えす、えぬ、てぃ

お芝居の感想など

志摩一未は存在しないのか?

志摩一未、という人は私が本当に久しぶりにのめり込んだ「存在しない人」である。
推しはたくさんいるけれど、そして好きなキャラクターももちろんたくさんいるのだけど
それでもこののめり込み方を「キャラクター」相手にしたのはずいぶん久しぶりだ。


MIU404というドラマの主人公のうちの1人である彼は、星野源さんが演じている。
「存在しない」虚構の人だ。
もちろん、星野源さんが演じている以上、志摩と源さんは同じ人である。
そういう意味では、逃げ恥の平匡さんやコウノドリの四宮先生とも同じひと、だ。
でもやっぱり、志摩と彼らは別の人間であり、そうである以上、「存在しない」のだと思う。
例えば、源さんと志摩は微妙に表情が違う、と思うし話し方だって、やっぱり同じ声だけど、違う。
そう思うと、源さんってすごいなあとしみじみ思うところでもある。


MIU404は私にとって、大きな意味のある作品になった。だからこそ言葉を尽くしたいのだけど、纏まらず、なので、一度、志摩一未その人について文を書きたいと思う。


相棒である伊吹が「野生のバカ」だから冷静沈着な、とよくある凸凹コンビを想像しそうなところだが、その実、全然冷静沈着ではない。もちろん、頭もキレるし、そういう意味では頭脳担当ではあるけど、案外と沸点は低いし1話時点でキレるわゴミ箱蹴り飛ばすわ(アドリブ!好き!)極め付けは配属初日に犯人相手にカーチェイスをして車を廃車にする。
冷静沈着、のれの字もないようなキャラだ。

さらには、相棒殺しの過去を背負いながらも別に「影のあるキャラ」でもない。もちろん底抜けに明るくもないが、よく笑い皮肉を口にし冗談も飛ばし、何よりわりとよく食べる。
それでも時々は魘され、自己嫌悪をしたり誰かに当たったり、なんかもう、ともかく人間臭い人なんですよ。
6話で、相棒殺しの過去と志摩自身が知らなかった事実が明かされても彼は分かりやすく救われることはない。
彼にとっての事実は変わらないしただ生き続けるのみだ。ただそのまま、ブーメランを喰らい続けるとハッキリと口にする。それでも、何かが溶けるように柔らかく変化もしていて、もう、そのバランスが本当に好きなんですよ。



ブーメランを喰らい続ける志摩が、清廉潔白でいようとすることに疲れた、誰も信用しないと口にする彼が正しく在ろうとすることに惹かれていた。
危うい言い方を敢えてするなら、救われてすらいたのかもしれない。
たぶんあの作品上一番自分が共感できるキャラクターだった、というのもある。ぶんぶんと何回台詞に頷いたかも分からない(これもある意味で「人は見たいものしか見ない」の象徴だなあ、とも思いはするけど)

そんな人が伊吹という相棒に恵まれ、仲間に恵まれ、そしてそれでも傷付いたり疲弊することに。そうして足元がぐらぐらの中でも真っ直ぐ立とうとすることに。
そこで描かれているのは虚構だったけど、でも大丈夫だ、と背中を叩かれるような気持ちになっていたのだ。


それは、何も志摩の描写だけに留まることではない。
どの話も行き過ぎたバッドエンドでも、都合良いハッピーエンドでもなく、
出てくる人たちも超人的なスーパーヒーローや悲劇の人や、どうしようもない極悪人でもない。
MIU404で一貫して描かれたのは地続きの、私たちと同じように働き時には悪態を吐き、それでも少しでも正しいスイッチを押したいと思う、押そうとする人たちだった。


ところで、スイッチの話である。


人のこれからを左右するスイッチ。
そのスイッチは押せない。もしくは気が付いたら押してしまってる、あるいは押せなかった、ただそれだけだと思っていた。

だからこそ、正しい方のスイッチを押せますようにと祈るしかできないのだと。

私にとって祈るということはもしかしたら「そうならない」と思っているということかもしれない。
そんなことはありえないと思うから、祈る。せめて、という最早破れかぶれに近い感情でせめてせめて、と祈っていた。
そんなことを8話を観終わった後に考えていた。
人は人のスイッチに意図的にはなれない。こうなればいいと痛いくらいに思うことしかできない。
それはある意味で、最終回で久住と伊吹があの海のそばで話していた内容に近い感覚があった。神様の裁量。時々、人は自分を神様だと勘違いしているかのような傲慢さでそれをできている、と勘違いしているけど、そんなことない。人は、スイッチを意図的に押すことなんてできるわけがない。
そんな悲観的な感情は、最終回で見事に砕かれた。

陣馬さんが目を覚ます。それは、色んな人が陣馬さんな目を覚ますようにと祈って積み上げてきた小さな善意がスイッチになった。
そしてそれは回り回って404の「最低の事態」を回避するスイッチになる。
それだって「意図して押したわけじゃない」と言ってしまえばそれまでだけど「押したい」の積み重ねが形になったのは間違いないわけで。

なんか、ずっとそうなんだよなあ。
MIU404は、容赦もないけどその上で、人の善意というか、善意じゃないな、なんか「善く在ろうとすること」を描いてくれたような気がする。
”間に合う”ことを願い、足掻き伸ばした手が届くことを描いた。それを私は、エンタメの誠意だ、とも思う。


もちろん、ハッピーエンドであること=誠意というつもりは毛頭ない。それでもMIU404があの形の物語になったのは「彼ら」が「今」作った結果だと思っているし、その唯一無二という意味では、間違いなくそれは誠意なのではないかと思う。


毎週、この時間になれば「絶対にワクワクできる」。その約束がどれだけ心強かっただろう。


面白かった。
何より、それが大きい。面白くて、金曜の22時には絶対にわくわくできる。ドキドキして頭の中をぐちゃぐちゃにするくらいの、エンタメに出会える。

今回、インタビューや鼎談含めて楽しんだ位大好きな作品になったMIU404。
伊吹藍役の、綾野剛さんの言葉が頭に残っている。


「…人との距離が空くっていう、2mっていう距離がテレビっていうものを通してだとか、
音楽っていうものを通して、縮めることができるのか。
わからないけど、信じてやる」


そうだ、物凄い熱量としかしそれに振り回されずに見つめ抜く冷静さで作られたドラマはきっと、祈るように押されたスイッチだった。

そしてそれは、確かに今の自分にとって必要なスイッチの一つだった。


エンタメは観る人の地獄や絶望を救ったりしない。どれだけその世界で心を躍らせようが、終われば容赦ない現実が待っている。
でも、その”心躍らせる時間”を作ったのが同じ「人」なら。地続きの「人」なら。それは、掛け替えの無いエールなんじゃないか。


そんなことを、虚構である志摩に心を傾けまくりながら思った。
共感できる、だけど敵わないくらい格好良いその人に目を奪われながら思った。ただでさえ、心臓がぶるぶる言ってるのに「生きて俺たちと同じ地獄で苦しめ」という極め付けの台詞がくるものだからしんどくて嬉しくてうーうー言いながら泣いた。

そうして、極め付け、この2020年に本当に「地続き」になった404の彼らに目を奪われた。びっくりした。ちょっともう、それは、ダメ押しがすぎるじゃんか!と笑っちゃいすらした。
間違えてもここからか、と志摩が笑い、そういうこと〜!と楽しそうに返す伊吹の姿を、0地点から、という言葉を目に焼き付けた。


志摩一未は虚構の人だ。
だけど、あまりに強烈な印象とともに、404がすぐそはを駆け抜けていくものだから、どうにも私は、彼らが「存在しない」とは思えない。
だからなんだか、「仕方ねえ、ここで一緒に苦しむかあ!」なんてことを笑いながら言っちゃうんだよ。