えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ワイルド・ヒーローズ

2015年に放映されたドラマをHuluで一気見した。
熱くてかっけードラマが、大人ってかっけーんだぜ!って背中を叩いてくれたような気がする。

 

あらすじはこちら(wikiより
「主人公と、高校時代の悪ガキ仲間による7人の友情」をテーマに、かつてヤンキーだった主人公が、6人の仲間とともに少女を救うというストーリーである。

10年前、100人vs6人の2つのグループの抗争にて、先方に果たし合いを申し込んでおきながら対決の当日に姿を見せなかった6人のグループのひとり、キー坊。その一件でグループの絆は大敗と共にバラバラとなった。

10年後、敵も味方もそれぞれの人生を歩んでいた。サラリーマンとなったキー坊は転勤で、苦い思い出のあるかつての地元に戻ってきた。そんなキー坊に謎の少女が助けを求めてきた。窮地に陥ったキー坊は、かつての仲間に助けを求める。それは、少女を救う戦いと同時に、バラバラになったかつての絆をつなぎ直す戦いの始まりでもあった。

 

 

裏切りから始まった物語において、こんなに見事な展開、結末があるだろうか。

1話、うだつのあがらない多分そんなに仕事ができるわけではない営業マンのキー坊の姿はお世辞にも格好いいとは言えない。ちょっとズレてるし、空回ってるし、そして何やら伝説のヘタレ、なんて呼ばれてるし。
そんなキー坊が記憶喪失の少女をヤクザから守ろうとすることから物語は加速する。

 

 

勝つまで負けるな、とキー坊は少女に言う。自分で負けたって思わなきゃそれはいつでも勝つ途中だ。

 

 

キー坊が伝説のチーム風愛友のリーダーで、かつ、100対6という無謀でしかない喧嘩でひたすらに待たれていたのは、その心が理由だ。キー坊がいれば、負けっこない。彼は勝つまで、諦めないから。

 

と、同時に彼の喧嘩にこなかった理由がミッキーから語られる。
空っぽの背中については、映画デメキンでも散々考えたんだけど、ここでもまた「背中が空っぽでいていいのはガキだけ」という事実が叩きつけられて、呻いた。

情けなく見えた冒頭のイメージは完全に後半覆る。それどころか、前半で情けない、と見えたからこそその格好良さは際立つ。


つまんねえな、とかつて総長と呼ばれ慕われたヤクザにキー坊が言う。つまんねえな、こんなもんなのかよ。大人って、こんなにつまんないもんなのかよ。


青臭いと一蹴されそうな台詞なんだけど、私はこの台詞にめちゃくちゃ打たれた。
キー坊は、だって風愛友時代めちゃくちゃに格好良かったのだ。100対6だろうが、そいつがいたら勝てるって言われるくらい。その人が、情けなく見えたこと、だけど今でも知らない少女ひとり守る為に身体を張れること・・・再会したばかりの友人を、信じ切れること。

 

格好いい人がただ格好いい以上の、優しさがそこにあると思った。

 

そう思ったのは、ミッキーのキー坊と再会した時を振り返る台詞も刺さったからだ。
ミッキーの何で今なんだちくしょう、という言葉はキー坊のつまんねえな!と張るくらい、グサグサぐらぐらくる台詞だ。


ボケたお婆ちゃんを介護するミッキー。
お婆ちゃんを背負う彼の背中は曲がってるし、見ようによってはあの年齢の彼がああして介護に関わることを「可哀想」という人もいるのかもしれない。
ミッキーはかよちゃんが好きで、だからそれを不幸だなんて思ってない。私も、そして当然風愛友のメンバーもそんなことを思いはしないだろう。
だけど、同時に「不幸」「可哀想」と言われてしまう現実を知っている。
そして、やっぱり、好きだから大変じゃない、なんてことは絶対にないのだ。
そう思うと、友人との再会で見られた姿がこの姿だったことをちくしょう、と思うミッキーの気持ちは苦しくなるほど、分かる気がするのだ。

 

 

大人ってつまんねえな、ダセェな、なんて気持ちは私たちの日常にも転がっててそれじゃ頑張ってきたはずの今までがあまりにも可哀想でなんとかできないかって足掻いてる気がする。
そんな気持ちを、キー坊のつまんねえな!って言葉や俺だってあの時殴られたかったよ!というストレートすぎる台詞に気付かされた。

 

 

ワイルド・ヒーローズは大人の為の物語だ。
一回は負けたことがある大人がもう一度勝つ為の、勝つまで負けない物語だ。

 


そうして、日花里と出会ったことでかつての友達とまた友達、に戻ったキー坊はひかりを守る為に色んな相手と戦うことになる。

かつての、少年時代の恩人である刑事と。
警察やヤクザ、謎の宗教団体を語った人殺し集団。

 

どのエピソードも大好きなので思いつく限り感想を書きたい。
ストレートな台詞や展開が多くて、どれも真っ直ぐに殴られ続けたので、もう、本当に!だからこのドラマ大好きなんですけど!!

 

キー坊が、赤木さんに言った、
大人は格好つけろ、というのは残酷なように見えてめちゃくちゃ優しいメッセージだと思う。
人間「大人」として過ごす時間の方が長いんだから。格好つけろ、格好いいぞっていわれることがどれくらい背筋を正してくれるかって話ですよ。
赤木さんに言う台詞はとんでもない子どもの我儘にも思えるんだけど、あれを「つまんねえ大人」でもあり、かつ日花里に背中を見せてる彼らが言うのはある意味、宣誓じゃないですか。
というか、なんか、楽になりたいってのはあるけど、格好付けるからこそ立てることってきっとあって。だから、あそこで最後まで格好付けろ!って言うのはすげえ優しくて大切なことなんじゃないかなあと思う。し、赤木さんの嬉しそうな笑顔がすごく好きでした。
自分が「格好いい大人」だったからこそ、キー坊たちがあんな風に格好つけれる大人になったっていう事実は、物凄くすごくて幸せなことだと思う。
し、それを生きた意味って呼んでもいいんじゃないですかね。
自分の生きた意味を決めるのはきっと自分だし。

 

 

さて、そんな赤木さんを殺し独特な存在感を示した前田公輝が演じた殺人鬼について
まず、彼の名前がまもる、なのが脚本家の確信犯っぷりをかんじて、いやーーーずるいよーーー!!!!
まもると日花里のやりとりが緊迫感もあるんだけどそれ以上に可愛い。ぴーぴーラムネが愛おしくなる。
そして、彼のエピソードでもっとも殴られたのは「何故人を殺したらダメか」のやりとりだ。
この問いには古今東西、色んな答えが色んな表現で提示されてる。
その中でワイルド・ヒーローズでこの問いを語りかけられたまもるは言う。彼にとってはきっと世界の中で唯一の母親を撃たれた彼は言う、「悲しいからだ」
まもるが実際に自分も大切な人を喪うかもしれない、という局面で知った「悲しい」というシンプルすぎるでも絶対的な事実。
それまで意思の疎通、思いの言語化をほとんどしなかった彼が、かなしい、ということ。
もう、ほんと、説得力!というか。
経験を持っての言葉すぎて、それをありきたりだとか綺麗事だとか、そういうの全然追いつかない感じ。
だって、あの瞬間ほんとにまもるは傷付いてて、悲しいって思ってて、もうそんなん画面があるとかないとか関係ないじゃないですか。

 

ワイルドヒーローズの彼らは、作中色んな経験をして考えて感じて、言葉を吐く。
そんなことを、私は見ながら何度も思った。

 

テンテンの、父親としての台詞がそれを踏まえてもすんばらしくて、すごい。
どこまでも語彙がない感想だな!
奥さんに言う、俺たちの子どもがもし記憶喪失になって俺たちと離れ離れになっちゃったら、のもしの話をするテンテンが愛おしい。
その祈りを、俺は受け止めたいんだよ。
なんで日花里を守るのかってのが、こんなに優しい答えで提示されるワイルドヒーローズが大好きだ。
それは前述した綺麗事、にも繋がるんだけど、
日花里の笑顔を守るのが彼らにとって幸せになること。この世界をちょっとはマシだと思えること。いつか、大事な人を守る何かになるかもしれないこと。
お父さんなんだなあ、テンテンは。すごくお父さん。背中の重みについてはさっきも書いたのでここでは割愛する。だけど、その背中が大きくてそれが物凄く幸せで、格好良かった、と書きたい。

 

ポンジャラとピーちゃんの、名脇役っぷり。
このふたりのコンビ感と、ちょうどいい存在感は一体なんなのか。
おバカキャラで、わりとけらけら笑ってる気のいいお兄ちゃんなふたり。
彼らの生活パートも、ふたりでふざけてるところもすごく好きなんだけど、それ引っくるめて最終回の台詞に痺れずにはいられなかった。

 

 

ダサくてもいいと思っていた。
その方が楽だった。
格好悪いんだって諦めた方が、楽だった。

 

 

おバカコンビなんだけど、このふたりには嫌味がない。当然、へんな卑屈さもない。屈託無く笑い、ふざける。
自己卑下もなく、誰かをバカにもしないから私は安心して彼らの笑顔が観れた。
その、彼らが言った「諦めた方が楽だった」
もう、あの、フルコースか。
フルコースなのか。
大人になるまでに置いてきたり見て見ぬ振りしてきた色んなものを大事に拾って見せてくれるコースなのか。
ふたりの俺たちはすげー格好いい!の台詞に強く強く頷くしかないじゃないか。
格好いいんだ、めちゃくちゃ格好いいよ。

奥さんが寂しくないようにポチらせてあげて自分は天ぷら我慢するピーちゃんも。
万引きを、注意するんじゃなくて目の前の人そのものと話そうとして怒られて頭下げてするポンジャラも。

も、めっちゃ格好いいよ。
何よりそうして笑ってきたふたりはすっげー強いよ。

 

 

最終回の台詞の流れで、私的もうひとりのこのドラマの主人公チョコの話をする。
この岩ちゃんさんはもう、すごい。
さっきからすごいと格好いいしか言ってないことには薄々気付いています大丈夫です。
ひりひりしたどうしようもなさと、それを覆い隠せる陽の空気感を作り出す表現。
そこから生み出される悲しさったら。

背中で背負うものがあるからこそ、生きていけることについて。もうひとりの主人公のように、チョコが見えたこと。愛ですよ、愛せてますよ、チョコさん。

 

自分のせいだ、と何かを失った時に思うことはしんどい。
自分のせいだ、と思いながらそこから目を逸らさないことはまるで生き地獄のようなものなのかもしれない。どこを見てるか分からない目で、あの幸せの記憶を聞くチョコを見ながら思う。
俺といても寂しいでしょ、というチョコのチョコにとっての彼の命の重さ。どこにいても、宙に浮いてるみたいでそれがそのまま自分の命の価値だと思ったこと。

 

チョコが無茶なことする時って決まって仲間の為なんですよね。とか言いつつ、1話でキー坊を売ろうとするのも彼なんですよ。
何が言いたいかというと、無駄な自殺行為、自傷行為をする人ではないということ、なんだけど。そして、投げ出すとしたら仲間の命のためだってことで。
もうそれはそのまま、彼の命の意味で、仲間の命の意味じゃん、というか。
それは、ミッキーたちがいう通り悲しいし、そんなに軽くねえよ、なんだけど。
でも私はこうして文にしながらいやでもやっぱり、自分にとって大切な人の命と天秤にかけること、の時点でかなり、チョコの心の柔らかさに触れるようで愛おしいけどな。もちろん、その上でそこそこ重いんだよ俺たちにとっては、というミッキーの言葉を受け取って欲しくはあるけど。

 

いったん、ちゃんと寂しくならないと、といったことも。
そうして、向き合おうとすること、守ろうとすること。考えること。
それはもう、愛ですよ、チョコさん。

 

 

「あなたに褒められたくて、喜んで欲しくて、そうすれば生きていてもいいんだと思えるような気がして」


生きる、がなんでかみたいなことがこのドラマの中には何度か描かれる。
美史さんが言った死にたくなる時のこともそうだけど。
なにもかも考えたくない聞きたくない見たくない。
その対になるような。
生きてていいと思うこと、生きててくれてありがとうということ。その理由を誰かの中に見つけていく彼らが愛おしい。そして、誰かに見つける以上、自分もそんな風に思われてるんだ、とチョコが理解するまでの流れが愛おしくて切なくて、めちゃくちゃ泣いた。


キー坊がメロスに言った助けてくれるから仲間じゃねえ、助けたいと思うから仲間なんだ、という言葉を考える。
仲間を知らないメロスが、仲間を失ったことがあるキー坊と、同じように仲間、を知っていく。
メロスはいい子だ。
し、ああしてメロスが心配したり怒ったり泣いたり喜んだりすることの、生きてる!みたいな動くぞ!みたいな感覚はなんだろう。
あそこの空気が淀むことはない。
それは彼だって新鮮な空気を吸うことだけど、間違ってないぞって背中を押してることでもあるんじゃないか。
赤木さんが、キー坊の名刺を見て笑ったみたいに。
そのあたり、メロスって絶妙なバランス感覚で立ってる。仲間で、同時に指標となる子ども。自分の背中は見せるに値するのか、恥ずかしくないのかの定規みたいに。

 

 

何度もキー坊が裏切られたのはある意味で物語の本質があるというか。

最初に「裏切った」のはキー坊だ。
事情はどうあれ。それは変わらない事実た。
その上で、その彼が裏切られ続ける。


裏切りごと信じられるか。
信じてもらえるということ。
それが、どういうことなのか。


100対7の喧嘩に最後追い詰められる。それは、いつかの記憶の続きで、絶対的な変化だ。

特攻服を着たこと
総長も、あの頃の服を持ってると言っていた。当たり前だ、捨てられるはずがない。
ダサくて、素直に着るにはちょっと恥ずかしい。
だけどそれは変わらずに、彼らの手の中にある。


お前は、お前だ。
お前は誰だ。
俺は、俺だ。