えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ホットロード

完全に、役者さん目当てで観ることにしたホットロード
光がとても美しい、愛された映画だった。


あらすじ(ウィキペディアより
悩みを抱えながら、暴走族に憧れ、仲間に入り不良の道を進んでゆく主人公・和希、バイクに命をかけ、死をも恐れず暴走する春山の姿が描かれる。

母から愛されず、自分が誰からも必要とされていないと心を痛める14歳の宮市和希は、学校で周囲と打ち解けられず孤独を抱えていた。そんなある日、学校の友人である絵里に誘われ不良の春山洋志と出会い、しだいに彼らの世界に自らのよりどころを見いだすようになる。少しずつ春山にひかれていく和希だったが、暴走族のリーダーとなった春山は反目し合うチームとの激しい争いにしのぎを削ることとなる。

 

 

最近、ハイロー・デメキンと立て続けに拳という文脈で足掻く人たちの映画を観たというのもあって、なんだか尚更色んなことを考えてしまったり。ホットロードはどちらかといえばそんな文脈を女性目線で読み解いた話だと思う。

 

和希って女の子をのんちゃんが演じてることになんだか、へーーーって思った。

のんちゃんは、あまりトンがってるような印象は受けない。なんならどこか独特な緩やかなリズムで生きてる、そんな印象をどちらかといえば受ける。

和希はそういう意味ではなんとなくちょっと印象が違う。荒い言葉もほんの少し言ってる感じ、があった。最初は。

 

でも、なんとなく。

大人しそうとか真面目そうとか、そういうイメージをともすれば押し付けられかねないのんちゃんが、誰だよそんなこと言ったやつ!と声を荒げたり、春山を殴ったり

なんか、そういう、勝手にきめてんじゃねーよ!と睨みつけるような姿は、それこそ、のんちゃんそんな役もするんだ、と勝手に決めてた私への一喝にも思えて、途中からなんだか小気味好く感じた。

真面目そうとか、やんちゃだとか、思春期特有のどーのこーの、とか、なんか、そういう勝手な思い込みみたいな、押し付けに潰されそうになりながら潰されてたまるか、と生きてるふたりの話だと思った。

だとしたら、こんなに合ってるキャスティングないでしょ、と思う。

 

どことなく、のんちゃんも臣ちゃんも危うさがあって、危ういのに妙にとんがる強さというか、とんがるじゃないな、ブレない軸を持ってて

それはあの和希と春山そのものみたいだった。

 

そのふたりが寄り添うまでも、寄り添ってからも手を繋ぐだけみたいないっしょにいて笑ってご飯食べて寄り添って眠るだけ、みたいなあの空気感をあんなに綺麗な光と共に撮られたらもう、好きじゃん。

かなり、光とか湘南(だったはず)の景色もああ、これは漫画の絵もとても綺麗だったんだろうなあって思わせてくれるカットでたまらなかった。

 

この話を、思春期の話、とは言いたくない。

言いたくないんだけど、たしかに覚えのある痛みに呻く。覚え、とは自分の体験した、という意味でもそうだし、周りで見た、でもそう。

もう私は和希みたいにどうしようもなくなって、春山のアパートの前で座り込まなきゃいけないような思いからは随分離れた気もする。

だから尚更、和希や春山の剥き出しのままの傷の痛さとかを思って何回も再生を止めては呻いてたんだけど。

 

ラストシーン。

春山が、和希と生きたいから死にたくないって言ったこと。

お気に入りのカーディガンをぼろぼろにしても助けたいとお母さんが和希を背負ったこと。

和希が、春山の赤ちゃんを産みたいという夢を見ること。

 

誰かに愛されて、人は自分の命の大切さを知るって言ってたけど

それは親から最初に与えられるって言ってたけど

でも、きっと親からじゃなくても良くて、親から貰ってないから不幸とかダメとかそんな話じゃなくて、と纏まらない気持ちのまま思ってた。なんかもし、それをそうだって言われるとしたらちょっとしんどすぎると思う。

親だから、とかじゃなくて、大切だから、でいいじゃん。というか。親ってすげえってのは思うんだけど。でも、春山から和希の和希から春山への気持ちはなんか、言葉にして関係性に縛って定義付けたくないなあと思う。

あと、死をも恐れず生きてきた春山が、死にたくないって思ったみたいに、投げ出そうとした和希がごめんなさいって生きようとしたみたいに、なんか、勿論、愛されて自分の命の意味を知るってのは間違いないんだけど、

それだけじゃなくて、それくらい大事な相手を愛して知ることもあるんだなあとラスト、肩を組むふたりを見て泣きながら思いました。

たぶん、それを幸せと呼ぶんだと。