えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

推しは推せる時に推せと言うけれど

みにくいと 秘めた想いは色づき
白鳥は運ぶわ 当たり前を変えながら


言わずと知れた、星野源さんの楽曲『恋』の歌詞である。
私は、それをラジオで聴きながら泣いた。なんでかわからないくらい唐突に泣いた。もう何度も聴いた歌詞である。逃げ恥だって観て、MVも何回も観た歌で。でもまあ、音楽ってそういうことがある。


そしてこれは、やっぱり何万回目かの私の「好き」についてのろくろである。
最早このブログではもうお馴染みになりすぎてるしお家芸みたいになりつつあるけれど、書く。


私は私の「好き」を基本的に信用していない。
好きだ、と自覚するのも時間がかかるし、好きになってからも本当に?と疑うので、
何度も何度も「いや好きだな?!」と驚くことになる。わりと何に対しても誰に対してもそうだ。


と同時に、だ。


私にとって「好き」は"ふっかつのじゅもん"である。
わりとどんな時も好きなことについて話せばある程度回復する。好きについて言葉を尽せなければすごい勢いで枯れるタイプの人間だ。
好きなものの話をしているのが、何より一番楽しいとよく思う。

だというのに、何で好きだという気持ちをこうも持て余すのか、いやむしろ、だからこそ、なのか。



"好きでい続けることは難しい"


それは、いつも思う。
自分の中の気持ちや思考回路に足を取られるからでもあるし、
自分にはどうしようもないことで変化し続けたりするからでもある。

例えば、相手が思ったようなひと/ものじゃなかったら。
裏切られた、と思うようなこと……まあ、そこまで強い言葉じゃなくてもどうしても「納得できないこと」があったら?

「全てを肯定できなければ好きではない」なんてことはとんでもなく傲慢だとは思うけど、
かといって、好きな人のことを否定するのは難しいししんどい。

し、なんでしょうね、人間って面倒なもので
一歩間違えると過剰に肯定したり否定したり、
なんかそういうところに足を踏み入れちゃうじゃないですか。
だからそうしないようにって用心深くいるとそれはそれでめちゃくちゃ疲れるわけですよ。

更には「好きだから」「好きだけど」「好きなのに」みたいな
好きを条件としたさまざまな「こうあるべき」の主義主張なんて始めるともう地獄絵図だなあ、と思う。
まあそれもこれも他所のこと、と割り切ってそれぞれ好きなものは好きなようにいようぜ、と思うけど
それだってまあ、簡単ではないし。
たとえばそれが単なる他人の行動とかで過敏になってるならまだしも、
なんならたまに過去の自分だとか未来の自分だとかと比較したり、みたいな思考の迷路に陥ると
「あれ、私は何考えてたんだっけ?
なんか分からんけどしんどいぞ」ゾーンに陥る。


もうそうなるとダメなのだ。
面倒臭くなるし、ふっかつのじゅもんはいつの間にか、毒の効果みたいなのを発揮しだす。
真逆だ。


更には
「もっとああしてたら良かった」みたいな、後悔はきっと好きなもの/人に対して
いつだってついて回りかねない不安感がある。


めっちゃ好きだって言う方なんですよ、私たぶん
前半と矛盾しますが。
感想とかも黙ってらんないし、好きだと思ったものはすぐに好きなんだー!って言いたくなる。
そうやっていても「もっとああしていたら」「もっと伝えたかった」ってなるんだよなあ。

昔、国語の授業で毎晩愛犬に好きだと伝えていたからいつかの時に後悔はなかった少年の話が出てきたけど、
あれ、めちゃくちゃすごいことだな。
その境地に至れる日ってくるのか?と
ほぼ「来ないな」という確信を持って思っちゃうんだけどどうだろう。


「推しは推せる時に推せ」は真理だ。
いつなくなるか……それは生死だとか活動するしないだとかだけの話ではなく、そもそも「好きという感情」も含めて……分からないんだから。


とはいえ、今まで書いたような思考の迷路に陥った状態だと自分の好きという感情の面倒臭さに「嫌だあああ!」と叫びたくなる。
いらねええええ邪魔あああああ!と"ふっかつのじゅもん"と呼んだ手のひらを高速で返してそのままお引き取り願おうとしてしまう。
だって、宝物であればあるほど、その感情がいつか、凶器になってしまう可能性があるのだ。


そんなことを考えてなんとなく、距離を掴み損ねてしまったものが一体今まで人生の中でいくつあるだろう。
きっと私は、そういう意味では「推せる時」を自分から手放して失くしてしまったのかもしれない。

自分の身勝手でみにくい思い込みや不安によって。


みたいなことを、最近考えていた。
どうにも、好きなものを楽しむ体力が落ちてたりしていて。
それが単純にその対象への興味が薄れたのか、とかしたくもない仮定をしたり、
その他諸々考えて、そして考えれば考えるほどに嫌になって、
そんな中、火曜深夜に恋の歌詞がぶっ刺さって泣いた結果、こんなろくろを回している。


なんでか分からんけど唐突に、と冒頭書いたけど
本当は少しわかってる。
こないだ、大泉洋さんのアナザースカイを観た。
大泉洋さんも私にとっての"ふっかつのじゅもん"の一人である。
同時に「好きと呼んでいいか迷ってるひと」のひとりだ。
それはかつて堂々と好きだ!と言っていたからこその迷いだ。例えば、バラエティの追っかけ方だとか出演作の見方だとか。
そういうのが、不安になりながらもじゅもんとして唱えまくっていた時期と変わってしまった。
それでも、好きだとは思っているけれども。
どうしても自分の中で引っかかって小骨みたいなものと好きだ、という言葉を飲み込むことが増えた。


ただ、そんな中観たアナザースカイで、
なんかめちゃくちゃ素直に「あーすきだ」と思った。
だからとかだけどとか、うっせー!って思う暇もないくらいただただ「あーこの人が好きだ」と思った。良いとか悪いとか知らね、って笑ってしまいそうだった。だってなんかもう、好きなんだもん。

そう思うと私の好きはずっとそこにあったんだろう。形を変えようがそこに。
どうしたってずっと、ふっかつのじゅもんなのだ。そしてそれは、唱えるたび、血肉になって今もすぐそばにある。


推しは推せる時に推せ。
推せる時、はきっと「好きだ」と思った時だ。迷っても良いし、不安になっても良い。
「離れた」なんて思うこともあるかもしれない。
だけどどうなろうが、好きだった時間は消えやしないのだ。足りないとか足りたとか、そんなこともどうでもいいんだ。
ただ、そこに在っただけなんだから。


『恋』の歌詞はこう続く。

胸の中にあるもの いつか見えなくなるもの
それは側にいること いつも思い出して


なんだか、そんな歌詞がなくなったりしないのか、とほっとしたばかりの私にはいつもと違って聴こえて、べそべそ泣いた。
きっと、今日のこの『恋』を好きだと思った気持ちもまた、明日の私の一部になる。


だからやっぱり今日も私は、好きな人が・ものが、たまらなく好きで好きで仕方ない。