えす、えぬ、てぃ

お芝居の感想など

「ずっと好きでいる自信も好きでいてもらう自信もない」

「ずっと好きでいる自信も、好きでいてもらえる自信もない」パンバスで、大好きな台詞だ。
2回目を観て改めて思った。たぶん、私はこの台詞に出逢ったからこの映画が大好きなのだ。


もちろん、他にも好きな台詞はたくさんあるのだけど。

 

 


私には、ご存知の通り(?)好きなものや好きな人がたくさん在る。だけど、その全部に自信がない。
自信、というと語弊があるかもしれない。パンバスに則るなら、自信、なんだけど。
明日の自分がどんな奴か、なんて一切分からない、そんな風にも、思ってる。
だから、何かのファンだ、と名乗るのが怖い。そうして、一度でも名乗って「おまえはあの時ファンだって言ったくせに」と後ろ指をさされそうな気がするのかも。
或いは、好きだったとして、「それは好きじゃない」と言われるのも面倒だと思ってる。小学生の頃、となりのクラスの先生が転任しちゃうと聞いて、泣いたことがある。となりのクラスだったけど、穏やかで優しいその先生は友人を訪ねた他クラスの私にも優しくて、それがとんでもなく嬉しくて大好きだったのだ。
でも、泣いた時、友人は、「私より好きじゃないんだから泣かないで」と怒った。いやもう、今思えば小学生の可愛い独占欲というか嫉妬心なんだけど。そうだよね、先生が取られちゃうような気がしたんだよね、と思うんだけど、なんか、その時はああそうか、自分より好きな人がいるのに、それを好きだっていうのは怒られるのか、って思ったことがあって。
もしかしたら、その時の気持ちがなんとなく残ってて、それがいつか好きじゃなくなる日のことへの不安と相まって、気になるのかもしれない。


まあ、そういうことを、時々考えるんですよ。

 


ところが、お芝居の好きだって話をする為だけのツイッターのアカウントを作ってこうしてブログなんかを書くようになったりすると、「そうして何かを好きだという私」をいいね、と言ってくれる方が、ちょっとずつ、現れたりして。これは、中々に、私の中では革新的なことだった。し、有難くて時々、取り出しては眺める宝物みたいな事実だ。


だから、尚更、私は自分の好きに誠実でいたい、と思う。嘘をついて、好きだということも、或いは嫌いだということもやめたい。無理に、好きだなんて、絶対に言いたくない。

 

 


ところで、私はこの夏、ずっと、本公演を出逢ってからずっと、それこそ、仕事をクビになった次の日も観ていた劇団のお芝居を、観に行かなかった。観に行けなかった。


いやもう、行かなかった、なのか、行けなかった、なのか、その結論が、いまだに出ないことが、一つ、私がこんな支離滅裂なブログを書いてる理由なんです。どうなんだろうな、ネット社会。こうして、文を書くことも、誰かに見てもらうことも容易になっちゃって、どうしたって、書いてしまうよね。手帳に書けって思うじゃないですか、思いますよ。でも、たぶん、手帳には書かないんだよ。


理由の全部は書かないけど、一つは限界が来たことだった。身内の不幸があった時を除けば、ほぼほぼ毎月、東京に芝居を見に行っていった。それが、今年に入ってから、色んな意味でガタがきてるな、と薄々チラつき出して、それが、よりにもよってこのタイミングで来てしまった。
でも、なんか、そんなん理由じゃねえじゃん、とも思うのだ。でも、遠いよ、東京。

 


私が何かを好き、じゃなくなる時は、きっと、パンバスで言うところの、「お付き合いした時」なんだと思う。片思いの頃は、ただただ楽しくてあれもこれもきらきらしてて、でも、だんだんそれが形を変えていく。知ったから。
それは何も、恋愛や、人に対してだけじゃないと思うのだ。
それは、本当のところを知った、とかだけじゃなくて。


ちょっと前に、ある呟きを見て、それを見た時、ああこの人にとって作ったお芝居は大切じゃなかったのかな、後悔があったのかな、と思ったことがあった。なんか、それが、すげえ悔しくて。いや、そんなん、観てても分かったっつーの畜生って思って、いやでもあんたもその作品の一部でしょって暴れまわりたくなったことがあった。
あ、もちろん、当たり前ですが、私がずっと追っかけてたその、本公演を観に行けなかった劇団さんではないです。彼らが、そんなお芝居、作るわけないと思うし、そんなん、絶対、嫌だもの。もしそうなら、こんな文、たぶん、落ち着いて書いてないわ。今落ち着いてるかどうかはさておきとしてね。


ともあれ、そんなことがあって、矛盾してるけど、もし、そういうので、このまま、例えば、嫌いになってしまったら、たぶん、身を切るよりしんどいな、とびびってしまったのだ。
私にとって、お芝居への好き、は好きの中でもそこそこにきっと特別で、特に今好きなひとたちのお芝居は、あまりに、今に地続きすぎるので。それを嫌いになっちゃうのは、いや、やっぱりしんどいんですよ。逃げを打ちたくもなるんだよ。
ただ、それは杞憂だったんじゃないかなって公演終わる最後の数日、思ってたんだけど。いや、全くの杞憂だよ。もし、そんな人たちなら、お前、好きにならなかったじゃん、と自分に若干、がっかりもするんだけど。


むしろ、私が好きな人たちはきっと、自分が出てる作品を愛して愛して愛して、そこにのっけてくれる人たちなんだよな、と、気付いたんだけど。それを、気付けたのは、まあ、本当に最高なんだけど。

 


たもつが、ふみの絵を見る、あのシーン。なんだろう。とびきり、愛おしいとも、そうじゃないんだけども、ともごつきたくなる。
訥々とした、あの、空気に触れてる間、私はたぶん、息を止めていた。


絵を完結させること、完結させた絵を美しいということ、そしてそれを寂しいね、とたもつが言ったこと。

 


なんか、私は、あのシーンで、じゃあ好きじゃん大事じゃんって思う。それがお付き合いになるか、とか愛子より、とかはさておき。
いやつーか、別に愛子より、とか必要ないじゃん。一回そこに愛情があることにびっくりして抱きしめる事実では?

 

 


すげえ、寂しいなあ、と思ったんですよ。心臓が、観れなかったってのに、ぎしぎしなったんですよ。
それは申し訳ないことに、作品に、ではなくて、ただ、あの人たちが、あの人が作ったお芝居を、なんだけど、だけど、ああやっぱり、観たかったなあと思ったんですよ。
私は、いま、そのことに安心してるのだ。
あー私、まだ、好きじゃんって思ってるのだ。


観てないものをとやかく言う権利もないし、やっぱりお芝居とか、そういうの、なんか、明け透けな言い方をすれば、お金を落としてこそ、とか
それは置いとくとしても、行かなかったくせに行きたかったと騒ぐことの浅はかさとかは、もう、重々、承知してるんだけど、
いたその人には伝わってると思うって登坂さんもUMPの時に言ってたけど、ちゃんと向き合わないと分からないことってあるしさ。
でも、なのでこれは、完全に私による私のための、私の好きという証明で、逆に誰かに証明しろって言われたらすいませんって思うし、後ろ指さされても石投げられても、もうそれは、そうですよねって思う。


けど、やっぱり、私は私に、好きじゃんか、お前って言ってやりたいのだ。

 

 


こんな文、じゃあ、ブログに書くなって言われそうだけど「誰かが読んでくれるかもしれない文」しか書けないのだ。ごめんな。
パンバスのこと考えてたら、ようやく、言葉になるような気がした。
大泉さんがちょうど忙しくなりだした頃に連載してたコラムで書いた好きなもの嫌いなものの文がすごくすごく好きで、なんか、そういうの書けばちょっとは整理つくかなって思ったってのもある。ついた。

 


好きだ、私は、今も、たぶん、とうぶん先、これからも。
そして例えばもしも、そうじゃなくなっても、今この好きだって気持ちがあったことは消えやしないのだ。出逢って大好きなことが歩かせてくれた道が続いてきたわけなんだから。

 

だから、これからも、肩肘はらず、別に誰かの為じゃなく、私がそう思うから、好きでいてもいいだろうか。


なんだか、私はそんなことに、とんでもなくほっとしているのだ。
大好きだー!!!!!!