えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

影裏

知らなかったあなたを、愛していたと言ってもいいか。
知っていた、少なくとも自分は差し出していた、そう思っていた関係性が崩れる時、それはどれくらい怖いことだろうか。



「哀しみも過ちも、大切な人のすべてを愛せますか?」

これは、影裏のキャッチコピーの一つである。



あらすじ(公式サイトより)


今野秋一(綾野剛)は、会社の転勤をきっかけに移り住んだ岩手・盛岡で、同じ年の同僚、日浅典博(松田龍平)と出会う。慣れない地でただ一人、日浅に心を許していく今野。二人で酒を酌み交わし、二人で釣りをし、たわいもないことで笑う…まるで遅れてやってきたかのような成熟した青春の日々に、今野は言いようのない心地よさを感じていた。

 夜釣りに出かけたある晩、些細なことで雰囲気が悪くなった二人。流木の焚火に照らされた日浅は、「知った気になるなよ。人を見る時はな、その裏側、影の一番濃い所を見るんだよ」と今野を見つめたまま言う。突然の態度の変化に戸惑う今野は、朝まで飲もうと言う日浅の誘いを断り帰宅。しかしそれが、今野が日浅と会った最後の日となるのだった—。



もともと、思えば予告で何度か見かけて、観たいなと思っていた作品の一つだった。それをなんだかんだと観る機会を逃し、綾野剛さんの魅力にハマり作品をいくつか見ていく中で、勧められて再会した。

言葉が少ない作品である。言葉、というのは台詞のことで、画面いっぱいにきっと表現は溢れている。役者たちの表情や動き、画面越しの空気感も、音も、そして何より映し出される景色や色がこれでもかというほど、伝えてくる。


まず、なんとなく、予告から得ていたイメージと違っていた。
今野に対する印象は特に見ながら少しあれ?と戸惑うほど違っていた。しかし、別にそれも、予告から裏切られたということではなくて、
かつ、なんなら予告などで殊更に「事前情報」が入っていたら損われるものも多かっただろうな、と思う。
そう思えるくらい、一つ一つが丁寧に「言葉」以外の全てで尽くされ、語られていく。
それはとても、居心地の良い時間だった。

そして同時に思うのは「こうして受け取ったと思ってることは『正解』なんだろうか」ということだった。つい、そう思って…特に後半のあるシーンについて「あれ、こういうことであってる?」と思い立って…ネットでいくつか感想記事や考察を読んだ。読んで思った。

どっちでも良くないか?


もちろん、制作側の「正解」はあるだろう。これを撮りたいという目的や表現したかった隠喩表現もたくさんあるんだろうな、と思うくらい、表現豊かな映画だ。だからこそ、私はつい考察サイトを開いた。だけど、そうしながら、いや、違うな、と思い直した。


”一番心を許せると思っていた相手が、
自分の知らない一面を持っていたらどうするか"


これはこの映画の一つの大きな主題である。
自分が知っていると思っていた、好ましいと思っていた相手に知らない一面があったら、
いやむしろその「知らない一面」こそが、相手の『本質』だったらどうするか。


ところで、私は同時になら、と思うんだけど。そもそも「相手の全てを知ってる」あるいは、「相手に包み隠さず自分の全てを曝け出してる」こと、そのことをイコール愛だ、というのはいかがなものだろうか。
いかがな、っていうか、まあ、私はなんとなくそう言われるとつい反論したくなるという話なだけなんだけど。


離別の川のシーン。
日浅は何をしたかったんだろう。
彼の恋心は虚像だと笑いたかったのか
自分の罪を晒して断罪されたかったのか。

そのどちらでもあるように思うし、どちらも違うような気がする。
なんなら、日浅自身「何がしたい」なんて分かっていたんだろうか。


観れば観るほどに、進むほどにわからなくなる。分からなくても良いか、と思う。目線の意味は言葉になる一歩手前でぐるぐると喉を詰まらせてる気がする。
雨の中、焼けつくような彼の表情を見てそれでも思った。


知らなかったあなたを愛していたと言ってもいいか。確かに心が軋んだ、それは、紛れもなく、本当だ。


それもこれも、そう思いたいだけの感傷かもしれない。だけど、それでもいいじゃないか。