えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

フリクリ

ピロウズは、私にとって夜の公園や夜中のリビングで聴く音楽だった。もしくは、門限ギリギリで遊びに行く友人の部屋。
高校時代の友人からすごくいい音楽がある、と言われ彼女の携帯のスピーカーから流れてきた音楽を覚えてる。それから、ふたりで携帯サイトの歌詞を読み、あれやこれやと話した。

ピロウズの歌詞は分からない言葉も多い。
分からない言葉、というと少し語弊があるな。言葉の意味自体はシンプルだ。だけど、例えば「これは失恋の曲」「これは友人と喧嘩した曲」「親に贈る曲」みたいな分かりやすいストーリーはない。
ただ歌われる言葉はシンプルで、だから分かったような分からないような気持ちになりながらただ、言葉にする必要のない心地よさに身を任すことができるのだ。


そんなピロウズの楽曲をたくさん使った、アニメがあるとフォロワーさんに教えてもらい、観たのが「フリクリ」だった。
正直にいえば、アニメを観るのが下手くそ(だいたい途中で挫折する)なんだけど、このアニメはすごく観やすくて、見やすいというより心地良くて、無事……といっても、作品自体が全6話とかなり観やすい構成なんだけど……観終わった。

ナンダバ・ナオ太という主人公が「普通でないことは起こらない」と諦めながら、ただ「普通」の日常を送る中、謎のベスパ女ハルハラ・ハル子に出逢い、そしてその出逢い頭にベースギターで殴られて日常が少しずつ変わっていく物語だ。


wikiを確認すると、OVAとしてはじめ発表された作品で、その当時コマーシャルやパッケージに作品解説、あらすじは一切載っていなかったという。

これ、めっちゃくちゃ、わかる、となった。

また、ファンの方のブログにもあったが「語られていない物語」がこの作中にはいくつもある。
例えば、兄タスクの話だったり、メディカルメカニカの話だったり。
結局なんだったのか、どうしてなのか、どうなるのか。それはほとんど語られていない。

理路整然と現象の理由だとかその後の結末を語って聞かせるようなことは一切ないのだ。
たぶん、私はここが心地良かった。ピロウズの音楽みたいだと思った。
印象的な台詞はいくつもあった。

「脳みそ空っぽなのに怖がんなよ」
「不味いラーメン食ってみんのもさ、なんかおもろいじゃんよ」

そんな、頭に直接響く台詞がそのまま心の柔らかいところに届く。だけど、届いたからどうということではない。ただ、届いた、という事実だけがある。


特に好きだったのが、学芸会で長靴を履いた猫をやる話とサメジマ・マミ美が火を放つ話だった。

言葉にできないもやもやや遣る瀬なさやどうしようもなさが、言葉になったり、行動になったりした瞬間、ナオ太のツノが巨大化して、怪人(というべきなのかも迷うけど)になる、戦う。
でも、戦って倒しても何があるわけじゃないんですよね。
戦って倒して、ああスッキリした、みたいな話はどこにもない。泣いて感謝したりしないし、「救われた」りしないのだ。

ある意味で、何も変わらない。
変わらないけど、別に良いのだ。


期待してたけど思ってた結果と違ったとして、それを面白がる、愛せる、という話をフォロワーさんがされていてなるほど、としっくり頭の中に落ちてきた。

ナオ太とアラマオの最終回の会話を聴きながら、会話、というよりもアラマオの呼びかけという方が正しいのだけど、
普段なら、というか、他の作品なら「どっちが正しいって結論出すんだろう」ってドキドキしたり不安になってり心がぐるぐるしたりするんだろうな、と思ったけど、
フリクリはきっと、大丈夫だ、と思った。
ただ、しんしんと降ってくる台詞をぼんやりと眺めて、眺めてるだけで何も変わらないけど「無い」わけじゃないのだ、と思っていた。

無いわけじゃない。
それが、優しくて愛おしかった。


「こうしてなきゃダメ」とか「こういうこと」とかでともすれば雁字搦めになりがちな中で
不味いラーメン食べてもおもろいじゃんよ、って言ってくれる、
正しい正しくないではなくて「そう」という事実だけあれば良いのだ。
それ以上でもそれ以下でもなく
ジャッジだってされなくて良いのだ。
何をしたからどうなるではなく
ただ、そうであること


好き、と告げたナオ太くんはそういう意味でシンプルで分かりやすくて、大好きだった。

 


それ以上でも、それ以下でもない。
それはどれだけ優しいことだろうか。