えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

私は辿り着きたい場所が欲しい

頑張ることを考えてる。
最近、仕事でのたうち回っていてそれを目下なんとかしたい。したいんだけど、原因が実はハッキリしない。
あえて言うなら、この間仕事の偉い人から突然言われた「社会人として全然ダメ」「甘い」って言葉がぐるぐるしてるんだろうな、というそれっぽい理由は見つけられる。
もうこの歳なのにそんなことで凹むなよ、とかそんなこと言われてるなよって思いはするんだけど、まあでもあえて言うならアレだろうな、とは思う。言い訳をするなら何か仕事でミスしたわけでもなく、なんなら普段の私の仕事の様子なんてほぼ見たことない人から言われたのでまじで出会い頭事故みたいなそれなんですが。だったら余計に気にするな?それは確かにそう。

 

 

ただ、この間、友人さんと(って書いてしまう!おそれおおくも!)リモートで飲みながら喋ってて、話してあれ?と思ったのだ。
いやなんか、そんなことか?私しんどいの?と口にしながら自分の中でざらっとした違和感があった。
もしかしたら情けない自分を認めたくないからという理由で生まれた違和感かもしれない。


どこまでなら頑張って良いか。

逃げろって言ったって逃げられない、と思う。

 

うーん、これはちょっと底意地の悪い書き方ですが。
この間、MIUというドラマの中で「通報したって次の仕事を警察がくれるわけじゃない」って台詞があって唸ってしまった。
死ぬくらいなら逃げろ、は正しい。絶対的に正しいんだと思う。
ただ、逃げたってどうなる、っていう気持ちも確かにある。

こう書く中で誤解して欲しくないのだけど、
逃げろ、と心配してもらえることはとんでもなく有難い。めちゃくちゃに有難い。そこにんなこと言ったって仕方ねえじゃんなんてことは思ってない。うん、矛盾はするんだけど。

私はたぶん、どっか、逃げろって言ってくれる人の優しさに甘えて無理をしてるのも事実なんだよな。
アクセル踏み込み過ぎそうになった時に「いやでも、それは心配してくれた人に失礼だろ」って止まれる。そういうのは実際、あるのだ。し、たぶんそれが無かったなら全然話は変わってただろうなって思う。

 


みたいなのを(なんなら似たような文を他にもいくつか)文字アプリの下書きに残すくらいに、のたうち回っている。
でもそれって、突き詰めてしまえば仕事だけじゃなくて、いや、大部分は仕事なんだけど漠然とあった居心地の悪さに直結するのかもしれない。


私は今年、大きく環境を変えたんだけどその1番の理由はしんどい思いをしたほうがいいんじゃないか、という焦りからだった。
頑張ってないつもりも、難しいことにチャレンジしてないつもりもなかったが、それでもなんだか足りない気がして、その足りなさを埋めるには「しんどい思いをする」しか方法か浮かばなかった。
それはある意味で物臭の極致だ。頑張れるか分からないからしんどい「頑張らないとどうしようもない」状況に身をおこうと思った。

そんな中、その「しんどい環境」で頑張ってて手応えはない中でそれでも続ければ、と思いつつやっている中で「頑張るとかじゃない」と言われたことでなんとなくぽきんと、折れたのかもしれなかった。まあ確かに、ここで評価されるのは頑張ったか頑張ってないかじゃなく、気に入られたかどうかで、更に言えば金銭的な価値を生み出せたか、だった。
まあそのどちらも必要だとは思うし、なんなら別にこのブログで仕事の愚痴を書きたいわけではない。

 


ちょうど、最近、LDHの夢についての記事を読み、ぐるぐると考えていた。
頑張るのは、揶揄されることなのか。
がんばれ、という言葉や夢の尊さを語ることは押し付けなのか。でも、私は彼らの音楽の「無理をするな」と言わずに背中を押す歌詞に何度だって元気をもらったけどな。

一方で、「頑張る」ことの危険性も知ってる。なんならバッチリ仕事で身体を壊したことがある私にとって、最近の淵に立ってる感じ、は馴染みがありすぎて、怖かった。

 

 

一度、お医者さんに聞いたことがある。
私の病気は再発しますか、また、動けなくなる日がくる可能性はありますか、あるとしてそれはどのくらいの確率ですか。
その時お医者さんは「病気になることは悪ではない」という前提で、再発の可能性はあることと、もしなったとしてまた治したら良いという話をしてくれた。
最近その時のことをよく思い出すのは「じゃあその再発っていつやねん」ってのと「身体に負荷をかける無理、とやるべき努力の違いってなんだ?」と考え込んでいたからだ。

 

 

結局、友人さんに付き合ってもらいながら、
努力すべきと無理の違いについて考えていて、
逃げなかったとして負けることはあるとか自分だけだと気付かなかったことを聞きながら、いまだにまだ考えている。

 

 

そうして、こんな誰が読むのか、読んでもらえたとして楽しいのか分からない記事を書きながらふと浪人時代を思い出した。
成績が思うように伸びずかと言ってやる気も湧かず、だというのに親の入院で家の一切を任されていた時期がほんの短い期間だけどあった。
その時も自分なりになんとか頑張っていたわけだけど、父に「もっと家族の為に頑張ってくれ」と言われ大喧嘩になり、次の日予備校をさぼった。
サボって本をひたすら読んでる時に何故か唐突に「海に行こう」と思った。こういう時は、海に行くものだと相場が決まってる、と何故かめちゃくちゃ興奮しながら納得して、自転車を数時間走らせたのだ。

 

しかし結局、筋肉痛になりかけながら向かった海にはなんにもなかった。
広い海や伸びる水平線に心動かされることもなく、足痛えな、同じ距離また自転車漕ぐのか、とうんざりしながらさして美味しくないお手製の鮭チャーハンを食べながら海を見ていた。

 

 

なかったんだよなあ、よく漫画やドラマで観るようなものはなんにも。これが、漫画ならなんらかの気付きを得て帰るとこだろ、と思いながら、でも妙にすっきりしたのを覚えてる。現実逃避の先には何もないのだ。
結局それからうんざりしつつもなんとか帰って家族の夕飯を作り、予備校の課題をした。


今、すべき努力と無理の違いは行き着きたい先があるかないかでは、という仮説を立てた。まだそれは仮説でしかない。たぶん、なんならその仮説の結論が出る前に行動に出るかもしれない。
ただ、やりたいことがあるかないか、行きたい場所があるかが努力と無理の違いな気が、今ものすごくしている。
それは辿り着きたい場所があるなら、きっとなんだって栄養になるだろうな、というそんな感覚からだ。

 

だとしたら、私が考えるべきは場所どうこうよりも何をしたいのか、なのかもしれない。

 

 

夢を持て、と過剰に言われることがうんざりだっていうのも
ありのまま過ごしたいっていう「等身大論」も
同時に共感はしている。

ただ私はそろそろ、辿り着きたい場所が欲しい。

 

そういやあの予備校の海を観た帰り道
寄ったTSUTAYAで借りて久しぶりに観たNACSのお芝居で大学に行きたい、と初めて真剣に思ってそしたら急に勉強が楽しくなった。
そう思うと、まずは動いてみる、は悪くないのかもしれなかった。