えす、えぬ、てぃ

お芝居の感想など

あゝ、荒野

あゝ、荒野は、新宿信次の物語だ。
もうどうしようもなく、彼の物語だ。

公式サイトからのあらすじ
ふとしたきっかけで出会った新次とバリカン。
見た目も性格も対照的、だがともに孤独な二人は、ジムのトレーナー・片目とプロボクサーを目指す。
おたがいを想う深い絆と友情を育み、それぞれが愛を見つけ、自分を変えようと成長していく彼らは、
やがて逃れることのできないある宿命に直面する。
幼い新次を捨てた母、バリカンに捨てられた父、過去を捨て新次を愛する芳子、
社会を救おうとデモを繰り広げる大学生たち・・・
2021年、ネオンの荒野・新宿で、もがきながらも心の空白を埋めようと生きる二人の男の絆と、
彼らを取り巻く人々との人間模様を描く、せつなくも苛烈な刹那の青春物語。

決して、寺山修司に精通してるわけではないけど、でも時々垣間見える、ああああ寺山修司!な節と、それでもあくまでこれは現代、しかもなんなら今より少し未来の物語であるという事実に頭がくらくらした。
物凄いエネルギー量の映画だ。前編後編をいっぺんに見てみたかった気もするし、それをやったら死ぬほどしんどかったと思うので、1週間開けてみた今回の見方は、正しかったようにも思う。

破れかぶれな人々が、たくさんたくさん出てくる。だけど、破れかぶれじゃない人が、この時代、もしくは、この世界どれだけいるだろう。

今回、しんどい中で、ほっと息をつけたのが、ジムなどでの新次と建二のやりとりなんだけど、
あまりに当たり前な、あたたかな穏やかな時間過ぎて、後から振り返ると泣きそうになるのは私だけだろうか。
新次の獰猛さは、異常なのかもしれないけど、彼自身、どこにでもいる青年なんだ、と思う。屈託無いふたりのやり取りが、ともかく、好きだ。あの空気感が、後編に繋がって、更に熱量を増す。

執拗とすら感じるくらい、あの世界の舞台が新宿であることが、コクーンタワーなどの風景から伝わってくる。
それに、なんとなく似てる。
どこにでもある。
どこかには、必ずある。
彼等は、どこかで、生きてる。

飢え続けた新宿新次と、渇き続けたバリカン建二は、選ばれなかった人たちである。
全く似てないふたりの共通点は、選ばれなかったことだ。
親に、或いは世間に。というか、その、両方に。
チンピラで暴力者の新次。
吃りで赤面症の建二。

字面にして呻いたんだけど、彼等は「2番目」の名前なんだなあ。
次、と二。

そして、因縁を感じるのは、そもそものきっかけである裕二の存在で、彼もまた、二、を名前に持つ人であるということなわけで。
「あんたも、劉輝さんも、俺を見たことなんかなかったろ」
台詞がうろ覚えなのが悔しい上に申し訳ないのだけど、
あの、叩きつけるような苦しい橋の上のシーンが大好きだ。
新次が捕まるきっかけになった殺人未遂事件で、そもそも、新次を、そしてその兄貴分である劉輝をボコボコにした裕二。
ボクシングシーンでも、橋の上などの会話シーンでも、その目の獣のような激しさにハッとする。

たぶん、ボコボコにしても、彼のこちらを見ろ、という痛いほどの叫びは、今も上がり続けてる。

と同時に、新次がもう俺とお前ふたりの問題になってんだよ!という叫びは、ある意味では彼に応えてるようにも思える。思えるんだけど、そうじゃない。悲しいかな、苦しいけど。
新次は、常にそうだと思うけど
誰かに開かれてるような人間に見せて、その実、少しも相手を内側に入れることはない。
芳子との、部屋のシーンを見て思う。
誰より愛情に飢えているのに、触れたがって、実際触れもするくせに、土壇場で扉を閉める。
お前と俺の問題だ、と言いながら、どれだけ裕二のことを見てたんだろう。
私が、そう思ってしまうのは、後編の新次と裕二の試合後、裕二の表情があるからだ。
あの、表情!
映画館だから悲鳴を飲み込んだ。えらい。頑張った。
あんなに、情報量のある表情、なかなか見れない。あんなに、見てて心臓を握り潰されそうになる表情、ある?
裕二の敗北を、恐ろしく思うのは、劉輝の台詞があるからだ。
お天道様の下を歩くやつには、敵わない。
確かに、裕二はお天道様の下を歩く人なのかもしれない。奥さんがいて、子どもがいて。垣間見えるボクシングスタイルにも、真っ当さを感じる。
その、裕二が、負ける。
この事実の、絶望感を思う。
お天道様に勝つことは、なんなら、新次にとってどうしようもない絶望でもあると思う。救いが、あまりにないと思う。あの瞬間、この物語に穏やかな結末なんて、なくなってしまった。

ボクシングは、より強く相手を憎んだ者が勝つ。

そして、負けた人間は、忘れられていく。

その事実を、突きつけられた建二が選んだ、繋がりたいという欲求
穏やかなあのジムでの生活を捨ててでも、新次と戦いたいと思ったこと。初めて、ボクサーとしての目標ができたということ。
新次が、その気持ちを正確に理解して、同時にその手には乗るなよ、と口にすることにしびれながら、物語は終焉に向かう。


書きながら思ったんだけど、
書きたいことは他にもたくさんあるんだよ。
芳子親子のこととか、自殺防止クラブとデモとか、新次のお母さんが叫んだ、私は私の人生が欲しかった、とか。
なんて、熱量の凄い映画だろう。焼き付くように残り過ぎて、いつも以上に纏まりのない文になってる自信がある。
だけど、敢えて、どうしても、書きたいのは、裕二との試合を経た新次と、建二の試合のことなのです。
裕二は、見てもらいたい、少しでもこちらを見て、繋がって欲しいとずっと願い続けてて、
そしてそれはきっと、この映画に出てくる全ての人が願ってる。
願ってるのに、同時に手負いの獣みたいに、近付くな、と威嚇してる人々ばかりだ。
たぶん、裕二はその中で、手を伸ばして或いは伸ばされた手を掴める人だった。それが、お天道様の下を歩く男、という言葉から感じたことだ。
だけど、その裕二でも、どれだけ願っても新次とは、繋がれなかった。お前との問題だ、と執着しながら、勝ってしまった後は、新次はその手を掴まない。決してその存在を自分の中にいれはしない。
だから、言う。兄貴は、俺と繋がろうとしてる。そうはさせるかよ。と。

過去も、未来もないあの世界で、あれだけ丁寧に描かれた試合は、紛れもなく、今、の瞬間だった。


選ばれなかった新次と建二というふたりの男が、ひたすらに、互いを選んだようにあの試合で思った。
僕はここにいる、愛して欲しい、という訥々とした建二の声が蘇る。静かに、新次の拳をカウントする建二の声を、何度でも思い出す。

裕二も、芳子も、母親も、父親も、選ばなかったけど、選びたいと願うこともあった。
選びたい、選ばれたいと、願うことを、たぶん、私たちは知ってる。その切実すぎる願いがたぶん、孤独というのだと思う。
その中で、選べることが、選んで、選ばれてもらえることがどれくらい奇跡的な確率なんだろう。

新次が、叫ぶ。意識を失いかけた建二に、新次が叫んで呼びかける。
あれが、最後のお願いだったように思う。愛してくれ、愛させてくれという、祈りだった。
そして、たぶん、その祈りは聞き届けられると知ってるからこそ、口にできるものだった。


これは、新宿新次という男の物語だ。
日本という美しくて、汚い国で生きる男の物語だ。
或いは、唯一彼と本当に繋がることのできた、バリカン建二という男の物語だ。

選ばれなかったふたりの男が、ようやく、選ばれることを受け入れることのできた、物語だと思うのだ。