えす、えぬ、てぃ

お芝居の感想など

ぼくらの90分間戦争

残忍さの提示でも、どうしようもない現実を叩きつけるわけでもない。

例えば薫のように思い切り泣くことができただろうか。
例えば、同じ痛みを知った者として富澤のように支えることが出来ただろうか。


戸惑った。初日が終わって私は困惑していた。
凄いお芝居を観た。嫌いじゃない、好きだとも思った。
だけど、素直に面白いと思えなかった。
なんでか思えなくて、でも嫌いじゃなくて、私はますます困惑した。
例えば、と沢山仮定をたてた。
物凄い役者さんたちだと思ったから、台詞に心当たりがあるものがあったから、ひとつ以上の心に残る台詞と出会えたから(この台詞と出会えるか、は私の幸せかどうかの基準でもあるんだと思う)
あるいは、大好きなボクラ団義さんの、この東京の小劇場という場所を最初に教えてくれた劇団の記念公演だから。
どれもしっくりきて、どれもこれも違うと思った。
ただ、もし、劇団が好きだから好きだ、という仮定が答えなら死ぬほど私は私にガッカリすると思った。それは盲目的というか、自分の理想を投影して本当を見ようとしてないだけでは?と自問自答を三周くらいして、鬱々と過ごした。
たぶん考えすぎ。だし、三周したら最早それは考えてないのと一緒じゃねーかスタート地点だぞそこって、感じだった。
っていう、上で、ロングランの間考え続けて色んな人と話して台本を読んで、出した感想なので、
二転三転する挙句に長くてあちこちに話が飛びます。優しい心でお読みいただく場合はお付き合いください。


10周年の記念公演。
それに相応しいお芝居だ、とも、無声芝居やオープニングダンスなどの売りを完全になくしている今回のお芝居を敢えて選んだのは???とも、おもうし、それぞれそんな感想をツイッターでは見かけた。ここ、私もすごく難しくて、どっちもそう思う、なんですよ。
相応しい、と思うのは、ある意味で、脚本と役者の会話だけで勝負した今回の芝居は10年間ボクラ団義が色んなお芝居を作って、それぞれが色んな道を通ってきたからこそできるお芝居だ、と感じたからで。
いやもう、ほんと、あ、すげえって思ったもの。何目線だ。いやでも、あ、すげえって。
キャッチーさのカケラもない。感情移入しやすい人も配置しない。ガンガンくるなあーって思った。


いつかあるかもしれない、何気ない、言葉を選ばないなら「物語になるかすら分からない些細な」だけど当人たちにとっては人生で何度もなんども立ち止まりたくなるような出来事。
それは、だから、私たちの人生にも当たり前にあって、
その出来事の結末が、あんな風に昇華されるところを生身の人が、目の前でしかも同じように時間を刻む1シチュエーションで観ることができるのは、お芝居を観ることの幸せのひとつなのかもしれない。


あらすじ
突然訪れる 大切な誰かとの別れ際
もう二度と会えなくなるまで あとどれくらいの時間一緒に居られるだろう
その時間がわからないから わかるまでそこにいる


悲しいお芝居が苦手だ。もう、これは単純に好みの問題で、悲しいお芝居がとても苦手だ。
あと、人がいかにくだらないかを描く作品も苦手だ。どちらかといえば、ネガティブな人間だから、飲み込まれてしまうせいだと思う。
ぼく戦は、人がいかにくだらないかを描くことはしなかった。私が、久保田さんの作品が好きなひとつのブレない軸だけど、どうしようもなく愚かな人を描いても、くだらないと一蹴することはしない。そこだけは、ほんとに、安心した。
だけど、本当に、悲しい話だと思った。
淡々と、じゃあ何か結果として変わったのか救われたのか、と考えていた。
見終わった直後、なんで泣いたのって泣いたという感想を読むたび聞いてみたくなってた。
純粋に、そこでどんな心の動きがあって、泣いたんだろうと興味があった。

と、言う私も泣いたんだけど。
泣いた理由は、シンプルだ。
私もついこの間、薫と同じようにお別れをする為に近くまで行きながら、だけどそんな届いてるかも分からない会話も覚束ない相手に一方的にする「会話」がどうしてもしたくなくて、喋らないまま、お別れをしたからだ。
薫の気持ちが分かる、とは思わない。わたしは、別に薫と同じように謝らないといけないことや秘密は抱えてなかったし。だけど、たくさんありがとうとか、なんだかそういうものを伝えるべき相手に一切何も言わず、お別れしたことをなんだか、前述のとおり、昇華してもらった、と勝手に感情移入して、思った。
それは、本当に、身勝手な感想なんだけど。
竹石さんの台詞回しや表情のお芝居がPA耳蒼くらいからぐんぐん、好きで、その役者さんの芝居をあんなに近くで観ながら、そんな身勝手な気持ちではあるけど、ああその台詞だ、その気持ちだ、と思える時間をもらったのは、本当に、なんか、私としては特別な経験だった。

ただ、これはなのである意味ではお芝居の感想ではないわけですよ。
それとこれとは、一旦別の話っていう。

いったん、お芝居の物語自体の感想を。

じりじりした空気の世界でなかなか物語は進まない。だけど、どんどん彼との時間は減っていく。

同級生それぞれの向き合い方を通して、ぼんやりと見えてくる彼らが犯した罪。
でも、これを罪って決めたのは、彼ら自身だよね。いや人は死んでしまってるんだけど、でも顕一自身が言ったけど結局あの事故はどうしようもなく事故で、かつ、もし誰かのせいだとしたらきっと顕一なんだよ。

当事者以外には、無益でもっとシンプルな解決策(だけどそれはもしかしたら堪らなく夢見がちで理想的で、非実現的といえばそう)もすぐ近くにある。そんな苦しさの中にいる彼らはたしかに、戦争をしてたんだろう。
誰が悪くて、何がどうなれば納得いくのか、そんなこと分からなくなってしまってる戦争を。
最高に、皮肉の効いたタイトルだと思う。

最近、ボクラ団義さんではすこし草臥れた役が多い気がする沖野さん。疲れた顔に滲む感情が逆にしんどかった。
出世したことを責められるシーンでは、なんか、いや出世=幸せじゃないし、彼が彼なりに足掻いた結果じゃん、と呻きたくなったり。
良くも悪くも、大人になれた人だと思った。抱えた傷がどれだけ痛くても、そのままそれは痛いものだっての含めて受け止めて、でもきちんと生きていかなきゃいけない覚悟を決められた人だ。

最近私は竹石さんの会話劇が好きすぎる。
富澤が大人になれた役だとしたら渋谷は、なれないまま、止まった時間の中で今も足掻いてる役だと思った。
だからこそ、ラストで思い切り泣いた姿にほんの少し、助かった、と思った。
許せなくて、憎くて、だけど同時に罪悪感もあって。
そんなものに綯い交ぜになりながらもあそこに分からないからいるんだ、ということだけは分かるからそこにいたのが、本当にもう。
ストレートな感情表現も、分かりやすい山場もないお芝居(全体を通して)だけど、例えば、あとで話してやるから、お前顕一のなんなんだよ!って怒鳴るシーンとか、そういう、発散されようがない感情とか。
竹石さんの生身の感情表現がたまらなく好きだ。生きた人間がもつ、その瞬間の感情だっていつも思う。役とか芝居とかっていうか。
色んな色や言葉がぐちゃぐちゃにまざって、混ざりきらずに立体的にまざった絵の具みたいな。
だけど、ここは喜怒哀楽のこれです、みたいな整理のついた感情の方が、珍しいんだよな。だから、竹石さんの絵の具みたいな感情はこう、私的にはすっきりと、観てる気持ちを預けやすいんだと思う。

そしてこのふたりと対照的に思えたのが添田さん、高橋さんのふたりだ。
たまらん格好よさの添田さんだーー!!!
添田さん、こういう役を演じる時の格好よさ本当に勘弁してほしい。好き。
真っ当な、優しい人だと思う。
高橋さんも、そう。
なんか、それぞれ、こうどんどん遠くなる罪悪感とか感覚を抱えながらでもぼんやりとでも消えるわけでもないままのそれを抱えてたんだなあ。

ハッキリとしんどいことは、間違いなくしんどい。
だけど、ぼんやりとした哀しいとか辛いとか、そういうのは喉に張り付くようで居心地が悪い。
見ないふりをしたくなる。
ところで、この4人、こうして考えると成人後会わなさそうな組み合わせだな。とほんの少し思った。もし、事件が起こらなかったら。
ある意味で、顕一への感情が彼等に絆を残してたんだなあ。

風見さんが度々作中で、男子中学生にはよくある話だな、と相槌を打っていて
まさしくそうで、だからこそ、光希、奈緒たちはどうして?と戸惑ってたんだと思う。
謝ったらいい、話したらいい。そもそも、そんなこと、どうしてしたの。
そう思うと、光希、奈緒、水瀬のそれぞれの反応は物凄く、面白かったし、あーーーーーって思った。
奈緒は必死に理解しようとするし、光希は真っ向から対峙しようとするし、水瀬さんは彼女なりのケリを彼女自身でつけようとする。ゴーイングマイウェイともとれる水瀬の姿はある意味ですごくすごく格好良かったな。身近にいたらたぶん苦手だけど笑
でも、潔くて嫌おうが何してくれようが構わないけど私はこうするからってサバサバ感は最高だった。
3人それぞれがすごく強いし、色んな柔らかさがある。綺麗だった。

対照的なのは、兄・和哉とあの別荘を管理してた風見だろう。

コメディアンな大神さんは大前提として、私はこういう、ギラギラした負の感情全開の大神さんが好きだ。怖いけど!
本当は、彼が一番混乱して、どうしていいか分からなくて、分からないからこそあそこにいたのかもしれない。
顕一のことも妹のことも、律子さんのことも許せないと思っててだけど顕一の近くにいるからこそ、顕一が一番会いたいのは最期の時近くにいてほしいのは誰かってのが分かってて。
一番今連想したくないものを連想した、と困ったように疲れたように笑う彼が、本当に胸が苦しい程しんどかった。
人が死ぬ時、最善、とか後悔しないように、とか言うけどそんなの無理だろって思う。どれだけやっても、後悔はすると思う。
だけど、彼の選択をいつか和哉さん自身が受け入れられる時がくるといいなあと思う。

風見さんはなんのポジションなのってずっと考えてた。
此原に対しても思ったことだけどいやお前関係ないだろ!ってもやもやしたり。
んー私が一番脚本的にしっくり来ないというか、答えが見つけられなかったのは風見さんかなあ。
彼の台詞はもっともだし、ある意味では前述した戦争という皮肉、第三者にとってはどうてもいいようなことで起きた悲劇、そして今もどうてもいいようなことにこだわってる、とも、、まあ、とれるんだけど。
もっともらしい正論ってずるい。
うーーーーーーん。
管理してた別荘で起こったからこそ、尚更彼は彼なりに許せないのか。だけど第三者だから冷静に冷酷に正論が言えるのか。

ああいう異質さを中村さんは出すのがお上手だよなあ。
受付とかにいらっしゃる時の柔らかな空気感なんて一切感じない、物凄く冷たくて得体の知れない空気感。

一方で、蚊帳の外にいた人たちもいる。
このバランス感好きなんだよなあ。
全員主役なことのほうが(特に90分芝居では)難しいというか。
人生で、みんなが話の中心にいることって少ないよね、みたいな、そういう感覚。

とは言いつつ、いやでももっと中心近くにいる彼らも観たかったよーーーと思うボクラ団義さんファンよりの感想もないではないけど笑
いやでもなーずっともっとランタイム短いものを、と思ってたことを思うと、どちらかを選んで、どちらかを選ばない、になるのか。

同級生たちの話として進んでいくから、あれだけど、此原も律子も本人たちにとってはこの出来事の中心にいるような気持ちだろう。


初日終演後、見送りの際、思わず福田さんに怖かったです、と伝えて、え?ってなってしまったんだけど。
いやでもめちゃくちゃ怖かったんですよ。
あの状況で、あそこまで執着して自分の知りたいことを通そうとする、妹への気持ちを昇華させようとする。
え、いや、人ひとり今死の境で苦しんでるからね?!みたいな。そして、大切な友人を亡くそうとしてるからね?!みたいな。
でも、こうして文にしながらだからお前の悲しいとか苦しいを我慢しろっていうのも違うよなあって思いもするんだけど。
なんか、怖かったんです、此原が。
此原、風見はなんでそこにいるか分からなかったってのが正直なところなのかもしれない。その中でああしてあの状況で爆発的な攻撃に転じてしまう此原が怖かった。
ただぐっと堪えて睨むようなお芝居をする福田さんは好きだなあと思う。青い強さを持ち続けられる役者さんだ、とそういう役を見るたびに思う。

律子は、消えてしまいそうな、あの場で当事者になるのを怖がってすらいそうな印象。なりたくない、というよりなる資格がない、と思ってそうな。
顕一に別れを告げた律子の感情をずっと考えてた。考えてても結局分かったような分からないような、でイマココなんだけど。

まだ好きではいるんだと思うんだけど。

ただ、結婚だからか、子どもがいるからか、好き、だけじゃダメだったのか。
むしろ好きだからこそ自分のたちの為にそうしてしまう、そうすることを良いことだ、と思う本人やその結果が怖かったのか。

渋谷と律子は少し似てて、動くことを選べはしないんだけど
知らないまま終わってしまうことも受け入れられない、なんか、そういうところがある気がする。
それを含めて、ばかだなあ、と私は思っちゃう。このばかだなあ、は愛おしいなあ、という意味をたぶんに含んだものなんだけど。
もっと、知らんぷりできる人ならあるいは離婚なんてそもそもしなかったのかもしれない。


なんか、キャラクター的な人が少ないお芝居な気がする。
デフォルメ化された、物語的な。
だから、そういうシーンも極端に少なかったように思う。そう考えると前説で言われた覗き見してください、という言葉をしっくりした形で思い出す。

どちらかといえば、デフォルメ化されたお芝居が好きだから、だから手放しに面白い!ってならなかったのかな。
でも、なんか、そういう、キャラクター的な人が出てこないからこそ、お芝居の物語の奇跡なんて起こらなくてそこでは淡々と分からないまま過ごした時間が経っていくだけだから
だから、いつか、どこか、私たちの生活の延長線上にある物語だったのかもしれない。
それをああして、形に触れるというのは、逆に寄り添ってもらうというか、覗き見のし合いみたいというか。
物語になり得ないような、でも誰しもどこかで出会って淀んでいって残り続けるそんな後悔とか、じわじわとした怒りとか悲しさとかそういうのが物語になるのは、いいことなのかも。
後悔するな、ということじゃなくて、そういうこともあるよ、って。あるよ、ってことで何が変わるんだよ、と言ってしまえばそれだけなんだけど、なんか、あるよ、って心強くないですか。


と、言いつつそのお芝居にもデフォルメ化寄りの人たちが出てくる。
医者の南原さんと、近所のおばちゃんの貝沼さんだ。

あの役を嫌味なく、だけど浮かさずにする内田さんは凄いなあ。
私はいつか、どこかでバリバリ話す内田さんを見て!みたいん!ですけどね!
でも、なんか、ああして当たり前にストーリーにいる南原さんは、いないとダメな人だと思う。
そして、どちらかといえば重くなりすぎそうな話題を重くなりすぎず持っていく南原、という医者の必要性を思う。
人が死の境にいる時って、なかなか緊迫感を持ったまま進まない。
いや、状況にもよると思うけど。
ただ、もう長くはないけどなんとか頑張れば話せるくらいの、そういう時ってなかなか非現実的なのに、でもご飯食べなきゃダメだしなんならふつうに話せば笑いもするし、みたいな
だって、いつ終わるか分かんないし。光希のいう通り、その時間は短い方がいいわけないけど。
ただ、その状況をお芝居で、しかもあのシチュエーションでやれば当たり前だけど重くなるしエンドレス修羅場状態になる。
でも、それって、一気に覗き見、の状況から客席に連れてかれちゃう気がする。
そう思うとどっかズレたあのお医者さんは、一番ぼく戦にリアリティを与えていた気がする。

貝沼さんはもう、ひたすらに、見れて良かったー!の気持ちだ。これはもう、ファンとして普通に嬉しい、のやつ。嬉しい。
やっぱり好きな役者さんが舞台の上に立ってるのは、観たい、し、見れたら嬉しい。
これからも、どんな形でも立ってほしいなあと思っちゃう。
そうして、続けてくれてる限り、私たちも応援できるもの。


友人が、ぼくらの90分間戦争は、なにかを選んでだからその代わり喪った人たちの話、と言ってて、ああそうなのかもなと思った。
全部を選ぶことは出来ないわけだし。なんにおいても。
ストーリー的にも、そのほかの要素でも、そんな公演だったと思った。
ふたつの選択肢を、もしかしたらもっと多い選択肢を選んで、止まってまた選んで、その選択が積み上がった結果があのお芝居だろう。

素直に、面白いとは思えなかったけど、私は10周年でこの芝居が観れたのは嬉しいと思う。
というか、どうあったって、私はとりあえず少なくともいまは舞台の上にいるボクラ団義さんが観たい。観続けたい。これからも選択を続けるだろうボクラ団義さんを、私も選択し続けられたらいいなあ、と願ってる。

そんでもって、もし、選ばなかったものが欲しいと思ったら拾いに行っちゃってもいいんじゃないか、と思う。

顕一たちが、第三者からみて百点満点の幸せをほぼ確実に手に入れられない中で生きていくしかなかったみたいに、分からないままあの場所でいる選択をするしかないみたいに、生きてくしかないならそれくらい、やっちゃってもいいと思う。
誰に分からなくても、そうして欲しいなんてことを私は思う。
この感覚的な感想が私の一ヶ月このお芝居のことを考え続けるという選択の末の答えです。