えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

好きな作り手の方の話をする

なにを今更と言われるかもしれないが、好きな人の話をする。
このブログで、さんざっぱら、してきたけれども、最近妙にビビってしまうことがあって、それはとどのつまり、好きだ、と言いすぎることは怖いことじゃないだろうか、ということで。
これはもはや、このブログのサビのようにも思われるかもしれないけど、私はいつも、新鮮な気持ちをもって、ビビったり安心したり、開き直ったりしている。
LDHにハマって「届かないから安心する」ことを知って、少しそのビビリは加速した。
変な話、きっと、LDHの推しはこの文を読むことはないからと、フルスロットルで文を書いた。

 

誤解されたくないのは、読まれることの多い小劇場についての文でも、手加減というかなあなあで書いたことはない。そんなことをするくらいなら、私は文を書かないと決めてる。誓って。
だけど、例えば作品の感想として矛先……という言い方もアレだけど……を分散したり、ファンレターとして一個人に宛てる時はなるべくマイルドになるよう心掛けたりと、なんか、そういうことをしていて。
だって、私の好きだ、ってエネルギーがもし万が一にも、迷惑になったら申し訳なくて消えてしまいたくなるだろうし。


そんなことを常日頃、考えていて、考えてる中で、つい、弱音が口を、というか指をついて呟いたことがあった。つい最近のことだ。

 


作品ではなく、好きな役者さんただ一人について文を書いても、迷惑じゃないだろうか。

 

 

これから書く分は、その時もらったいいねに背中を押されて書く。
もらったいいね、を私はずっと「書いていいよ」と受け取ってて、
おおう、じゃあ本当に書いちゃうからな、本気だぞ、書いちゃうぞ、とそわそわ考えていて、ようやく、それを、形にする。


書いちゃいますからね、分からないけど、迷惑かもしれないけど、もう、好きだって気持ちのまま、書いてしまいますからね。

 

 


彼の好きなところはたくさんある。ありすぎるほどにあるのだけど、一旦、今まで、もしかしたらあまり文にしてこなかったことから初めに書こうと思う。
私は、吹原さんの演技としてのお芝居がたまらなく好きだ。


吹原さんのお芝居、と思い出して真っ先に浮かぶのは御家族解体である。
正確には彼は「ポップンマッシュルームチキン野郎」の作品の多くに出演しているから、
思い出す作品は多くある。
あるのだけど、私は、御家族解体がたまらなく好きで、好きな理由が吹原さん演じる「お父さん」なのだ。

御家族解体には、大きな山場はない。ただただゆっくりとろくでもない家族が解体へと向かう物語だ。


私は、初めて観た当時のブログで「言葉だけ聞いてるとオチに納得いかない」と書いている。
今は、そこまで強くは思わないけれど、でも当時そう書いた自分の気持ちも分かるのだ。
いや許すの?!と言いたくなる瞬間はある。あるんだけど、許すよなあ、とも思う。
今、この年齢だからというのもあるけど、あの当時から。

「ただ、抱きしめるところを観て、何もかもを理屈では片付けられないかあとも思う。」
と書いていた。

吹原さんの演技って不思議で、こんな瞬間がめちゃくちゃあるんですよ。
なんか、納得してしまう。受け入れてしまう。
委ねてしまう。
あれはなんなんだろう。考えてるけど、わかんねえんだよなあ。

 


吹原さんは舞台上で時々驚くほど穏やかで大きな目をする。大きな目、というか、まるでゾウさんみたいな、そういう目だ。我ながら意味の分からない表現だけど、思うがままに表現するとそうなる。
穏やかで優しく、賢い生き物がじっとこちらを見るような。

 


こないだ、「オハヨウ夢見モグラ」を観たんですよ。
それでも、吹原さんはお父さんを演じてるんですよね。
吹原さんは劇中(これはオハヨウ夢見モグラに限らず)それはもう気持ちいいボケとツッコミを繰り出すことがあって、
私はあれがまた大好きなんだ。日常の延長線みたいなそういう、ストン、と落ちるような。
ただそのくせ、急にめちゃくちゃ穏やかな台詞をぽんと渡してくるんですよ。
あれにどうにも弱くて。

その瞬間渡された台詞が優しい彼の声で手元にきらきらひかる宝物のように残っている。

 


御家族解体で、お父さんが家族に向ける眼差しが好きだ。納得のいかないような不条理が立て続けに起こるお芝居だけど、ろくでもないお父さんだけど彼の「家族が好きだ」という気持ちは少しも、嘘偽りもなく、本物だ。
優しく、少し寂しく、そんな彼の母さんに向ける台詞が好きでラスト抱き締める仕草が好きで。
あの瞬間が、私はとんでもなく好きでだから「おっとこれは最強じゃないか」と思った。
こんな、御守りみたいな一緒にいて幸せだと思えるお芝居があるなら、私はずいぶんと心強い。どうしようもないことも、やるせ無いことも多いし、許せないと暴れまわりたくなることもたくさんだけど、それでも、このお芝居に私は出逢ったから、大丈夫だぞ。

 

ほんと、信じられないと思うけど、そんなことを半ば本気で思っちゃうんですよ。

 

そうして、やっぱり考えていると彼の書く物語が好きなんだな、というところに落ち着く。
初めて、下北沢で公開コメンタリー観たあの日から。いや、あの時もだけど、その後「いやいやでも、好きな役者さんのコメント付きだったからいまいち判断つかねえぞ」と混乱しつつ、見に行って、結局ふらふらになりながら劇場を出た、あの新宿で過ごした日から。

 

 

たくさんたくさん、吹原さんの描く物語を観た。

 


好きなものの話を書くかビビったことの一つは「毎回お前それかよ」となるのも怖かったからだ。ただ、今回、書きたいと考えるといつもと同じところに行き着く。
トリッキーさも先の読めない展開も、大好きだ。

 

生きていることを大手を振って最高!と言われると、いやそうかな、と思ってしまうことがある。かと言って、生きてることなんて下らないと言い切られると寂しくなる。
そんな面倒な私にとって、観ていてとても安心するのが吹原さんの描く物語だ。

 

生き続けることの怖さをあんなに描く人を、私はそう知らない。焼きつくみたいな、哀しさと怖いくらいの怖さは、だというのに回り回って、とんでもなく優しく抱き締めてくる。


「抉り取って抱き締めます」


いつかのキャッチフレーズが、本当に痺れるくらい大好きだ。というか、本当、ポップンさんのキャッチフレーズってどれも絶妙で、繰り返し思い出しちゃうんだよな。

 

 

R老人の終末の御予定を思い出す。
人のどうしようもなさを描き、生き続けてしまうロボットの絶望を描いたなかで、「魂があるから美しい」ということを私はあの物語を思い出すたびに考える。魂とは知性に宿る、という言葉は、やっぱり宝物のように私の頭の隅にずっとあって、何かを放り出したくなる時、決まって思い出す。
あの作中、「森山」という青年が出てくる。R老人という物語は優しい話だと、彼のことを思い出すたびに、考える。

当時、観終わったあと書いたブログでこんなことを書いた。

 

「例えば何日も何ヶ月も経って、あああの人が言いたかったことはこういうことだったのか、と思い至ったり、唐突に昔のことを思い出してその時間の愛おしさに喉が詰まるような気持ちになることがある。」

 

今、まさしくこんな気持ちだ。観たのは2018年の4月で、もう2年が過ぎてる。
2年が過ぎてもなお、思いがけないような気持ちに辿り着く。まだ、物語が続いているみたいに。


ポップンマッシュルームチキン野郎さんのお芝居が好きだ、という話を私は少しまえ、ブログに書いた。YouTubeで公開されたのが嬉しくて、好きなものの話がしたくて書いた。今は、好きな人の話がしたくて書いている。

 

 

今回、「好きな作り手について」と書いたのは役者としても演出家としても、脚本家としても大好きで、なんと書けばいいか分からなかったからだ。本当は、作り手、という言葉もちょっとしっくりきていない。
だけど私の中の少ない語彙の中では一番それっぽかった。いつか、もっとちゃんと、しっくりくる言葉は見つかるだろうか。
見つかる気もする。これからも、何度も何度も、彼の物語を観る中で。思い出すなかで。


こないだ、「オハヨウ夢見モグラ」を観てびっくりした。もう何度も、観てるんだけど。まるで、初めて観たみたいな気持ちで。
吹原さんが演じるお父さんはミツオに言う。

 


「お前以上に豊かな人生を送ってる人間はいない。父さんは心からそう思うよ」

 


幾千もの物語とともに長い時間を過ごす、ミツオへのその言葉を何度も何度も、思い出してる。ああ、本当にそうだな。本当に、私も、そう思います。