えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

マームとジプシー みえるわ

マームとジプシー
みえるわ

川上未映子×マームとジプシー
MUM&GYPSY 10th Anniversary Tour vol.2
「みえるわ」
テキスト 川上未映子
「先端で、さすわさされるわそらええわ」「少女はおしっこの不安を爆破、心はあせるわ」
「夜の目硝子」「戦争花嫁」「治療、家の名はコスモス」「冬の扉」「水瓶」「まえのひ」など

大阪28日夜では
「先端で、さすわさされるわそらええわ」
「少女はおしっこの不安を爆破、心はあせるわ」
「治療、家の名はコスモス」
が上演された。


場所と時によって、それは内容を変えるという。
舞台は生物、とは繰り返し言われて来た言葉ではあるけど、この舞台はまさしくそれだった。

みえるわ、は、生きている。

そして、私はDVDで舞台を観ることもとてもとても好きで、あれは私による私の為だけの公演とすら思ってるんだけど、この作品に関してはきっと、映像じゃダメだな、と思った。いい悪いではなく、事実として。


ハイエース二台で、回る一人舞台。
川上さんが書いたテキストを基に青柳さんが演じる。
演じるというより、叫ぶ、歌う、奏でる。
一人舞台ではあるんだけど、後ろにボクサーがいたり、照明機材がピカピカと光り、回る。
照明がともかく好きで、たまらなく好きで、あまりにあの世界で、でもきっと味園ユニバースでしかなし得ない照明で、でもこの公演は全国を回るわけで、
それは、もはや、別の舞台が生きては死に、生きては死にしてるんじゃないだろうか。

ところで、関西で、しかも大阪、その上なんばで、関西弁の歯切れのいいこのテキストを聞けたことはたまらない贅沢だと思う。途中、江戸言葉が入りはするけど、しかし、上演される直前まで自分たちも使っていた言葉が軽快に踊る様はなんとも幸せな景色で、染み込みやすいような心地がした。

舞台というより、フリースタイルのラップだった、と友人と言っていた。
何を話してるかどんな話なのかは途中からどうでもよく、いやどうでもいいとか言うと怒られそうですけど、でも歯に絹を着せず言うならほとんど聞き取ることを放棄してただ息をしていた。たまに目だって閉じていた。

あれは、なんだったんだろう。

以前、味園ユニバースで上演された時はフラットな舞台でやったと言っていた。それが、今回は二面舞台だ。終演後のアフタートークで落語のような、と演出藤田さんは口にした。
落語、というか、浴びた、というか。

味園ユニバースは不思議なライブハウスだ。
私は妙に懐かしくて泣きたくなるようなニヤニヤするような気持ちで、アルコールを飲んだ。
いやもうねー内装がねーたまらないんですよ。

劇場も然りだけど、ああした場所には記憶が地層のように積み上げられていく、と聞いたことがある。
味園ユニバースはまさしくそんな話を思い出す場所で、マームとジプシーのみえるわ、を観ながらもっと違う、過去のライブの音とかなんだかそういうのを一緒に飲み込んでいたような、飲み込まれていたような気がする。

フラットな舞台では、きっとより身近にあのテキストを、青柳さんの存在を感じただろう。
二面になった舞台で、何が変化したかを私は比べることはできないけど、想像する、たぶん、浴びる、に変化したし、包み込むというと少し違うけど兎にも角にも、そんな風な空間の形成の中にストン、と入り込んだ気がする。
物凄く、感覚的な話をしてますね。

生きる、がきっとその根底にあって。

テキストの中、出てくる女の子たちは酷く生きづらそうだ。
鳩を怖がり、怖いものが入ってこないよう入口を塞いだり、信号だと言われたり、お母さん、の思うままの自分の振る舞いをしたり、蝋人形のようだったり。
でも、そのひとたちどの人も、生きている。

たぶん、私はそれを・・・それってのは、彼女たちのしんどいとか息が詰まる感じとか、治療の家、とか・・・理解できるようなできないような性格をしていて、終演後、ぼんやり考えてた。
理解できようができまいが、彼女たちは生きてる。
私は彼女が言ってることを全部は理解できなかったけど、でも彼女が使った関西弁を私も使ってて、彼女のようにではないけど、私だってたまに疲れたなあと思ってて、なんというか、そりゃそうですよね。解る、なわけではない。だって、私は彼女じゃなくて、彼女は私じゃない。
同一視が必要なわけじゃない、同一視が救うわけでもない。

だけど、終演後アフタートークで語られたサラリーマンの姿を私は想像できたし、理解したいと思ったし、手を伸ばせる気がした。
なんか、存在してくれるだけでいいんだ、と思う。
それが私にとってこの舞台が二面舞台だったことを含めての感想だ。
もしかしたら、この公演をフラットな、同じ目線で見たなら私の物語だ、になったのかもしれない。物語、という言葉はなんとなくこれにそぐわない気もする。言葉、の方がしっくりくる。
だけどそうじゃなくて、浴びて、存在してるな、と思ってその人が作る空間にいながら、あー存在してる、いる、みたいな。
いるなあ、って彼女に思うことは、いるなあって私も私を確認することに似てる。似てる、というか同時並行的に起こりうる。


アフタートークで、印象的だったのは川上さんの言葉だ。
アンチエイジングなんて言うけどそんなことしてる場合じゃなくて、生きてなきゃダメだよ。
青柳さんがこれからも歳を重ねたり、藤田さんが歳を重ねたり。もしくは、場所が変わったり、そして受け取る私たちも歳を取ったり。
きっと、その度にこの公演は色も姿も変えていく。
経験となって降り積もるような、そんな景色が私にはみえたような気がするのだ。