラーヤの冒頭、ラーヤのお父さんは武器を手に取り闘うべきだというラーヤに語りかける。
世界の国々で作られる食材を合わせて作ったご馳走が美味しいこと、それをその世界のみんなで食べることは楽しいこと。
そのシーンの暖かな湯気の様子が、本当に好きだった。




この『ラーヤと龍の王国』は子どもと観に行って欲しい。そしてできたら、観終わった帰り道、手を繋ぎながら世界の分断はいつか繋げることが出来ると言って欲しい。
これは何も、本当の「子ども」のことだけじゃない。私はたぶん、あの時観ながら途中、隣に子どもの自分が座っていた気がする。それは幼少期のトラウマなんて話ではなくて、もっと根本的な「子どもの自分」の話だ。
もちろん、本物の子ども、とも行ってほしい。
いずれにせよ、観終わった時、その子を抱き締めて「まだ世界は信じるのに値する素敵なところだよ」と心から言える。そんな風に思えたのだ。