えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

退屈な日々にさようならを

お盆だった。
それは、死んだ人が会いに来たからじゃなくてそうじゃなくて、死んだ人と生きてる人の輪郭が曖昧になるようなそんな映画だったからかもしれない。


十三のシアターセブンは、こういう映画を観るのにとても幸せな会場だと思った。規模感とか、チケットを買う場所の雰囲気とか。
あと、なんか、それぞれ自分の周りの空気にぎゅっとされてる感じとか。


パンバスきっかけで今泉監督を知って、パンバスの台詞が私にとって大切なものが多すぎて、楽しくて嬉しくて、今泉監督特集があると聞いてやっほぅ!って叫びながら観に行った。サッドティーも観たいけど今回見れなかったからまた今度。
なんか、今泉監督の作品は映画館で観たいのだ。いや映画もお芝居も、すべからく、映画館や劇場で見られるように作ってるんだからどれもそこで観るのが一番に決まってるけど。だけど、私の中では特に。

そんな中始まった冒頭の映画の上映会のシーン。
色々相まってうおおおおってしていたんだけど、
清田がどこまで分かって友達想いだね、って言ったか分からないけど、たしかにカントクはすごくあの映画カントクのことを、気に入ってるんだろうな、とは思った。
そういうのがこいつの才能ダメにすんだよ、とはなんか、あーーーあーーーーそうねえ、ってなるし。ただ、あの空間でそれをああいう形で言ってしまうカントクはどんどん映画を撮る環境から締め出されてしまわないか、心配になって、そしてそんな心配、クソみたいだな、とも思う。でも、映画を撮るってことも人間関係だから、仕方ないのか。
ただ、いま思ったけど、清田は友達思いって言ったけど、そんなお綺麗な言葉で語られるのは嫌かもしれない。お綺麗な、と言うのも酷い話だけど。なんか、清田って、いまいちこう、信用できないんだ。
というか、わからないまま、死んじゃったので、清田。


退屈な日々にさようならを、は、分からないまま、がすごく、多いな。

退屈な日々だったのはどちらなんだろう。と思う。私が一番思うのはそれです。
音楽もすごく良くてさ、ああ久しぶりにあったその子が全然知らない顔して笑っててお前もっと汚く笑ってたじゃんって思うあの子は、それが嬉しかったのか寂しかったのか、次に思うのはそんなことです。

太郎にいちゃんがすごく好きでした。穏やかで鈍感で、鬱屈とした感情とか激情から遠そうで、だけど絶望してなくて、ただ希望に満ち溢れてるわけでもなく。そんな中でも、日々を大切にしてそうな太郎にいちゃんが大好きです。
あと、あの水風船でのキャッチボール。あの遊びをして育ったあの兄弟はすごくいいよね。あんな優しい遊びある?めっちゃしたい。
でもあれ、びしゃって割れちゃうとこの切なさもすごいね。もしかしたら、あれ見て、話そうって思ったかもしれない次郎ちゃんのこと。どうか分かんないけど。その前に写真が出てきちゃったから。
ご飯を美味しそうに撮るから今泉監督の作品は好きです。ご飯って大事だから。
ご飯を食べることを大事にしないってのがすごく苦手でそれって、どんな暴力描写よりグロい気がする。だから、ちゃんとご飯を食べてるとああ大丈夫だ、って思う。この人たちは勝手に絶望しないっていうか。
パンバスの姉妹のご飯もそうだけど、何品かあるってのがね、またいいんですよね。あとあそこアドリブで撮ったってのも最高って思ったし、あと、千代さんが実はすごく緊張してたっての、いいよなあって思う。

その太郎にいちゃんを見ていた千代さんのことを書く。
千代さんは、恋をしててだけどそれは可愛かったり柔らかかったり甘かったりするものに見えないかもしんないけど、恋だったんですよ。
太郎さんが、どうかなあ千代はって言ってて、おまえー!おま、おまえー!!!って叫んだわけですが。今泉映画に出てくる誠実だけどとんでもなく惨いこと言う男性たちよ!全くもう!なのに魅力的なのずるいよな!ほんとにもう!
車を見送る、あのシーンの美しさというか胸をきゅっとするあの感じ。あれが、恋以外のなんだというのか。
質問しながら、あのシーンだったらいいなあって思ってました、猫目さんが思い入れあったの。そしたら、ドンピシャな答えを頂いて、まるで映画を通して会話できたような幸せな気持ちになりました。嬉しかった。
ずっと、好きで切実に好きで、そんで一緒になんでもないように笑ってた千代さんが好きだ。綺麗な女の子と歩けて、なんて言ってしまう千代さんが愛おしくて仕方ない。そうだよね、嫉妬するよね。ほんとは、あの元カノだって呼びたくなくて、でも呼んだ方がいいんじゃないって言える千代さんがたくさんたくさん幸せになればいいと思う。
死んでしまえるような恋じゃなくても、一緒に穏やかに生きていけるような、物語みたいにドラマチックに見えなくても、私はその恋が堪らなく好きだった。千代さんと太郎さんたくさん幸せになってくれ。穏やかに笑ってしわしわのおばあちゃんおじいちゃんになるまで一緒にいて。


まともじゃダメか、って思うんですけど。
千代さんと太郎さんみたいに。なんか、こう、激情に狂ってしまえなくて普通に仕事できてしまう、まともに働いて、生活にちょっと苦しみつつもご飯食べて。いいじゃん、そうやって生きても。そうやって生きるのも、しんどいこともあるし、かっけーじゃん、とか。退屈な日々なのか、なのかも、でも特別な日々かも、とか。
なんか、私はそこそこに一生懸命ダサく生きている人が好きなのかもしれない。勝手に親近感がわいて。でもそれって案外難しいんだぜ、なあ、なんて、言っちゃうのかも。

昔、友人が、男じゃないからって理由で亡くなったことがあるんですが。それを、私は数年知らなくて、ある日、なんであいつが死んだのに普通に生きてんのって詰られたことがあって、いや、詰ったつもりはなかったんだろうけど。
だから、映画を観ながら勝手に、その時に戻って。お盆が死んだ人が帰ってくる季節で、そして退屈な日々にさようならを、がお盆に合う作品だとしたら、彼女が帰ってきたのかもしれない。映画と一緒に。そんなことを途中、次郎ちゃんの死について言い合う人たちを見て思った。

生きてるって思えていた方が幸せだったのか、それとも、死んだことを抱えていた方が幸せだったのか。

私は、知った直後知りたかったよなんで言わないんだよって思ったし、それでもじゃあ嘘つくなら最後まで隠し通せよって怒って、まんま、あの台詞の通りだった。
次郎ちゃんも、私の友人も、自分で生きていきたくなかったから死んじゃったんだろうか。いきたくなかった、というか、いけなくなったというか。
勝手すぎるよ、と思う。じゃあそのお前を好きなこっちはどーすんだよ、って思う。
勝手に、重ねてごめんなさいだけども。
次郎ちゃんがあの映像を撮って最後に寝てる彼女のもとに行ったのずるくて優しい。映像残したことも。本当に。本当に次郎ちゃんってば。
だからやっぱり、私は太郎さんが好きなんだけど、ふたりのあの可愛い女性が次郎ちゃん好きなの、分かるよ。
そして、あそこで綺麗な顔して笑った警官の女の子が、ああ言ってくれて、勝手に重ねてた私は嬉しかったよ。

退屈で、どうしようもなくて、特に盛り上がらなくて
それでいっかーって笑ってしまうショベルカーのシーンだった。なんだろうあのシーン。なんか、いっか、ってなるよね。

スタッフさんの死について話すシーンが好きです。それなら映画撮れないって思う太郎ちゃんも、遺族から義人が責められるから死ななきゃって思う次郎ちゃんも、そして、だけど撮るべきだ誰かの希望になったかもしれないのにって思うことも。
私は、観客なので、撮って欲しいと思ってしまう。
届かないかもしれないでしょ、でなくなった作品はきっといくらでもあるんだろうな。だけど、だから、届いた作品が愛おしいし、私は受け取りましたよ、って感想を書きたくなるのかもしれない。
ありがとうの表明と、これからもよろしくの表明として。