えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

フード・ラック! 食運

昔、得意料理は何かという話になって特に浮かばなかったことに焦った私は「得意なのはおいしく食べることですかね」と誤魔化したことがある。それを聞いた一人から、それってすごく素敵ですね、と声をかけてもらったのが照れ臭くて、嬉しくて妙に記憶に残ってる。
そんな時のことをふと思い出した。
美味しく食べることが得意。そう言えるのは、もしかしたらものすごく、幸せなことなのかもしれない。




フード・ラック! 食運は、フリーのライターである良人が母の味を探す物語だ。
今はない幻の人気焼肉店「根岸苑」
そこの一人息子であり、母の味に触れてきたことで食に対して奇跡の「食運」を持つ良人が
母の余命が僅かであることを知り、
母の味を求めて様々なお店をめぐっていく。

「もし焼肉が最高の演技をしたらどうなる?」がそもそものコンセプトにあり、劇中、かなり丁寧に「肉」の演技が描写されていく。
そう書くと随分と所謂「トンチキ映画」にとられそうだけど、そんなことはないというのは試写会時点からかなり話題になっていた。



フード・ラックで焼肉たちが最高の演技をして伝えようとするのは「食べること」だ。
そしてその「食べること」のためにはまず「作る人」がいるのだという、当たり前といえば当たり前の、だけど大切なことをジモン監督は丁寧に描いていく。


大学時代、個人経営の焼肉屋さんで働いていた。第二の家だと思うようにと鷹揚に笑った店長は、面接といって初めての時は一緒に焼肉を食べる。
食べながら、主に店長の話を聞いたり、普通に世間話をしたりする。それから、良いな、と思ったら「予定カレンダーに書いて帰り」というのだ。
その判断基準は結局最後の最後まで分からなかった。ともあれ、そうしてそこで働くことになった私は何度も何度もお肉を捌き、盛り付ける店長のお仕事を見てきた。
何かに夢中になるとご飯を食べるのを忘れがちな私をバイトがない日にも呼んで、ご飯を一緒に食べようと言ってくれる人だった(これは私が特別、ということではなくて、バイトにはみんなそんなふうに接してくれていた)
厨房でこんがらがった頭を整理しながら雑談をして、店長の仕事を見て、お客さんにお肉を持っていく、時々お客さんとも話す。
そんな何気ない時間が私はすごく好きだったな、ということを映画を観ながら思い出していた。


焼肉ってお肉を切って出して、お客さんが焼いて、ってする、そんなシンプルなものなんだけど
お店ごとのカラーがあって、それこそ切り方一つ、焼き方ひとつでがらっと変わっちゃうんですよね。ああそうだな、そういうの、面白かったんだよな。
そんなことをこの映画を観ながら思い出した。どんな店でもそれぞれに方法があり、工夫をもって、料理が提供される。
その様子が物語上必要だからという理由だけで片付けるには勿体ないくらい丁寧な描かれ方をする。
ともかく見ていると「料理」が好きなんだろうな、と伝わってくる。美味しい料理も、それを作る人も、堪らなく好きで好きで仕方ないんだという視線が見えるようだった。



そして食べるというどんなことがあろうがなくならないその……時々は面倒にすらなってしまうそのことを、そんな風に愛している人の目を通して見るのはすごく、なんかもう、良かった。
誰かの一手間が入って、差し出される「ご飯」も、それをそれはそれは幸せそうに食べる姿もあまりにも最高だった。


母の味、というと「愛情」や「祈り」みたいな話になるけれど、
フード・ラック!で徹底的に描かれるのはそれ以上に「一手間の仕事」だ。美味しくなるのは、奇跡や魔法ではない。誰かの仕事の結果だ。
そしてそれは矛盾するようだけど、あなたが笑ってくれますようにという極シンプルな願いからできてる。



大学を卒業して、仕事で身体を壊したことを報告しに行った時、情けなさでぐちゃぐちゃだった私に店長はいつも通り、ご飯を食べようと言った。結局、難しい話なんて何一つせずに、ただいつものようにご飯は「いただきます」で始まって「ごちそうさま」で終わった。
ただ、つくちゃんご飯はちゃんと食べや、と店長が言ったのだけは覚えてる。



美味しいと思うこと、誰かが……それは自分も含めて「おいしくなりますように」と手を動かしてくれたこと。
そんな美味しいご飯が作った身体で、今日も過ごすこと。
フード・ラック!は、誰かを「成敗」する話でもなく「情による魔法」を訴えるでもなく、最後の最後まで「毎日生きて続ける人」を肯定する、明日のご飯が美味しくなるための魔法みたいな映画だった。