えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

焼肉ドラゴン

生きることが地獄だって切り捨てられたらいいんですけど、そこでも、笑って生きていくしかないんだなあ、と私は家族がバラバラになったシーンで思ったのでした。

 

焼肉ドラゴンを観た。
あの、大泉さんが出てるってのは間違いなく観た理由だし嬉しいんだけど、
それ以上に私はこの作品にとんでもなく思い入れがあって。

ちょうど、この元となったお芝居が上演された当時、大学1年の春だった(歳がバレるね!
当時、オフィスキューのタレント陣がたくさん見に行ってて、私はその感想にめちゃくちゃ焦がれていた。

熊本に、お芝居がないとは言わない。
なかったら、私はこんな人生を送ってない。だけど、圧倒的に、お芝居やエンタメやともかくそういうものに触れられなかった。ゲキシネが始まった時、その極上の芝居をこんな場所でも観れるなんて!って興奮しながら友人と話したのを覚えてる。

焼肉ドラゴンは、そんな中、大阪に進学する私にとって「手が届くお芝居」だった。
焦がれまくった、目の前で同じ空気を共有して観る、お芝居そのものの好きなところを遠慮なく思い切り、楽しめる。
すぐさま、予約して大阪に行ってすぐくらいに、観に行った。

終わったあと、くらくらしたのを覚えてる。
これから、こんな凄いお芝居を幾らでも観られるんだってことが嬉しくて、今まで気付かないまま見落とした芝居がどれくらいあったのか途方に暮れて。
そして、何より、焼肉ドラゴンの人々が愛おしくて。
終わったあと、友人と合流してご飯を食べたんだけどほとんど喋らなかった気がする。というより、そこから先の記憶がびっくりするくらいない。

ともあれ、そんな大事な作品が映画化するというのだ。しかも、そこに、大好きな大泉さんがいるというのだ。
心臓が、ざわざわした。

 

大阪の片隅で生きる所謂「在日」の家族が営むホルモン屋、焼肉ドラゴン。
物語はそこの長男のナレーションで始まる。
騒がしくてごちゃごちゃしてて、僕はこの街がこの街に住む人が嫌いでした、という時生は大阪の進学校に通うが、虐められて言葉が喋れない(喋らない?
ただぼんやりと、屋根の上、街を見てる。

時代は高度成長期で万博が大阪で始まろうとしていた頃で、凄い勢いで色んなものが戦争から離れていく時代だ。そこから取り残されたようにボロボロな街で、家族とそこの常連たちは騒ぎ、生きる。

 

物語の中で、わりと家族には酷いことがたくさん起こる。
景気なんてちっとも彼らの周りは良くならないし
見下して見下すし
結婚は不倫に変わるし
キャバレーでは殴り合いになるし

ただ、それでも、彼らは生きてる。
別に楽しそうでもない、幸せそうでもない。だけど、生きてる。生きて、時々笑って騒いで、生きてる。


根っこに彼らの苦しさとか遣る瀬無さがついて回るのにそれでも、しんどくならないのはそれ以上の生きる、なんだろうあれは、熱量というか
それは、なんか、綺麗事で片付けちゃいけなくて
根性がどうこうとかじゃなくて、
ただ事実として
誰がどうなろうが、彼らは生きてる。

そんなことを、アボジの台詞に思った。


ちょうど、午前中、シネファイを見ていて、その中のカナリアの中で出てくる台詞にそーなんだよな、と思ったことがあって。
自殺が良い悪いの話ではなく、宗教の話でもなく、なんか、単純に、生きていくしかない、って思っていて。
生きていくしかなくて、でもかといって、生きていっても幸せになれるとも、そもそも幸せがなんだって話で。だって、ずっと幸せなんて、あるわけがないのに。

働いた、働いた、とアボジは言う。
働いた、働いた、色んなものを失っても、家族の為に、一生懸命。そして、彼はここにいる。

時生が、死んでしまうんですが。
あのシーン、芝居だと、街の屋根から落ちるんだよ(視覚として、なのか、それとも物語上でもそうだったかはちょっと記憶に自信がない
私はそれがとんでもなく残酷で悲しいことだと思ったんだけど。

時生が死んでしまったのは、そういう、生きていくしかないこと、に途方もなさを思ったからじゃないかと思って。
自殺は本当に作中に出てくると無になるくらい苦手なモチーフなんですけど、でも、なんか、時生にはそうだよなって思ってしまっている。
虐めくらいで、ってアボジの台詞を責めるわけではないんだけど。
なんか、あの台詞がきっかけだとも思わないし。
なんか、そんなんじゃなくて、あー無理だなあみたいな。そういう。
生きることが、途方も無い闘いみたいに思えてしまって。
別にそこに日本人がとか韓国人がとか、戦争とか格差とか、そういうのが、無関係とまでは言わないけど、関係ないところの話で。ああでも、より、しんどさはあったのかも、しれないけど。でも、彼らの苦しさも、例えば済州島のことも、きちんとは知らないし知ることは出来ても感じる、とは違うことを思うと、そこは私が語って良いところではないと、思うんだけど。


ラスト、家族のシーン。
もしくは、てっちゃんがしずちゃんにそれでも好きだというシーン、あるいは、りか姉ちゃんがキスするシーン。

なんか、それ見て、ああ一人じゃ生きていけないなって時生に話しかけたくなった。
しんどいわ、一人じゃ。
逆に一人じゃなきゃ、生きていかなきゃいかんわ。
嫌だし、途方も無いけど。
だって、君が死んじゃった時のオモニの声聞いたらさ、そら、生きてかなあかんわ。働いて働いて、途方も、ないけど。

でもきっと、それを時生だって分かっとるんでしょう。


ラストの、アボジの叫び声が時生の叫び声と共鳴してるように聞こえた。離れていようが、生きていようが死んでいようが、彼らは家族だった。
あー生きてる、と思った。
それは、アボジの言う、明日は佳い日になると信じられるって言葉によく似た気持ちだったように思う。