えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ラーヤと龍の王国

世界各地で仲間を集めて世界を救う。
そんなある意味で「よくあるお話」の『ラーヤと龍の王国』にものすごく心を揺さぶられた。
全く予想外なくらい綺麗にぶん殴られたような気がした。


よくあるお話、と書いたけど、ラーヤは別に「世界を救いたい」と思っていたわけじゃない。
世界は、人々が自己利益だけを追求した結果、邪悪な魔物が溢れかえり崩壊してしまった。多くの人が石になり、また魔物のせいで人々の移動はかなり制限されている。
そんな中、世界が崩壊するきっかけの場にいたラーヤは父を石にされる。父をはじめ、自分の国の人々を石にされたラーヤは「自分の国」を救う為に危険を犯して旅をして回る。人を信じず、世界のため、というより【自己利益】のために行動する。
信じない、必要なら人を出し抜く。


そんなラーヤが出逢った最後の龍シスーは対照的に無邪気だ。人を信じる、すぐに仲良くなろうとする。贈り物をしようとする。泳ぎが得意以外の特別な力がないと彼女自身は言っていたけど、ある意味「人を信じること」は十二分に特別な力なんじゃないか。そう思わせるほど、シスーは明るく、当たり前のように人を信じる。


その姿に、あるいは世界の各地、ラーヤと同じように傷付いた人たちがラーヤのもとに集いまるで家族のようになっていく姿に、驚くほど揺さぶられたのだ。


ちょっとビックリした。自分でも驚くほど、ラーヤに心を動かされていた。
もともと、観る予定があったわけではなく友人からの「面白かった」に興味が湧いてふらっと観に行った。なんならほぼ徹夜明けで「こんな状態で映画観て大丈夫かしら」と少し心配すらしていたんだけど、観出して、そんな心配は吹き飛んでいった。



ラーヤはコロナの影響で上映期間が延期され、ようやく今年公開された作品らしい。
だけど、むしろまるで「今この時」に公開されるために作られたような気がした。
これは、あちこちで言われていることでもある。正体不明の魔物に翻弄され、失わないようこれ以上傷つかないよう逆毛立つ猫みたいに過ごす人々。信じることのハードルが高く、疑うことの方が簡単で安全で確実だ。


ラーヤを観て、私はなんかこのコロナ禍で色々…敢えてその言葉を選ぶけど…傷付いたのはこんな状況をもってしても人は協力し合えないどころか分断するのか、ということだったんだなあ、と気付いた。
私は、たとえ普段は協力できない人々も大きな敵や危機を前にしたら人々は手を伸ばせる、繋げるという物語をどこかでずっと信じていたのかもしれない。だからこそ、それが間違いだったと気付くことになる世界の様子に傷ついた。
そして、傷付いたということを誤魔化すように「ほら世界は最低なんだ」と嘯いた。良くはならないとどこかで聞いた言葉をそのまま自分のものにした。それはたぶん、物凄く格好悪くて、不幸なことだった。
例え、最終的に「やっぱり世界は変わらない、最低のままだ」と結論を出すにしても、今じゃない。何もしていない、手を伸ばして足掻き切ったわけじゃない今では、絶対にないのだ。



ラーヤでも、人々は大きな敵を前に疑う。人を信じない、助けようとしない。それはそれで「間違ってない」。簡単に人は信じられる、と言いはしない。それがどれだけ怖く難しいことか、ハッキリと描く。
その上で、ラーヤの中で描かれた「信じること」「協力すること」は綺麗事と一蹴するものではないと思うし、どちらかというと切実な祈りで、ほんと、すごくすごく良かった。


ラーヤの冒頭、ラーヤのお父さんは武器を手に取り闘うべきだというラーヤに語りかける。
世界の国々で作られる食材を合わせて作ったご馳走が美味しいこと、それをその世界のみんなで食べることは楽しいこと。
そのシーンの暖かな湯気の様子が、本当に好きだった。




この『ラーヤと龍の王国』は子どもと観に行って欲しい。そしてできたら、観終わった帰り道、手を繋ぎながら世界の分断はいつか繋げることが出来ると言って欲しい。
これは何も、本当の「子ども」のことだけじゃない。私はたぶん、あの時観ながら途中、隣に子どもの自分が座っていた気がする。それは幼少期のトラウマなんて話ではなくて、もっと根本的な「子どもの自分」の話だ。
もちろん、本物の子ども、とも行ってほしい。
いずれにせよ、観終わった時、その子を抱き締めて「まだ世界は信じるのに値する素敵なところだよ」と心から言える。そんな風に思えたのだ。

その女、ジルバ

ああ、大好きだった。大好きなドラマだった。
ひとつ、そんなドラマに出逢えたことはなんて心強いんだろう。


その女、ジルバが完結した。

ここでも2度ブログを書くほど大好きなドラマだった。

あまりに好きで、終わってしまうことがどうしても嫌で13日の最終回から今日までついつい先延ばしにしていた。
そのドラマを、ようやく今日、見届けた。


1話時点で、コロナが彼女たちの世界にやってくることは分かっていた。
だけど、やはり分かっていてもなお、冒頭、苦しくて仕方なかった。同時に、一体どれくらいこうしてなくなってしまった場所があるだろうと思った。そして、すみれちゃんの出産にこの一年、出逢った生まれる瞬間がどれだけ希望だったかをクジラママの台詞に思い出していた。
生きていれば、命があればなんとかなる。
それはまだ私が口にするには、軽くなってしまう言葉だけど、クジラママが言うと確かな実感があった。


ジルバで描かれる毎日は、私にとってこうだったら良いなぁが詰まっていた。
9話でチーママが言っていた言葉を借りるなら、私たちは未来に希望を持てないような毎日のほうが身近だ。歳をとることは怖いことで、生き続けることは不幸にちょっとずつ近付くようなものだ。
若さが全ての幸福だとは思っていないけど、でも年老いることを楽しいと言ってくれることは、本当に少ない。いつだか、Twitterで歳をとることで得られる幸せを教えてほしい、というツイートを見かけたけど、ほんと、そういうの、あると思う。


しかもできたら、若さを失わずにイキイキするとかじゃなくて、いやそれでももちろんすごいことなんだけど、そうじゃなくて。
そう、ぐるぐると喉奥で喚いてた気持ちが掬いあげられるような気がした。



「女はシジューになってから!」
そんな気持ちのいい台詞に言葉が被せられて、なんなら年齢はどんどん上がっていく。
そして、彼女たちは日々積み重ねてきた何気ない、物語にもなり得ないような毎日の先で楽しそうに笑う。
その時間が本当に大好きで、元気をもらっていた。


何がこんなに心に突き刺さるのかと思いながら見ていた。
気が付けば、あの作品に出てくる人たちみんなのことが大好きになっていて、大好きだからなんかもう、みんなが笑ってるだけで、嬉しいんですよ。彼女たちがバラバラの場所で暮らすというだけで落ち込むし、なんかもう、なんだろうな。


ジルバを観ていると、帰る場所についてつい、考え込んでしまう。
白浜さんが特に刺さったのは、なんとなく私自身「帰る場所」にコンプレックスがあるからかもしれない。
というか、なんだろうな、ジルバって帰る場所を作る話、でもあると思うんですよ。
もちろん、アララには帰る故郷がある。
バーオールドジャックアンドローズの人々も、家族が待つ人もいる。
だけど、あのお店は帰る場所なんだ。


最近気付いた。
生きていると、帰る場所ってたぶん増えるのだ。
増やしていけるのだ。
そしてそれは血の繋がりだとか恋情とか、そういうものだけが必要用件じゃないんだ。



気が付けば、このドラマはそんな帰る場所の一つになっていた気がする。私の中で。
そこには楽しい常連さんがいて、ママたちがいて、笑って歌って、踊っている。そうして、教えてくれる。

生きてたら、笑っていたらきっと、楽しい。絶望するようなことも、笑い飛ばして、美味しいお酒を飲んで歌って踊る。


あの日、このままだと自分の人生を嫌いになってしまうと扉を開けたアララが、帰る場所を、一つ作って待っていてくれる。
そのことは、続く明日が何も怖いだけのものじゃないんだと、そう信じられるような、そんな柔らかな希望だ。

missing 〜強がり彼氏と食べちゃう彼女〜

ご飯が食べることは、生きることだ。
だからか、普段ファンタジーに対する解像度が高くない私にも物語がするりと入ってきた気がする。
食べること、その当たり前の生きていく上で絶対に切り離せないその行為を嫌悪する日が来たらどうだろう。嫌悪して、それでも生き物は食べないと生きていけない。食べたいという気持ちと食べたくないという気持ちの真ん中で過ごすのはどれくらい苦しいだろう。


そういうことを考えれば考えるほど、思う。
"食べること"は生きることなわけですが、
それを「最低限」仕方なく、ではなくて"楽しむ"彼女が好きだったな。
そして「人間が"食材"ではない」はたしかにいつから生まれた勘違いなんだろう。


missing 〜強がり彼氏と食べちゃう彼女〜

人を食べるようになってしまったイーター、ハーフ、そして食べられる可能性が生まれた人間。
ファンタジーなその世界観の中で、ひりひり焼き付くような言葉がポツポツあって、考えている。


さて、そんな中でもちろん、食べること食べられること、またこの物語の大切な要素である「足りないこと」「みんな足りないものを求めてる」というメッセージについても当然色々と考える。
ただその中でやっぱり私は作中登場するバンド、crossborderの話をしたい。
私はこの「つよたべ」を観ながら推しとオタク、について考えてしまったのだ。


それは勿論、そのバンドのリーダーを大好きな役者さんである亜音さんが演じているからというのも大きい。
だけど、それ以上に七海とろろさんが演じる「オリヴィエ」の存在が心に刺さったからだと思う。

オリヴィエはこのバンドのファンで、いわゆるオタク、である。そして、その熱量のままに今はバンドのマネージャーをやっている。超行動派のファンだ。
メンバーにどストレートに愛情を伝えて、バンドの為にくるくると動き回るオリヴィエはめちゃくちゃ可愛い。

ところで、こういう「オタク」の役を見ると私は時々そわそわしてしまう。自分がそうだから、というのもあるけどテンプレート的な描かれ方をするとつい苦笑してしまうし、
リアリティがあったらあったで共感性羞恥心みたいなものでゔゔゔと呻いたことも2度や3度ではない。
でも、このオリヴィエはなんか、観ていて全然そんな感情が起こらなかった。なんなら、なんだか、妙に元気にもなった。めちゃくちゃ可愛いな…!ってにこにこしながら、その姿に元気をもらった気がする。

とろろさんご自身が「推し」が、いるからかもしれない。Twitterなどで好きなものの話をする様子をもともと一方的に知っていたことによる先入観なのかもしれない。
それは分からないけど、ともかく、本当にオリヴィエが楽しそうで嬉しそうで、なんか、純度120%のラブがあって、それがすごく、心地良かった。
純度、というとなんか、言葉がズレるけど。

オタクには色んなタイプのオタクがいる。
現場・茶の間、みたいな話ではなくて愛情表現だったり理由だったりは千差万別だ。

そして彼女は、バンドへの愛のままマネージャーになったというのも納得なほど「推しに背筋を正されるタイプ」のオタクである。
しかもそれが言葉としてではなくて、行動や生き方に表れていくタイプだ。もう、そんなの、めちゃくちゃ格好良い。



アクションシーンの中で、オリヴィエがネイサの決め台詞を言うところがほんっとーに好きで。
なんか、無性に泣けた。彼女にとってのcrossborderの大きさが一番あのシーン伝わって泣いた。
大好きなんだな。大好きで憧れで、好きでいるだけでどんどん強くなれるようなそんな存在なんだな。
「こう在りたい」の形で、本当に物凄く好きだ。


ということを考えながらふと「みんな足りないものを求めてる」という言葉がすとんと落ちてきた。更に言えば、竹石さん演じるプロスペールの「繋がりたい」という言葉を思い出した。

欲求、というと自己内で完結するもの、他者に対して、あるいは社会に向かうもの、とかよくある哲学の教科書に載ってた図式を思い出す。難しいことはよく分からないから割愛するけど。
なんか、そういうのだよな、と言葉にならないままのもやのようなものを手で触って確認する。


作中、食べたい食べたくない、繋がりたい、尊い、とか、なんか、色んな「こうしたい」という言葉や感情が描かれる。それは全部、実は一緒なんじゃないか。
私は感傷的なのでそれはつまりあいしたいってことなんじゃないか、と綺麗でそれっぽい言葉に纏めそうになるけど、でもなんか、ちょっとズレるな。

色んなオタクがいるので、それが全てだというつもりはないけど、でももしかしたら「推しが好き」という時、それは足りない何かを求めて、なのかもな、とも思った。
それは自分に足りない、じゃなくて、もしかしたら世界に足りない、の話なのかもしれない。
欲しい、と思うこと。あるいはそれを我慢すること。

なんか、ほんと、つよたべの人たち、みんながみんな愛おしいからさ。その上、観てると心臓がぎゅっとなるような苦しさがある。
それに、意地悪!と叫びたくなるくらい残酷に「解決しない問題がある」ことをつよたべは最後、描いて残した。
し、意地悪!と書いたけど、そんなところが好き。もしあの話がハッピーエンドでみんなが笑ってる、で終わっていたら私はここまで考え込んでなかったと思う。


じゃあその問題が解決するのはいつか、と聞かれたらきっと解決する日はない。綺麗に全て問題がなくなりましたやったー!なんてことはないし、時間薬、なんていうけどそれが全員に当てはまる保証もない。
ハッピーエンド、ではない。終わらない。彼らは、これからもあそこで生きて、ご飯を食べる。できたら、それが少しでも幸せな食事が多いと良いなあと願うけど。



それでも、好きだ!って気持ちを真っ直ぐ表せたら、とオリヴィエの姿に元気をもらった私は思う。そうすることが、美味しい!という幸せを一つでも多く増やすことなんじゃないか。
そんなことをこじつけのように考えるのは、私がオタクだからかもしれない。

すばらしき世界

※映画のネタバレを含みます、お気をつけください
また、題材上『ヤクザと家族』についても触れているためご注意ください


この映画を観た理由は、シンプルだった。
世界は、捨てたものじゃないと思えるか、生きていることは悪いことじゃないと思えるか。
そう思いたい。
そう監督のインタビュー記事を思って、私はこの映画を観た。
すばらしき世界。
観終わって数日、私はこの世界を「すばらしい」と思えるか、ずっと、考えている。


物語は実在したら人物をモデルにしたこの映画は、人生の半分を刑務所で過ごした三上の物語だ。


三上を演じる役所広司さんのお芝居ひとつひとつが、愛おしくて、その分苦しい。
冒頭、彼が出所するところから物語は始まる。罪状は「殺人」。しかし、彼はどうも、反省しているか、と言われると微妙なところだというやりとりが合間に挟まる。
そうして淡々と、三上の新しい生活が始まる。もう二度と、刑務所に戻らないために、「正しい」生活を目指す。


三上は良い人か悪い人か、というのは少し難しい。そもそも、そこを分ける必要もまあないんだけど。
可笑しなくらい素直で真っ直ぐで、だけど時々、凶暴性を覗かせる。
「ヤクザ」である彼は……組に所属すると言うよりかは流すようにあちこちに顔がきいた、ということなのでこの表現が正しいかもわからない……組所属云々は抜きにしても反社会的存在である。
それでも、組に所属していなかったからこそ、反社を取り締まる色んな法律に雁字搦めになることはなく、「やり直す」ことができると彼に関わる『真っ当』な人たちは口にする。



ちょうど、ヤクザと家族を観たのもあってこの辺りの首の皮一枚的な救いに息が詰まった。



この救いがあったなら、とも、この救いがあっても、の両方の気持ちがぐるぐると喉の奥に渦巻いた。
作中も出てくる「人と関わりを持つこと」を考える。孤立しないこと、誰かと関わること。


そのことが、三上の場合、救いにもなるし、
あるいは、彼が堕ちていく危ない落とし穴のようにも思える。


これは反社会的存在の話でもあるけど、実際、そうして「生き辛い」ひと、そこでしか生きていけなかった、反社会という場所が受け皿になった人のことを思う。
そして、それは、長澤まさみさんが演じる女性が言ったとおり、何も「反社会」の話だけじゃない。
たぶん、同じように生きづらく息が詰まってじわじわと死んでいく人が、いくらでもいるんじゃないか。


やり直せるのか、というのはすごく難しくて、それはやり直すことが許されるのか、というのもあるし、本人の性根の部分の話でもある。
そして、性根、というならそうなってしまった元々を辿ると、彼自身の力じゃどうしようもないことがたくさんあるわけで。出自がその人の全てを決めるという考えは、多少色んな人を大きく傷付けると思うし、あまり好ましいとは思わないけど、
事実、そのことでそもそも用意されなかった選択肢はあるんだろう。


じゃあ、どうしたら良かったんだよ、とずっと考えていた。
そもそも、誰もが生きやすい社会、なんて言うけど、「救い」を求めてる誰か、に可愛げはなかったりする。そう書いてたのは誰だったろう。そもそも、救い、なんて人を下に見て、優越感に浸ってるんじゃないか、と酷いことを思いもする。そうなってくると、だんだん、何も分からなくなるけど。


それでも、弁護士の夫婦や、六角さん演じるスーパーの店長、仲野太賀さんが演じるジャーナリストの彼らの関わりを思うと大きく、息を吐いて吸えるような、そんな気がする。
人と関わること、大切だと思うこと。そこにあるのは、同情とか憐れみだとかではなくて、いやもしかしたらその一片はあるのかもしれないけど、そうじゃなくて、そういうのを全部引っくるめた情で、幸せでいてほしいという願いだ。
そしてそのことは、三上自身が生きてきたことで得た、よすがなんじゃないか。


土台、全ての点と接することはできない。
誰かを救おうとするんじゃなくて、自分の腕が届く範囲、大切な誰かの幸せを願うこと。その為に、他人を損なわないこと。そんなことを、画面の中に観た気がする。


たださ、そう思いながら、三上が「堕ちて」いかないために、目を瞑り耳を塞ぐことを彼らが口にした解き、私はやっぱり胸が潰れるような心地がした。
間違っていない。
正義感に駆られて拳を振るえば、また失う。
じゃあ他に方法は……例えば、言葉を尽くすとか、そういうこととか、と考えるけど、
残念ながらきっと『伝わらない』ことがある。
だから暴力に訴えるんだ、というのは、良くないけど。
でも、きっと、言葉を尽くして伝わること全てじゃない。


「変なこと」に遭遇した時。人って笑うんだよな。笑ってバカにして、あの人変だよね、って言う。
それに同意すること、見てみぬふりすることが正しいと言われてるけど、でも、そうして見てみぬふりされて、泣きたくなったことがある。
誰かに何がおかしいの、とか、おかしいとダメなの、って一緒に言って欲しかったことが私はあるよ。
だから余計に、そういうことが全部嫌になるんだけど、ここ最近でも「そうすることが傷付かない方法だよ」と諭されるものだからどうしたもんかな、と思う。
120%の善意だ。私に傷付かないで欲しい、傷付いて消えてしまわないでくれという優しさだ。
だけど、そう私がすることできっといつかの私は今日また一人死んだんだろうな。



キムラさんが演じる姐さんの台詞が、この作中、一番好きだった。
この世界は、生きるのに値するのか。生きるこの世界は、「すばらしき世界」なのか。
まだ私には分からない。
この映画を観て、胸を張って私はこの世界をすばらしき世界だと言うことは、出来そうにもない。
ただそれでも、苦しいだけじゃない愛おしさを噛み締めるみたいに何度も何度も、思い出してる。映った空の青さの美しさが、ずっと、目に焼き付いてるのだ。

 

どこまでいってもひとり

源さんのことを好きだなあ、と、思うと色んなところが浮かぶ。
今日はその中でもとびきりの話をする。


ところで
孤独じゃないひとっているんだろうか。
誰だってだいたい孤独だと思っていたけど違うのか。
それはただの寂しいであって、孤独とは違うって言われるかもしれないけど
その違いが分かるような分からないような気がする。
孤独だ、と大々的に主張するつもりはないし、実際私の場合、恵まれてるところもたくさんある。
だけどどうしようもないあれは、所謂孤独じゃ無いのか、と考える。
孤独なんだね、と言われたいわけでは全くないけれど。
昔から、無性にひとりでいたくなる時がある。
例えば、部活の大会終わり。身体も頭もくたくたで心地良くて、それこそ「ひとつになれた」ような余韻があって、そうすると、無性にひとりになりたくなる。
どれだけハッキリとした誰か、の存在があっても別のなにかだ、ということがむしろ際立って、それにじっと耐えるためにひとりでいたい。
そういう時、誰かとはしゃぐとよりじくじくと痛むような気がして、よくひとりでじっと目を瞑って寝たふりをしていた。今思えば思春期のナルシシズム的なものな気もしているけれど。


源さんは、そんな孤独をどこまでいってもなくならないという。そこが本当に好きなところなんだと思う。
文が好きで、お芝居が好きで、音楽が楽しい。それは間違いなくそれぞれ源さんの好きなところだけどなによりも、きっとそんなところが好きなんだ。


2月27日放送のマツコ会議を観た。
創造以降のインタビューやバラエティなどが本当に楽しくてありがたい。楽しいことがあるの嬉しいなあ。


星野源のすごいところ、孤独をそのままに在るものとしてくれるところなんだけど、同時に「孤独でもいい」とは言わないことなんだよな。
孤独が平気な人、というマツコさんの星野源評には頷いた上で、孤独は寂しいと思ってるし、そこに真っ当に傷付いてるひとなのだ。



孤独に惹かれる……それは孤独な人に、ではなくて孤独でありたいと思うという意味で……ひとはもしかしたら「特別でありたい」からなんじゃないか。
創作活動をする人や、そういう『特別(だと思う)ひと』は少々暴論だけど、孤独な匂いがする人が多い。
そうなると、孤独であることは格好良かったり、そうありたい、と思ってしまうことだってあると思う。
ただ、やはりそこまで考えたとき、最初に書いたようにいやでも孤独じゃない人なんているのか?と思うし、それは孤独の美化じゃないかしら、と居心地の悪さを感じてしまう。
特に美化してしまうと、本人が苦しんでることを無視してるようにも思えるし、なんか、こんがらがってくるんじゃないか。


だから、孤独でもいい、と言わない彼が好きだ。
みんな人は孤独だとして、もしくは、孤独の中に素敵な孤独のようなものがあるとして、
それを良いもの、とは言わないことが誠実だなあと思う。
(そろそろ孤独って打ちすぎてゲシュタルト崩壊してきた。だけど、もう少し打つ)


今回、創造がリリースされて私はセカンドアルバムの中の『変わらないまま』が聴きたくなった。

私はこの曲が大好きだ。

『変わらないまま』が好きなのは、「これでいいわけはないけど 前は見ずとも歩けるの」って歌詞なんですが。
人気者の群れにさらばって言って、音楽や本の中で暮らすことはいいわけはない、でも、前は見ずとも歩いてる。いつか輝く日がくる、とも言ってくれるし、この、このバランスがさ。


孤独を良いものとも悪いものとも言わずに、ただ在るっていう、それを表現する星野源が心の底から好きだ。


孤独ってすごく扱いが難しい。
色んなリアクションがあって当たり前だけど、なんとなくそこにただ在ることを歌う彼が好ましいことから逆算するみたいに考える。
例えば、その孤独はなくすというか、なおさないといけないものなんだろうか。癒やしたり、満たさないといけないものなんだろうか。
孤独に耐える、という時、ひとはついつい「どうしたらそうじゃなくなるか」を考える。
『ケア』をしようとする。
だけど、ただじっと待ちながら追い払わずに過ごすことは、間違いだろうか。


太宰治がいつか「本を読まないということはそのひとが孤独でないことの証明である」と言っていた。
孤独と顔を合わせた時、電話する友達がいればいいけど、という源さんの言葉を聞いてでもそういう時誰かに電話できたとして、そうすると余計に虚しさが増すことがあるよな、と考えながらその言葉を思い出した。
友達だけじゃなく例えば一生ずっと一緒にいようと決めたパートナーがいたら平気か、孤独がやってこないか、と言われたらきっとそうでもないと思う。そういう人がいる相手に、孤独じゃなくて良いですね、なんてとてもじゃないが言えない。



それはつまり、孤独は誰かと一緒にいることで解消するとも限らないし、
孤独だということは誰もいないということともイコールじゃないと、思うんだよなあ。


でも嫌じゃん、ということも分かる。孤独はしんどいじゃん、ということには頷く。
だけど、だから、本を読むしお芝居を観るし音楽を聴くし、映画を観るんじゃないのか。


あーそうかもしれない、と昨日寝る前に思った。
好きなお芝居やライブについて話してて、ああそれ私も好きって笑ってる時例えばよくよく話せば好きの理由は違ったりするんだけど、おなじ、なのが心地良いので、それかもな…。
一緒でいることへの罪悪感も、違うことへの寂しさもないから。
違っても、楽しい、はうそじゃないから。


ああそうか、これが橋か、と思った。
橋なんだよなあ。一緒に過ごすための場所でも方法でもなく、こんにちは、って言い合うために、エンタメがあったらいいな。だったら素敵だな。と、源さんの音楽とかその他もろもろ、表現に触れるたびに思えるから好きだよ。



星野源を「分かる」ことは一生無いし、理解しあうこともしてもらうこともないけど、同じ音楽やお芝居や文章でほんの少し触れ合った時のあたたかみをくれる彼が好きだし、それを橋、と表現するところがさらに好きだなあ、と思った。
ひとりじゃないと言ってくれる人や表現ももちろん優しいけど、その後くる虚しさを考えると、きっと一生孤独だよって言ってくれる方が気が楽だし、その中で時々こんにちは、と言えることの方が心強い瞬間があるんだよなあ。私は身勝手なので。
寂しいからこそ、会った時もっと嬉しい。空腹は最高のスパイスみたいな、そんな感じか。ちょっと違うか。


以上が、私が源さんのことを好きな1番の理由だ。
マツコ会議、最高な上に2021年3月6日の土曜夜までTverで見れるから良ければぜひ。



マツコ会議
初対談!マツコと星野源の本音トーク…孤独と変態性、熱く語る!
#TVer #マツコ会議
https://tver.jp/corner/f0068356

LDHのライブに行きたい

ライブが好きだ。
LDHが好きだ。


しかし元々、LDHが好きだったか、と問われるとそうでもない。
EXILEが好きな同級生や、三代目が好きなお客さんの話を「へえ〜!」と聞きながら
私には関係のない、交わることのない世界だなあと思っていた。
それが気が付けばこんな風に好きになって、もうすぐ、何度目かのファンクラブ更新の時期を迎える。わりとこのブログでもその話をしてきてるから、今更、そのハマった経緯を書く必要もないかもしれない。
でも、そうして何度もしてしまうくらい私にとってLDHを、また彼らが作るエンタメを好きになったことはひとつ、人生の大きな転機だった。


そんなことをここ一年と少し、よく考える。
LDHのライブだけではなく、もともとの自分の生活になくてはならなかった芝居や友人との時間が軒並みなくなったから、というのはあるけれど、
本当に面白いくらい調子が悪くなった。
体調を崩した、というよりかは、気が付けばネガティヴなことが頭を過ぎる。
そういう思考回路が随分久しぶりな気がした。

もともと私は捻くれ者だしどちらかといえば皮肉屋だし悲観主義な人間だという自覚がある。
しかしぐるぐると後ろ向きなことを考えた時、
「あ、これなんか懐かしいな」と思ったことにびっくりした。それが「久しぶり」なことにもびっくりした。



その中で、友人と話していて、それだー!と叫びそうになったので、今こうして文を書いている。

この前友人と、LDHのライブに行かなくなって、LDHに出逢う前の自分に戻ったような気がする、という話をした。いかんせん、その言葉は私を通って解釈されているし、その時リモート飲み会でお酒も入っていたからニュアンスの話にはなるけれど。
LDHのライブが無くなって、昔に戻った気がする。
もとの、世界のいろんなことに腹が立って、すぐに皮肉を言いたくなるような、無理じゃん、と口走りそうになるような、
そんな自分に私は久しぶりに再会した。



LDHにハマってからそんな自分とはお別れしたような気がしていた。
絶対負けねえ、と何があっても前を向く彼らに刺激を受けて
世界がどれだけ素敵なところか歌う彼らに感動して、
私は「変わった」と思っていた。
しかし、コロナによってライブが軒並み中止になりもうまる一年。あの、当日の中止を知らされたその時から、ライブというものに触れていない。
もちろん、彼らは無観客でのオンラインライブを4シーズンに分けて実施、
それはただネットでライブを配信するのではなく、「オンラインライブ」だからこその表現で私たちを驚かせ、物凄く楽しませてくれた。
だけどそれは「オンラインライブ」であって、
一年おあずけのままの「ライブ」とはまた別の素敵なものなのだ。
だから、生のライブ、に一年触れていない。


そうして一年過してるうちに、
お別れしたつもりのネガティヴで世界のことが嫌いで色んなことが許せない自分がひょっこり顔を出す。不安なことがたくさんあると膝を抱える。


そんな自分を持て余してもいるんだけど、
なんというか、ライブが失くなってからなんか前みたいに戻った感じする、と友達と話して、あ、だよな?!とちょっとほっとした。
なんでこうなんだよって正体不明の、たぶん世間だとかそういうものに怒って、クダを巻きながら一緒に悪態を吐いてきた友人と、ライブに行って、それから「変わった」こと、そしてライブに行けなくなって、「戻った」こと。
そういうことを「だよな?!」と確認できて、なんなら一周回って私はほっとした。


ああそうだ、ライブってやっぱり、私や私たちには必要だったんだ。
そんなことは去年からもう何度も確認してきたけれど、こういう発見はまた一つ、実感をもって私にその大切さを教えてくれた。



LDHの……特に、直人さんのパフォーマンスを観て、私はハイローという作品だけでなく事務所全体に興味を持った。

(詳しくは去年、直人さんの話をブログに書いたときに書いた)


ダンスに詳しいわけじゃないけれど、彼らのパフォーマンスが物凄いトレーニングの積み重ねがなければ成立しないことだけは画面から伝わる熱量で想像できた。
そして、実際にライブ会場に足を運び、私は何度も何度も、その熱を直接浴びてきたのだ。
何万人をも熱狂させるパフォーマンスが、歌が、彼らの全部がいつもビシバシに届く。
少しも手を抜かず、届きますように、と作り込まれてやれるだけのことを全部やってぶつけられる、あの熱が大好きだ。


そしてあの場所で、ステージ上にいる彼らと
客席にいる私たちが、もうしっちゃかめっちゃかに、楽しい!最高!!をぶつけ合うのが、本当に、心の底から好きだ。
あの言葉にはなりようもない唸るような熱が、私にとって大袈裟でもなく、人間のことを好きだなあと思える数少ない瞬間だと思う。


だってそれは、理屈ではなく、もう、信じられる何かだった。
皮肉屋に「それでも世界は素敵だ」と「ぜってえ負けねえ」と信じさせるだけの説得力と有無を言わせなさがあった。
そうして思い切り幸せにしてもらうと、もうちょっと頑張ってみよう、と自然と思えてたんだよなあ。
ほら、不要不急なんかじゃないじゃん、エンタメ。絶対いるじゃん。


ふとこのことをここ数日考えてて、そんなことを思う。そうして、私めちゃくちゃ「不要不急」って言葉に腹が立ったし、なんなら今も腹が立ち続けてるんだな、と気付く。

この記事では、LDHのエンタメに特化して書いてるけど、とどのつまり、私はそういう色んな……ライブだけじゃなく、お芝居や音楽や映画によって、背筋を真っ直ぐにしてたんだなあ、と思う。そしてそれを作ってくれる人たちに向けられる「不要不急」という刃物みたいな言葉に、もう、めちゃくちゃ、腹が立って仕方ない。


だってすごくないですか。
どうしようもなくネガティヴだった人をすげえポジティブ人間にしちゃうんですよ。
なってねえじゃん、元に戻ったんだろって言われそうだけど、そうじゃないんだよ。
別にドーピングとかってわけでもなくて、
なんか、カルシウムとって骨を強くする、みたいな、そういうものと一緒なんじゃないか。
一回の摂取じゃ意味ないでしょ、生きてるんだから。
ご飯だってどれだけ美味しいものを一回食べようが、ダメなんだから。生きていくために、毎日食べる必要があるんだから。


なんか、今回、改めて私にとってあのライブはそういうものだったんだな、と気付いた。そのことが、すごく、嬉しい。
そして同時にだから、早くまたライブに行きたい。彼らと楽しいね、最高だね、と熱をぶつけ合いたい。


2021年、LDHは生での有人観客のライブの復活を掲げている。
そして、それはきっと本気で「実現する」のだろう。安全に、全員が幸せになれる、幸せにするつもりで彼らはその方法を模索してくれているんだな、と思う。
そう思うのは、去年末に開催されたカウントダウンライブの様子がまるで反撃の狼煙のように感じたからかもしれない。各グループの魅力をそれぞれに存分に魅せ、かつ、それは去年「不要不急」と言われた中で道を探し、オンラインライブを重ねながら培ったものの結晶のように私には見えた。



負けたって決めなきゃ、それはまだ勝つ途中だ。



彼ららしいそんな言葉が、たしかに聞こえる。
どうか、彼らのステージが早く帰ってきますように。客席とステージで、熱のぶつけ合いがまた実現しますように。
私が行けるのはきっとまだ当分先だろうが、そんなことを心の底から願う。
そして、いつか私も足を運べたその時はきっとまた何倍もの力で「人生って最高じゃん!」と叫べるような、そんな気がしているのだ。

あの頃。

推しは、人生の全てで
人生の一部なんだよな。


そんなことを考えながら映画を観ていた。
冒頭「あやや」に出逢うシーンから目頭が熱くなったのは、もう何年も所謂「推し」がいる人間として過ごしているから仕方ないだろう。

この映画のキャッチフレーズは

"推し"に出会って
"仲間"ができた

だ。
観る前から予告をみて、これはまた全オタク(特に三次元を対象にする人の)へ強烈なボディブローを喰らわせそうな映画だな、と思っていた。
また、何より大好きな今泉監督の作品ということもあってかなり楽しみにしていた映画だ。
特にこの時期、楽しみな映画が一つ上映されるということは大きな奇跡でとんでもない喜びである。そんなわけで、今日観に行くことを本当に心から楽しみにしていた。


まず素直に感想を一つ述べると「思ったよりボディブロー決まらなかったな」というものがある。
それは、何も映画の出来や物語の良し悪しの話ではなく、劇中描かれるオタクのコミュニティが絶妙に自分の経験とは違うものだったからだ。

ハロプロ……特にあややが推しである釼さんとその仲間たち。彼らの楽しそうな日常に「あるある」の共感と「あ、そういうのもあるんだ?!」の驚きが交互に訪れた。
男性ファン・女性ファンの違いかもしれないし、時代や、対象ジャンルが微妙に違うからかもしれない。
所謂男子校的なノリに分かるような分からないような、という気持ちになり、そういう意味では一歩俯瞰して観たのかもしれなかった。



それでも。
あややに目を奪われ、なんだか無性に泣けたこと
走り出して買いに行ったCD、
同じ「オタク」たちと観た映像、ライブについてのお喋り
それから付随して、だんだんと「推し」と関係ない話をしていく時間すら、愛おしくなること。
それらは、例えば性別・時代・ジャンルが違えど、どこか馴染みがある瞬間ばかりだった。


最近は抵抗なく「推し」という表現を使うようになった。これは、そこにある共通認識的なニュアンスが伝えやすいのと、素直に好きな人、としての言葉を重ねていくと、ちょっと重たくなるのもあってネットスラング的なノリで、推し、と私は言っている。


実際、「推し」と同じように呼ぶ人々の中で、その「推し」の定義は様々だったりするんだろう。
し、そう呼ぶひとたちにはいろんな人たちがいる。


劇中の「馬場さん」とのシーンが物凄く好きだった。
その人にとって、推し、は色んな意味があるんだろう。そして、同じ「推し」を推していても、色んなひとがいる。同じように視線を向けていて、同じように熱狂していても、違う人たちだ。


劇中、ありがとうって伝えろよ、って会話があまりにも覚えのある会話だった。今思い出しても呻いてしまう。


ライブのアンコール前、ありがとう!と叫びたくなることや、
お芝居の面会で面白かったです、とありがとうございました、しか出なくなることを、思い出す。

あれ、客観的に観るとなんのありがとう?って言われないか不安になることもあるんだけど、
でも、本当に、ありがとう、なんだよな。



推しのステージを観るために乗り切れることって絶対にあるじゃないですか。
あと数日であの舞台がある、ライブがある。円盤が発売される、音源が出る。
そうして越えてきた夜がどれだけあるのかって話なんだよ。
あややに向ける釼さんの言葉ひとつひとつが、そういう意味では、分かる、わかる…!と泣けていた。


あなたに会うために、あなたがステージで輝く姿を観るために、今日まで過ごしてきました。過ごせました。
そして、その裏側にも私の人生はあって、
そこにもあなたのおかげで出逢った仲間たちがいるんです。


もうそんなの、ありがとう、しか言えること、ないじゃんか。


今泉監督の、日常シーンが私はすごくすごく好きで、なので今回も、本当に何気ないようなシーン一つ一つが温泉みたいに心地良かった。
し、なんか、今改めて考えながら、あの頃。の好きなところは、ずっと「推し」の話をしてるんじゃなくて、
なんならだんだん、推し「以外」の瞬間も増えていくところで、それがまた丁寧で、なんか、好きな温度感で描かれていて、それが、本当にすごく、好きだった。
推しだけで、生活してるわけじゃなくて、推し以外の人生も大切な人生の一つで、
なんかそれって別に分けてする話じゃないんだよな。
釼さんとナカウチさんの、あのライブハウス終わりの会話がすごく、好きだった。あのシーン、ずっと観ていたかったな。



同じようにオタクな私だけど、当然、釼さんたちとは違うから、あれは彼らの「あの頃。」だ。
だけど、どこか懐かしくて恋しくて、
そしてだからこそ、彼らが楽しそうなこととか、そういう色んなことが無性に嬉しかった。
嫌な奴なところもたくさんあるし、共感できないこともたくさんあるんだけど、
なんだか総じて、そうなんだよな、推しがいること、そこで出逢えた人たちがいること、そして、そこから今があること、全部ぜんぶ、最高なんだよな、と思っていた。思えた。



あの頃、はよかったなんて言うつもりはない。
生きている今が1番だと、推しはいつだって教えてくれたからだ。
びっくりするくらい唐突に、私たち「オタク」の毎日を、色鮮やかに変えた「推し」が、そこで出会った「仲間」が、
毎日の楽しいこと、をくれたのだ。
その毎日は、今日と続く「あの頃。」なんだと、なんか、そんな気持ちになって帰ることができたことが、すごく、嬉しかった。



それはそれとして、また「オタク」と「推し」の話をしながらバカみたいにたくさん、笑いたいな。