えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ホシガリとアゲタガリと

久しぶりにヴルルの島を観た。

先日のメル・リルルの花火を観てからそういえばDVDを買うだけ買って見ていないことを思い出して、それから、観たい、という気持ちのまま過ごし、今日ようやく観た。

 


作品自体の感想は上演当時にあげてる。

かなり、ザックリしているけど。なんかもうちょい、書きたいことあったろうに、とは思うものの、同時にたぶんうまく言葉にならなかったんだろうな、とも思う。


http://tsuku-snt.hatenablog.com/entry/2016/12/27/224730

 

 

そしてそれは相変わらずそうだ。

例えば今日見返して、ヴルルの出した結論についてまだ考えてる。答えは出そうにない。

ある意味で先送りじゃないか、とも思うし、結論なんて出ない、とも思う。

ちょうど今日「クジラの子は砂上に歌う」という舞台を昼間見ていて、そこでも戦争について描かれていたこともあり、

しみじみと考えるんだけど、シャーマンキングでも(って、なんかめちゃくちゃ全然違う作品の話を持ち込んでるけど)言っていた「やったらやり返される」だし、

あえて悪意のある言い方をするならどちらかがいつか泣き寝入りをしない限り「憎しみの連鎖」は止まらない。

ごめんなさい、と謝ったところで、あるいは大事なひとを傷付けられる奪われる恐怖を語り許しや救いを乞うたところで、ヴルルの島で起こったことは何一つ変わらない。

 


その上で、上演当時の感想でも書いたとおり、だからといって、その血を何故ジャジャやホシガリのように「戦争の場にいなかった」ひとがかわりに引き続き流さないといけないのか、とも思うし、かといって、無関係ではないし、とウンウンと考えている。

そういう意味では「新しい世界」へ旅立つしかないという結論は実は結論を真っ新に……真っ白にする、という話かもしれない。

 


ただ、今回はその結論の話をしたいんじゃなくて、ホシガリとアゲタガリの話がしたい。これもまあ、上演当時もそれ以降も度々話していることなんだけど。

 


ホシガリは奪ってきた少年だ。奪われてきたから、奪ってきた。

パンフレットにあった(らしい、今こちらの家に持ってきそびれてしまったので正確な表現は確認できないけど)「受け取る人も優しい」は私の中でもとても大切な言葉だ。

そして、ホシガリは当初徹底して受け取らない。奪ってもそれはたちまち奪った瞬間にガラクタになる。

 


受け取るって、実はとんでもなく怖いことだ。

 


これは最早私のサビだ。

私は、色んな推し……と便宜上表現している、日々背筋を正してもらってる元気の源の好きな人々……がいるわけですが、

その人たちにはその人たちのことを好きなひとがたくさんいる。私はそれだけの人に愛されている、ということにも凄いことだなあとにこにこするのだけど、

それより何より、そうして向けられる「好意」を受け取るということにいつも驚きを覚えてしまう。

 


その驚きの形を知ったのがたぶん、ヴルルの島だった。漠然とした受け取ることの怖さや、受け取ってもらえるということの奇跡を私はなんとなくずっと思っていたけど、ああそうだ、こんな勇気がいる怖いことを、と明確に鮮烈に思ったのが、ヴルルの島だった。

 


映像でヴルルの島を見るのが初めてで、だから画面に映る目に光をいっぱい溢れさせた語り部たちの顔を半ば呆然としながら見ていた。

ホシガリはずっと「欲しがって」いたけど、受け取れなかった。受け取る優しさや余裕が彼のもとにはなかった。

それは彼が奪ってきたからかもしれない。あるいは奪われてきたから。その分、それを失う痛みを知っている人にとって、得るということは恐怖になる。

 


もしくは、と今年観たhisという映画を思い出す。

あの中で語られた「自分が一番弱い存在だと思っていた」という言葉をやっぱり私はよく思い出すんだけど、

その感覚にも近くて、幸せになるというのは「なりたい」とみんなが願ってるわりに怖いことだと思う。

好かれている、と思うより嫌われていると思った方が楽なことってたまにある。

大事にされている、と思うより損なわれている、と思った方がうまくいってしまうことも。

 

 

たとえば、誰かに好かれているなら、そしてその相手のことを憎からず思ってるなら、出来るだけ幸せでいた方がいい。

健康でいた方がいいし、笑っていた方がいいし、そのために周囲の人とうまい関係を築いたり仕事や好きなことが順調だったりした方が良い。

って、並べるだけで思うけど、それってめちゃくちゃ「大変」なのだ。きっと。

なら、ちょっと不幸な方がいい。

ちょっと不幸で可哀想でいる方が、楽なことって、たまにある。

 


……まあ、これはかなり捻くれた話にはなるけど、でも、ホシガリを思い出すたび、私はそういうことを考える。

ホシガリが受け取れなかったことを考える。

あるいは、「欲しがる」ことは彼の中で奪う、に直結したからか。ごめんなさい、と謝る彼のまるまった背中を思い出しながら思う。

 


最後、シオコショウが言った言葉を考えてる。アゲタガリが渡したかったのは「もの」でも「こと」でもなくて、

「幸せになってほしい」という思いそのものだったんだよなあ、と繰り返し繰り返し、反芻してる。

 


それが、相手にとっては怖いことでも、願う(この場合の怖い、というのは対象と願う人の関係性云々じゃなく、幸せになること、の怖さについての話)

 


ホシガリが今まで奪ったものが奪ったそばからガラクタになったのは、それが彼自身のものじゃなかったからかもしれない。

そこには、ホシガリに向けた想いなんてものはなかったから、「隣の芝」だった時の輝きが失われてしまったのかもしれない。

 


アゲタガリが、鼻歌を歌うのが私はすごく好きで、

鼻歌は彼にとって楽しいという「幸せ」の象徴だから。

アゲタガリが大好きなので、彼が「幸せ」なのが嬉しいんだよなあ。

多分、そういうことなんだよなあ。

 


アゲタガリの「ホシガリに幸せでいて欲しい」という想いを受け取って、

ヴルルの必ず幸せになれ、という想いを受け取って、

彼らは新しい地へと旅立っていく。

それはなかなかに、難しいことではあるけどきっと、「難しい」なんて怯まなくたっていいと思う。それこそ、鼻歌を歌うように。

 


本当は、シンプルなんだよな。幸せでいて欲しくて、幸せでいてくれたら幸せになれて。

難しく考えることはわりと楽しくて好きだけど、それでヨーイドンで悲しい方向に進んでも、仕方ないので。

私は明日も幸せでいて欲しいので、なるたけたくさん、幸せでいようと思う。