えす、えぬ、てぃ

お芝居の感想など

君の名前で僕を呼んで

ずっと考え続けてることがあって
どうしようもなく大切な人と出逢えることは果たして幸せかどうか、ということなんだけど。
そんなことを、私はこの映画中ずっと考えていた。

 

静かな映画だった。
避暑地で、17歳と24歳の青年がゆっくり惹かれて反発して、駆け引きして、恋に落ちて触れて、お別れするだけの。
派手なことも起こらなければ明確な何か劇的なシーンがあるわけでもない。
語られる言葉以上に彼らが読む本や、研究する彫刻、奏でる音楽にその気持ちが宿るような。

 


あの、私はこれを愛の物語だ、と思ってですね。恋なら良かったのに、とすら思うんだけど。恋の傷は、いつか癒えると思うし。
ただ、これは、愛だよ。

(三代目さんの新曲で愛になりきれず、恋のまま好きになり過ぎたからお別れする曲があるけど、愛になったってそれがイコール永遠ではないと思うんだよな)(また話が飛びましたね)(はいそうですね)

 

同時に、青年同士の同性愛の話でもあるんですが、私にとってそこは些細というか
同性だったから、結ばれなかった、と言われると、いやそうなんですけど
そうなんですけど
でも、なんだ、ああそうか、そのたらればってまた、全然違うというか。
だって、なんか、あれはエリオでオリヴァーだったから成立した恋で愛じゃん。
なんか、それを異性同士だったならって話しちゃうと、ケーキの話してるときにでもカツ丼は衣が重要だよねって言われるくらい今その話いる?!みたいになっちゃう。何言ってんだ。

 

 

もう、だから、同性愛とか異性愛とかじゃなくて、これは、エリオとオリヴァーの恋で愛になった話だと思う。

 

 

 

エリオが愛されている描写が愛おしい映画だった。
オリヴァーとのあれこれではない。勿論、それも含まれはするけど。
そうではなく、家族や友人、使用人の人が彼に触れるその手のあたたかさと優しさが私はたまらなく好きだった。
ソファでお母さんが小説を読む、あの美しいシーン。
父と母の上に寝そべり、互いの手に触れるあの優しさに私は鼻の奥がツンとした。なんなら今もしてる。

 

エリオの演奏や編曲のシーンは美しくて、彼は、善なるものだなあ、としみじみ、思う。
その彼が大切なものは何も知らないといい、知っていて欲しいから、知りたいからと告げるシーンは、そういう彼に積み重なった美しく、優しくてあたたかなものの行き着く先な気がした。

エリオから、オリヴァーに向ける愛は、どうしようもなく例え肉欲の伴うシーンであっても、切実で泣き出しそうになるくらい、あたたかさに満ちていた。

 

エリオの秘密の場所で、キスするシーンが、とんでもなく好きです。
あそこで、唇を先にくっつけるんじゃなくて、戯れるように、そのくせどうしようもなく性急に、なのにどこかじれったく、唇を合わせるまでの仕草が。
言葉が追いつかない感情ってたしかにあって、でもそれは態度や仕草や触れ合いでも、本当は全然埋まらなくて。
なんか、だめだ、あのふたりについて考えてると何も追いつかないくらい愛おしい気持ちを想像してしまって、私は心がしんどくなる。

 


どこが、恋に落ちた瞬間だったのか、なんて野暮な問いかけじゃないか。
きっと2度目以降観た時、私はそこらじゅうに互いが惹かれていく姿を見つけると思うのだ。

 


夏のシーズンが終われば、いつかお別れしなくてはいけない。
男女なら、とここで散々最初にこれが異性愛ならとか同性愛だから、なんてのが全く関係ない話なのだ、といいながら、書いてしまうんですが、男女なら、あそこで結婚の約束なんかして、或いは近くで住む約束をしたんだろうか。
でも、やっぱり、書いてみても、なんかそれとこれとは、違う気がしてしまうな。
オリヴァーが口にした、うちの両親なら矯正施設行きだ、という言葉や時代背景を思えばそことそれを分けて考えるのが無茶な話だとも、思うんだけど。ただ、付き合って、手を繋いでキスして、セックスして、結婚して、って流れに乗ったなら乗れたらなら、ってそういう、それどころじゃねーんだよ、って思ってしまうこの感情はなんだろう。

 


幸せな時が永遠に続くことはないし、
それはどんな関係でもそうで。
エリオからオリヴァーに向けての感情の話ばかりしてしまうけど
あんなに愛おしい必死な美しい目があるだろうか。そして、その目がずっとそうしているわけにはいけないなんて、ほんと、なんて時間が流れるってのは残酷で野暮なんだろうか。

どくしようもなく愛おしい人に出逢えることを素直に幸せ、と呼べないのはずっと形を変えないものなんてありはしない、と思っているからかもしれない。

 

 


そんな風に考えてしまう私にとって、衝撃だったのは、あのお父さんとのシーンだ。
あのシーンは、すごい。
役者さんのお芝居も、脚本もセットも映像も照明も音響も全てがすごい。

君が今、こういう話をしたいのは私じゃないだろう、そう、言う、あのお父さんもまた、善なるひと、だと思った(ここの英語での表現が知りたいので英語字幕のDVDを買いました、楽しみです

だけど、あそこで、お父さんは彼と話したかったんだよな。それは、エリオを愛しているからだし、そういう愛を信じてるからだ。
友情や、親愛とも形が似た、だけどもっと特別で誰もが手にできるわけじゃない、そういう、愛を。とびきり、痛く愛おしいその感情のことを。


痛みを葬るな、という。私が観た吹き替えでは痛みを切り分けるな、だった気がする。


彼らは互いを自分の名前で呼んだ。


それは、大切なものに名前を書くような所有欲の表れのようにも思えるしもっと切実なもののようにも思った(ベターハーフの元はひとりだった魂の伴侶についてと関連させた感想を見かけた。なるほどなーと思った。
自分が、大切で愛おしい人の一部になったら、それはなんて胸を焼くような幸せなことだろう。
なんか、そういう幸せで切実な願望の詰まった響きに思えた、あの、互いの名前を呼ぶところ。
どうしようもなく、辛い別れがくるというのに。自分が一部になったような、というのは錯覚でしかない。
身体を重ねても、アクセサリーを置いていっても、シャツを交換しても。
ただ、確かに、痛みが残ってる。
心が痛む、それが確かに彼を愛して、愛された証拠だとしたら。
それを葬るな、ということは、なんて残酷だろうと思うし同時に私も葬ってくれるな、と思ってしまう。
耐えきれず、大切なものとお別れすることは容易い。その後はきっと生きやすくなる。何もかも、簡単に見えるかもしれない。
だけど、その大切なものはそんな簡単に手放すにはあまりに惜しい。必ず手にできるものではなくて、出会えたこと、それだけでもまず、奇跡みたいに思うのだ。
だって、あのふたりの名前の響きは、とんでもなく優しかったので。

 

 


なんて、厄介だろう。
愛でお腹が膨れることはないし、雨風は凌げない。だけど、愛がないと生きていくのは苦しいことがある。
どうしようもなく、膿むのに。じくじくと消えない傷を残して、その対処はただそこにあることを抱き締めるか、切り捨てるしかないのに。
痛みを葬るな、と言ったお父さんの言葉を思い出す。

 

お腹を膨らませることのない愛が、きっと彼らを生かすのだ。
今はそこにないというどうしようもない痛みを伴いながら、愛し愛された記憶が彼らを。きっと。