えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ヤクザと家族

[2021.1.31追記 ネタバレ有りの感想です]

生き甲斐って言葉ってすごく難しい。というか、危うい言葉だよな、と思う。
生きていて良かったと思えるなにか。このために生きているというなにか。
そんなことをついつい最近考えがちだけど、考えれば考えるほど、それが「ある」と思ってるからこんなにしんどいんじゃないか、と思った。
少し前に読んだ本に、時間という概念を人間が手に入れた話を読んでて、なるほどな…?と考えているんだけど、考える、から入っていってしまう迷宮のようなものはあると思うし
「甲斐」なんて途方もないことを考えるのは苦しい。あるかどうかも分からないことを、ある、と考えることは正しいんだろうか。


そんなことを思うのに、画面に溢れる「愛したい」という気持ちを見ていると心臓が軋むような気持ちになる。愛したい、愛したい。そうして、愛情を注げることを「生き甲斐」と呼びたくなるような、そんなことを考えてる。



ヤクザと家族、は1999年、2005年、2019年の三つの時間を軸に物語を描く。
タイトルにストレートにあるように、ヤクザの話だ。
しかし、抗争を描くのではなく、家族の物語を描く。
本当の父も母もいない、だけど家族がいる。
ある出来事をきっかけに拾われた男、山本が家族を得ていく。
その様を丁寧に丁寧に描いていく。ただ、同時に「ヤクザ」の物語だから家族を得てハッピーエンド、とはいかない。
ヤクザを取り巻く環境は時代を経るごとに変わるし、どうしてもその性質上、暴力がついて回る。
そもそも、柴咲組に拾われるきっかけになる出来事も暴力が絡んでいるし。


綾野剛さんが出演されていたMIU404の言葉を借りると「間違え続ける」ことになるシーンがわりと結構、たくさんある。



それでも何より、心が軋んだのは、そんな暴力の血生臭さがついて回る彼らがどうしようもなく、ただの人で、家族だったことだ。
オヤジを慕う山本の目は、父を慕う子どものそれだし、微妙にすれ違う兄貴と山本のやりとりは兄弟喧嘩のそれに見える。
それでも、彼らは「ヤクザ」である。
観ながら、別にこれはヤクザ賛美でもなくて、と考えてしまって難しいな、と思った。
ヤクザ格好いい!の映画ではないと思う。更に言えば、作中も描かれる彼らが「許されない」ことは必要な面もある。
じゃあどこで、と考えて、答えのなさに呻きたくなる。同時に、そこの答えを出すことがこの映画の答えでもないと思うんだけど。


愛したい、という気持ちは愛されたい、よりも切実で暴力的かもしれなくて、そして、愛おしく思う。
なんか、ずっと山本が愛したいって泣くみたいに生きるものだからずっと、観終わってから心が苦しい。
愛していたし、愛されていた。


感想を書きながら全然オチが浮かばないんですよ。いい話だったとも、後味が悪いとも言えなくて、なんとまとめたらいいか分からない。
ただなんだか、叫び出したいような、抱き締めたいような気持ちを持て余してる。
起承転結の、綺麗な終わりではなくて、答えを明示してくれるわけでもなくて、ただ、なんだか、シーンのひとつひとつを確かめるみたいに、そのひとつひとつが愛おしくて堪らなくて、心が軋むような、この苦しさはなんだろう。
愛の物語だ、という言葉を反芻している。
愛してるし愛されている、たまらなく、狂おしいくらいに。でも、それだけじゃままならなくて、なのに、ラスト、残ったものはあって、ああもう、どうしたら良いんだろう。

観終わって、入った店でぼんやり考え事をしていたら苦しい光景を見た。苦しいと思うことも私の勝手でなんなら下品さすらあったと思うんだけど、それでもなんだか、ああクソみたいだなあと毒づきたくなった。ままならない、と考えるのをやめたくなる。
壊れそうな崩れそうな社会で生きていくことはしんどい。山本が死ぬ時、心底安心してしまった。ああ、もうこんなクソみたいなどん詰まりにこの人はいなくていいんだとホッとした。
それがとてつもなく、残酷で良くないことだなって、ラストのふたりを見て思う。


分からないし、分からないからずっと考えてる。生き甲斐、なんて大袈裟な言葉かもしれないし、そんなことを考えても仕方ないとは思う。だけど、山本の笑顔が忘れられない。
愛したい、そうしてそれが生きる理由で生まれてきた理由だと、そんなことを、ずっとずっと、考えている。できたら、誰かを愛することが理由だったら、生き甲斐だったらいいのに。途方も、ないんだとしても。