えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

泣くな、はらちゃん

漫画の中の登場人物たちと本当に話せたらいいのに。一緒に暮らせたらいいのに。
そんな風に想像したことのない漫画好きはいないんじゃないか。

漫画や、アニメ、小説に映画、ドラマ。
作り物の創作物たちに心を寄せてそれが本当ならいいのに、と夢想したことがある人間にとって描写ひとつひとつがダイレクトに刺さってくるドラマだった。


泣くな、はらちゃんは蒲鉾工場で働く越前さんとそんな越前さんがストレスをぶつけるようにして描く漫画の中の人々の話だ。
越前さん自身が大好きな漫画家の登場人物を使って、彼女は普段飲み込んでしまう鬱憤を漫画の中で晴らす。言えない不満を言い、怒れないもやもやを怒る。
そんな漫画の世界のはらちゃんたちは「神様が笑えばこの世界はもっと楽しくなるのでは」と漫画の中から飛び出して、
越前さん……神様を幸せにしようと奮闘する。幸せでいてほしい、と願う、片思いになり、両思いになりたいと口にする。



はらちゃんは漫画の世界しか知らないから
飛び出してきた現実世界の色んなことに目を輝かす。
そんな姿がまず、なによりも好きだった。
作中、「もっと聞いてください、あれはなんですかって」と蒲鉾工場の後輩がいうシーンがあったけど、
その気持ちはなんとなく分かる気がする。
はらちゃんは良いやつで、そんなはらちゃんが目を輝かせてあれは?!と聞いてくれる姿はなんだか嬉しい。
知ったそれを、嬉しそうに復唱しはしゃぐ姿を見るのは嬉しい。



しかし、
はらちゃんたちは現実の世界が、素敵なだけの世界じゃないことを知る。
その時に、越前さんが泣くのがなんだか無性に苦しかった。なんと言うか、なんか、あーーーーって叫びたくなった。彼らが好きだから、生み出してしまったから、存在させてしまったから、なんか、ごめん、みたいな、気持ちが胸に差し迫った。ごめん、こんな世界でごめん。
できたら、はらちゃんたちが目を輝かせていられる世界が良かった。そうじゃないならこんな世界手放せたらいいのにな、とも思う。
でもなんか、そうじゃないんだよな。
はらちゃんが言った言葉を考えてる。
世界と両思いになりたい、という言葉を噛みしめてる。



今日、ちょうど友人と電話していた。
哲学とか、倫理とかそういうの今こそ勉強したくなるもんね、と話ながら思った。
最近私は「ああだから芸術が世界にはあるのか」とよく思う。
芸術とか思想や宗教とか、なんか、ああだからか!と実感として差し迫っていて、なんというか、その感覚を知れたのはちょっとだけ、得をしたな、と思ってる。



越前さんが言う。
はらちゃんたちは友人で、恋人で、家族だと。
大切で大好きで、だからこそ、誰にも言えない苦しさや楽しさを、越前さんは漫画に描く。
一から生み出したわけでは、ないけれど。むしろ、ないからこそ。


創作物に心が救われることがある。
そんな「つくりもの」たちは、友人で恋人で家族だ。たった一つ、自分だけの。
生み出した作者すら介在できないくらいの「わたしだけ」の存在だと、思うことがある。観て、出逢った時心の中には自分だけの「彼ら」が生まれるのだ。
生身の友人達、家族や恋人も大好きだけど、そんな「彼ら」もとても大切で理由の一つで、どうしようもない日に逢いに行く人たちだ。


そして、きっと、そんな彼らがいるのは、好きなのはこの世界を好きでいたいからこそじゃないだろうか。
世界を好きになりたくて「つくりもの」を生み出して、好きでいること。




エンタメは不要不急だと言われるこの世界、このタイミングでこのドラマに出逢えてよかった。
私の世界への片思いは、きっとエンタメという「つくりもの」の形をしている。そんなような、気がしている。

ヤクザと家族

[2021.1.31追記 ネタバレ有りの感想です]

生き甲斐って言葉ってすごく難しい。というか、危うい言葉だよな、と思う。
生きていて良かったと思えるなにか。このために生きているというなにか。
そんなことをついつい最近考えがちだけど、考えれば考えるほど、それが「ある」と思ってるからこんなにしんどいんじゃないか、と思った。
少し前に読んだ本に、時間という概念を人間が手に入れた話を読んでて、なるほどな…?と考えているんだけど、考える、から入っていってしまう迷宮のようなものはあると思うし
「甲斐」なんて途方もないことを考えるのは苦しい。あるかどうかも分からないことを、ある、と考えることは正しいんだろうか。


そんなことを思うのに、画面に溢れる「愛したい」という気持ちを見ていると心臓が軋むような気持ちになる。愛したい、愛したい。そうして、愛情を注げることを「生き甲斐」と呼びたくなるような、そんなことを考えてる。



ヤクザと家族、は1999年、2005年、2019年の三つの時間を軸に物語を描く。
タイトルにストレートにあるように、ヤクザの話だ。
しかし、抗争を描くのではなく、家族の物語を描く。
本当の父も母もいない、だけど家族がいる。
ある出来事をきっかけに拾われた男、山本が家族を得ていく。
その様を丁寧に丁寧に描いていく。ただ、同時に「ヤクザ」の物語だから家族を得てハッピーエンド、とはいかない。
ヤクザを取り巻く環境は時代を経るごとに変わるし、どうしてもその性質上、暴力がついて回る。
そもそも、柴咲組に拾われるきっかけになる出来事も暴力が絡んでいるし。


綾野剛さんが出演されていたMIU404の言葉を借りると「間違え続ける」ことになるシーンがわりと結構、たくさんある。



それでも何より、心が軋んだのは、そんな暴力の血生臭さがついて回る彼らがどうしようもなく、ただの人で、家族だったことだ。
オヤジを慕う山本の目は、父を慕う子どものそれだし、微妙にすれ違う兄貴と山本のやりとりは兄弟喧嘩のそれに見える。
それでも、彼らは「ヤクザ」である。
観ながら、別にこれはヤクザ賛美でもなくて、と考えてしまって難しいな、と思った。
ヤクザ格好いい!の映画ではないと思う。更に言えば、作中も描かれる彼らが「許されない」ことは必要な面もある。
じゃあどこで、と考えて、答えのなさに呻きたくなる。同時に、そこの答えを出すことがこの映画の答えでもないと思うんだけど。


愛したい、という気持ちは愛されたい、よりも切実で暴力的かもしれなくて、そして、愛おしく思う。
なんか、ずっと山本が愛したいって泣くみたいに生きるものだからずっと、観終わってから心が苦しい。
愛していたし、愛されていた。


感想を書きながら全然オチが浮かばないんですよ。いい話だったとも、後味が悪いとも言えなくて、なんとまとめたらいいか分からない。
ただなんだか、叫び出したいような、抱き締めたいような気持ちを持て余してる。
起承転結の、綺麗な終わりではなくて、答えを明示してくれるわけでもなくて、ただ、なんだか、シーンのひとつひとつを確かめるみたいに、そのひとつひとつが愛おしくて堪らなくて、心が軋むような、この苦しさはなんだろう。
愛の物語だ、という言葉を反芻している。
愛してるし愛されている、たまらなく、狂おしいくらいに。でも、それだけじゃままならなくて、なのに、ラスト、残ったものはあって、ああもう、どうしたら良いんだろう。

観終わって、入った店でぼんやり考え事をしていたら苦しい光景を見た。苦しいと思うことも私の勝手でなんなら下品さすらあったと思うんだけど、それでもなんだか、ああクソみたいだなあと毒づきたくなった。ままならない、と考えるのをやめたくなる。
壊れそうな崩れそうな社会で生きていくことはしんどい。山本が死ぬ時、心底安心してしまった。ああ、もうこんなクソみたいなどん詰まりにこの人はいなくていいんだとホッとした。
それがとてつもなく、残酷で良くないことだなって、ラストのふたりを見て思う。


分からないし、分からないからずっと考えてる。生き甲斐、なんて大袈裟な言葉かもしれないし、そんなことを考えても仕方ないとは思う。だけど、山本の笑顔が忘れられない。
愛したい、そうしてそれが生きる理由で生まれてきた理由だと、そんなことを、ずっとずっと、考えている。できたら、誰かを愛することが理由だったら、生き甲斐だったらいいのに。途方も、ないんだとしても。

英国王のスピーチ

なんの映画を観た時だったろう。その予告を観て、観たいと思った。思いながらもその頃は今のようにしょっちゅう映画を観るような習慣がなくて、結局、映画館に足を運ばなかった。
だけど、強烈に「この映画はきっと好きだ」という予感がしていた。
いくつかの賞の受賞のニュースを観た時はうんうんと、観てもないのに頷いた。好きな人が面白かった、と感想を書いてるのを見た時はうれしくなった。


もしかしたら、楽しみにしすぎてしまったのかもしれない。頭の中で勝手に出来上がった「好きなもの」に実際に触れる時はいつもドキドキする。


そんな風に観るタイミングを探していた映画「英国王のスピーチ」をついに観た。
そして、その映画は間違いなく、想像以上に好きな映画だった。それがまず、本当に嬉しい。



あらすじ(Wikipediaより)
吃音に悩まされたイギリス王ジョージ6世コリン・ファース)と、その治療にあたったオーストラリア(大英帝国構成国)出身の平民である言語療法士ジェフリー・ラッシュ)の友情を史実を基に描いた作品。




時代の舞台は第二次世界大戦直前。あらすじでは、ジョージ6世……この感想では、バーティと書く……バーティは王、とあるが物語の初めではまだ即位していない。彼のお父さんが王であり、なんなら兄もいる。しかし、父は高齢、兄は自由奔放で「王位」はいつかバーティが継ぐ必要があることはひしひしと画面から伝わってくる。
ちょうど、ラジオなどの技術が発達していた時代。
そして、そもそも世界が揺れていた時代、演説のうまさ……言葉の説得力やカリスマ性がリーダーには求められる。しかし、バーティは吃音でうまく話せない。話そうとすればするほど、言葉は詰まり、苦しそうに顔を歪める。


この、バーティを演じるコリン・ファースさんのお芝居で最初に惹かれたのはその目だった。もう、すごい。目が。
言語療法士であるライオネルの診療所や自室で揺れる目に言葉にならない彼の心のかけらを見たような気がする。その目の雄弁さを思うと、彼が言葉にできなかった、音にならないまま握り潰された言葉について思いを馳せてしまう。



あるシーンで口にされた「聞いてもらう権利がある」という言葉が印象的だった。



ライオネルは、診療のはじめ、彼の生い立ちから知ろうとする。
吃音の専門的な知識について、私はほとんど持ち合わせていない。あるのはこの作品や他のドラマから得た断片的なフィクションの世界で描かれた知識だけだ。だから生い立ちがイコールで吃音という症状に繋がるのかどうか、ということは分からない。
だけど、バーティにとって今まで何度も握り潰され、あるいはその結果どうせ聞いてもらえないと握りつぶした言葉がどれほど大きなものたったか、考える。



繰り返しいう、聞いてもらう権利がある、という言葉。
話す権利、ではないのだ。
聞いてもらう権利、なんだ。言葉は、受取手がいて、初めて存在する。
その受取手は他人であったり、自分であったりする。だけど、いずれにせよ、受け取られて初めて、存在するのは間違いない。受け取られないならそもそも出てくることすら、出来ないのかもしれない。

一言一言紡がれる、彼の言葉が胸に迫ったのはそんなことを思ったからかもしれなかった。目の奥に沈んでいた言葉が、受取手の存在で溢れていく。そのシーンは、本当に美しかった。

民王

政治の話って好きだろうか?
こう聞かれて、人によっては日々うんざりするようなメディア…テレビに限らず、ネットも…に流れてくるニュースを思い出すかもしれないし
人によっては歴史小説、あるいはSFでの架空の国での描写を思い出すかもしれない。

ちなみに私はどっちもそこそこ楽しむし、そこそこ身構えるスタンスだ。するならするけど、所構わずしたいわけじゃなく、場合によってはたまに読み飛ばしてしまう。


なのでもちろん、今回のこのブログもこんな書き出しにしたのはわけがある。
民王を観たのだ。



民王は2015年にドラマ化された池井戸潤さんの作品を原作とする話である。
内容としては、100代目総理大臣になった武藤泰山とその息子、良いやつだけどともかくバカな翔の中身が入れ替わってしまう、というドタバタコメディだ。

そう、コメディなんですよ!!!!
私、実はあまり池井戸潤さんの作品をそんなに読んでないどころかドラマもあまり観ていない。完全に乗り遅れて、まあもう乗り遅れたならいいか、とスルーしてきた。
なので、今回民王を見始めて驚いた。めちゃくちゃコメディ。思った以上にすげえ面白い(念のため言っておくと笑うっていう意味で。決して今まで見てなかったのは面白くなさそう、という理由ではない)し、主軸と関係ないようなエピソード・小ネタをガンガン入れてくる。なんなら菅田将暉さんが息子、翔くん(といいつつ話の中での大半は中身はお父さんな訳だけど)を演じているのもあって、仮面ライダーWのネタをガンガン入れてくる。
これ、当時家族で観てかなり楽しんだご家族も多いんじゃないの。なんだ、めちゃくちゃ素敵じゃないか。


コメディなんだ。もう、本当に、物凄く徹底して。
そしてこれも度々言ってるんだけど、コメディは強い。もう、本当に、強い。
好みの話ではあるけど、なんせ、だって、笑うんだ。ひとが。コメディを観ると。
それって物凄いことじゃないだろうか。


もう本当に、各役者さんの芸達者っぷりにワクワクしてくるわけです。全8話、ずーーーっとワクワクしっぱなし。
普段ドラマを観るのがそこそこ遅いタイプの私も思わず一気見してしまった。ありがとうAmazonプライム
コメディを演じてるひとのエネルギーって本当にたまらないものがあるわけですが、
更にそれに「入れ替わり」ネタを入れてくるのだ。
しかも遠藤さんと菅田さんが、です。
年齢もキャラクターの性格も全く違うひとが、それぞれ2役を演じるように「入れ替わり」を演じる。もう、この、ワクワク感!すごい!ごいがない!でもだってそうなんだもん!!ワクワクしたんだもん!!!!!!

本当に不思議で、菅田さんがだんだん遠藤さんに、そして遠藤さんが菅田さんに見えてくる。
その上に、この演じた相手の芝居を受けてのお芝居の、奥行きというか、なんでしょうね、ほんとうに無限の広がりみたいなのが観れちゃうんですよ…。


このドラマを見ながら、同じ骨格・パーツを持っていてもこんなに表情筋の動き方でまるで違う顔になるのか、ということを何度も何度も考えていた。
なんだろう、もう全然具体的な話にならねえな。でもなんというか、本当に、最近こういうドラマを観ながら「あーーーーお芝居が好きだ!」って思うのが最高に楽しくて幸せでしかたなくて、民王は本当にそれを味わいまくれたのですごくすごく、良かったんですよね。
その上、何度も言いますが、コメディですから。まじでわりとずっと爆笑してましたからね、私。ひとりで。仕事終わりだろうが休みの日だろうが見ながらひたっすらげらげら笑いながらずっと夢中になっていた。


そう、コメディってすごい。コメディは疲れててもなんとなく笑えたり楽しめたりする。分かりやすくて、げらげら笑ってて、そうしてるうちに話に夢中になるのだ。
「分かりやすい話」ってすごい。
分かりにくいことが羨ましくなったり、難解なことに憧れたりすることもないでもないが、
それでもやっぱりいつも「分かりやすいってすごいなあ!」という気持ちになる。


民王は、池井戸潤さんの作品らしく(イメージの話)(よくよく考えると半沢直樹のこととかも「コメディ」なのかもしれないので本当にイメージ、でしかないな。ちゃんと観れてないけど)政治や経済の話が絡まって熱い人間ドラマが繰り広げられる。


今回、なんせバカな息子が総理大臣の中身になっているから色んな「難しい話」や「ややこしい話」をかなり噛み砕いて展開される。
更にまさしく今就活生である彼がその目線で言う「なんで?」「どうして?」は、庶民の……っていう表現もなんかやなんだけど……目線とかなり近かったりする。
こういう書き方をすると凝り固まった総理大臣をはじめとする政治家に物申す!みたいな話に聞こえかねないけれども、
もちろんそれだけじゃなく、総理大臣側の武藤泰山の側から見えた「世界」もしっかり描く。
どちらかが「正解」の勧善懲悪の話ではなくて、「どうして」の話を丁寧にかつ、めちゃくちゃコメディタッチで描いていくのだ。

それがまた、本当に、心地いい。


こんなご時世なので、どうしても色んなことを表す時にちょっと怒ったような言葉になったりするじゃないですか。
怒ったような、っていうとちょっと幼い言い方になってしまうんだけど刺々しいというか、
隙あらば人を陥れる言い方だったりマウントの取り合いだったり、
そこまでいかなくても負の感情の方が目につきやすい。
そして、どうしてもそれは「世の中」に向けられて、更に言うと「政治」に向けられるじゃないですか。


だからだんだんと世の中、や政治、から目を背けたくなってくることもまあ、あったりする。
ダメなんだけど。だめというか、目を背ける背けないっていうか、ただそこにあるだけの話で、自分事なんだけど。
でも、やっぱりこう負の感情って引っ張られるしついでにいうと「考えてもなんにも変わんないじゃん!」みたいな無気力感になったりもするし。


私が冒頭、『するならするけど、所構わずしたいわけじゃなく、場合によってはたまに読み飛ばしてしまう』と書いたのは
それが押し付ける・相手を言い負かす、ためにするならただただ疲れるし場合によっては悲しくなるからだ。
ただ、民王はコメディなのだ。


なんで汗水流して稼いで治めた税金が困ってる目の前の人に使えないんですか?
なんで同じ政治家同士で足を引っ張り合うんですか?
それって、ただのプライベートじゃないですか?



そう、真っ直ぐに問い掛けるそれは相手に対して言い負かそうというよりかは「彼の言葉」だ。
それを笑い飛ばそうが、そうだなと思おうがそこから先は「私次第」だな、と思う。


そして「私」は、明日が良い日になればいい、と心の底から思った。


民王は6年前のドラマなんだけど、台詞の一つ一つに、つい今の状況を思い出した。政治への不信感、というとそのまんまになるけど、まさしく、なんで、どうして、の気持ちがそのまま台詞になって出てきたような気がする。
そしてその中で、泰山や翔くんが、一つ一つ問題に立ち向かっていく姿は清々しかった。ドラマだから解決するのだ、と言われればそれまでだけど、それでも、なんかいいじゃん、と思う。
その姿を格好いい、と思えることに安心する。


受け取りやすくするための努力をするひとが好きだ。
相手が受け取れるように心を尽くすひとが好きだ。



少し話はズレるけど、「受け取りやすい」は同時に気をつけなきゃいけないとも思っていて、
「そう思わせるための誘導」だったりする可能性も十二分にある。そうかどうか、の分かれ道はもう、考え続けることしかないんじゃないか、と思うんだけど。
感想を書きながら「面白かった」「分かり易かった」は同時にそういう話になってしまわないか、と頭の隅で思っていた。
でも、別にこれが正解って話ではないと思うんだよな。もし民王が正解、を示しているとしたらそれは、「人を大切にすること」そのただ一つな気がする。


そして何より民王は、まず面白い物語を作ろうとして、その先でもっと良い……人を大切にする世界になったらいいのに、と紡いだ物語なような気がして物凄く嬉しかった。


去年からずっと思っているけど、面白いものが作りたいという熱意で作られた話ってなんでこんなに元気が出るんだろうな。これも、主観の話でしかないけど。
すげー元気になってしまったな。
その上まだスペシャルやスピンオフが残ってるからすごくワクワクしている。



そしてほんの少し「翔くんより歳上なんだし、ちょっと頑張ろうかな」なんて思う。まずは、誰かとしっかり話をするために、相手に受け取りやすく伝えようとするところから。

こんなところにあったのか

ここ2日本をめちゃくちゃ読んでまして、あ、嘘すいません、めちゃくちゃは読んでないです。
2日間で3冊なので盛っていった。盛っていったんだけど、冊数じゃないのだ。オダサクこと織田作之助さんも冊数じゃない読書法の話を書いていたしそういうことだ。
ともかく、なんというか、入ってきた情報というか情報というと味気ないなともかくそういう書かれていること、みたいなものが物凄く心地良くてテンションが高い。すごいぞ、めちゃくちゃテンションが高い。

そんなわけで、ある話がしたい。



夏から定期的にウンウンと唸っていて、客観的にみればバカらしいような堂々巡りをずっと続けている。続けながら、さらに定期的にああでもないこうでもない、と文章を書いてきた。
思えば、もともとはただの感想ブログだったここに個人的に考えたことの断片を(その良し悪しは一旦さておくとして)書くようになったのも……とはいえ、その前から「推しとは」と定期的にろくろは回していたけれども……その頃からな気がする。肌感覚だけど。



最初は「いまこんなに苦しいのは"辿り着きたい場所"が欲しいんじゃないか?」という仮定から始まった。


それから約半年後、読んだよ、という言葉が嬉しくて7月にたてた仮定のそれからについて考えた。


で、一旦置いていたんですが。
置いておきながらもちろん相も変わらず悩みまくってて悩みっていうか煩悩みたいな、なんかなんでこんな苦しいんだろうと明確な悩みがあるわけでもないのに虚無感に襲われていた。
それが行きすぎて落ち込んだり、逆に無視しようと好きなことを無理やり明るく並べてみては失敗したり、……まあそんな通常運転といえば通常運転な毎日を過ごしながら、ふと思い立った。


そうだ仏教の本を読もう。

しんどい理由は色々あれど、というか、このご時世しんどい人がほとんどだと思う。理由はそれぞれだとしても。
で、そういうことを色々考えてて、私は私の大好きな劇団、X-QUESTさんを思い出した。
ブラック西遊記、四天王というお芝居があってどっちも孫悟空が出てくる。

西遊記は、仏教の教えの話だ。
そして私はブラック西遊記や四天王の台詞を思い出した。自分を抑圧することはストレスだと語る三蔵法師たちのことを思い出した。仏教では執着の話が出てくる。そういえば、四天王でもブラック西遊記でも執着し、生き老いることで失われる苦悩を描いていた。
これはまさしく、今どうしようもなくぐるぐると袋小路に入ってる私にぴったりなのでは?!ととっつきやすそうな「入門」を読んだ。ついでに背表紙を見てたら読みたくなったのでイスラム教の本も読んだ。


で、そういうことを色々と書いてるとなんか悩みを解決するための答えを本の中で見つけられた、みたいな展開になりそうだけど、
なかった。
も、全くなかった。むしろわりとどれも人間は生きてるうちは苦しみます★って書いてあって清々しかった。ブッダも悟り開いた後も悩みや苦しみは近くにあったのかもな、とちょっと笑いそうなくらいだった。
で、だから自分の頭で考えなさい、とかやりたいようにやりなさいとか、目の前のことをしっかり愉しみなさい、とか色々と書いてあって、
あーーーーーー?!とちょっとぴんときたわけですよ。唐突に。
一昨日読んだ後にもなんか無性にはしゃぎ倒しそうになったんだけど、昨日また別の本読んでてもはしゃぎ倒してしまった。すごいな、読書効果。



辿り着きたい場所云々、と言いながら要は私は「やりたいこと」がなかったのだ。
これ、別に今に始まったことじゃなく、就活の時からなんならその前の一回一回起こる進路選択の頃から特になかった。
好きなものがハッキリしてるので時々「プロになりたいの?」とか「そういう仕事がしたいの?」って聞かれることはあったんだけど、
むしろ私は捻くれていたので「好きなものを仕事にする」ことはしたくなかった。
なんというかしっくり来なかった。私の好きなものは私なんかに出来るほど簡単じゃないんだよ、という斜め上な根性のせいかもしれない。じゃあ努力すれば良かったのに、と当時の私に会えば今の私は苦笑しそうだけど。


ところがどっこい、だ。
そんな私はまあ色々会ったけど社会に出てから楽しかったのだ。


一昨年までの部署は、学生とよく話す仕事だった。その中で「通勤電車とか見てると暗い顔した社会人しか乗ってなくて不安だ」と言われたことが忘れられない。
私はわりと胸を張って「社会に出てからが楽しい」と断言するタイプの人間だった。
これは別に学生時代がつまらなかったというわけでもなく。むしろ、高校にしろ大学にしろ面白おかしく話せるくらい濃くて楽しい毎日だったとも思ってるし、もし時間をやり直せてもきっと同じ時間を過ごすだろうな、と思う。
それでも、私はその時、「社会に出てからの方が私は絶対楽しい」と断言した。
なんでだか、覚えてない。でもともかく、楽しかったし楽しいと思っていた。
毎日明日がくるのが楽しみだったしやりたいことがあるから休みたいというのはあったけど「会社に行きたくない」はここ3年ほど味わってなかった。会社のことで本気で腹を立てても「行きたくない、やりたくない」は幸せなことに全くなかったのだ。


楽しいことがあった次の日仕事があったら、ここでもらったエネルギーぶつけるぞー!オラ、ワクワクすっぞ!くらいのテンションだった。



それがこんなご時世になり、友人と離れ、その他諸々、環境の大きな変化だとかで仕事が楽しい、と思えなくなった。
仕事どころか、生きるのが楽しくなくなった。
当たり前だ。
元々、そんなに生きるのは好きではなくて
でも好きな人や好きなものがあって、なら楽しいな、面白いな、が私の人生のスタンスだったのだ。それがなくなったら、元の人生嫌いが顔を出す。



人間、死ぬことだけが決まっているのになんで生きてるんだろうな。
そう思ってると、嫌になってくる。そこになんとか「意味」が欲しくて、辿り着きたい場所があったら変わるだろうか、とか、色々考え、
好きなもので人生を面白がろうと去年末に決めたのだ。


で、そう決めながらもずっと何がしたいんだろうって考えていた。辿り着きたい場所がなくても良いか、と、保留にしつつそれでもやっぱり何かしら考えてはしまっていた。
意味なんかない、暮らしがあるだけと言われればそれまでだし、意味を求められ続けるのもしんどいんだけど、でもなんか欲しいよ割に合わねえよ。割りなんて求めたらキリないなんて分かってるけどさ、って
延々とドラマや映画を観て友達と喋って、極め付けに本を読んで、あ、これだわ、と思った。


なんか、どこを切り取っても楽しいな、でいたいのだ。
私が仕事が楽しかったのは、好きだったからじゃない。好きでもないことを仕事にした上で楽しめたらめちゃくちゃ面白くないか?!と思ったからだ。
あと昔師匠が、週に8時間×5日も時間取られるなら楽しんだが良くね?って言ってたから実践してただけだ。
仕事をしてるところで切り取っても楽しい、が欲しかった。

これ、どっかでそんなこと思ったな、とブログを遡ったら2年前の私が既に書いてた。


今の私の人生をここできりとったら、どんな形をしてるんだろうか。川を眺めるしかなかったあの頃より、ちょっとはマシになってるだろうか。


そして、そう振り返りながら冷静にここ最近嫌だったのは、もし私が今いきなり死んだら、「可哀想」な話にしかならないからだな、と思った。
それがたぶんすごく嫌で、そうならない為に友人達と会えない分をせめて好きなもので埋めようとしたんだけど、それはそれで虚しくなってたんだなあ、と思い至った。



で、そうしながら、でもこの数週間楽しくて……それは本当に、なんというか、無理してとかじゃなくて
ドラマや映画を観るのも虚しさを埋めるとかじゃなくて、もちろんそういうのも0じゃないけど、なんか、普通に楽しいんだよな、と思って、突然、「辿り着きたい場所」が見えた気がした。



どこで切り取っても、あー楽しかったって死ねる人生が良い。
そんで、私はそのために文を書き続けたい。
うまく言葉にならないんだけど、なんか、あ、書きてえって「目の前のことを愉しめ」って見た時に思ったのだ。
そう思えたのは読んだよ、と言ってくれる人たちがいたからかもしれないし
喋ることが好きだなあと色んな人と話しながら思って、なんで喋るのが好きなんだろうと振り返ったからかもしれない。


これだけべらべらと自分の話をしながらまるで説得力がないけれど、私は人の話を聴くのが好きだ。その人の色んな考えや見えてるものを分けてもらえるような気がして物凄く好きだ。
突き詰めれば、お芝居や映画、ドラマもダンスも、ありとあらゆる表現が好きな理由はそこにある気がする。
結局ひとが好きで、その好きなひとを味わい尽くしたいのだ。
そしてそれを味わう一つの手段が喋ることであり、こうして文字に起こすことなんだと思う。
文字にしながら自分の中で消化して、
もちろんそれは自然そのままのものではないかもしれないけれど、
だからなおさら、私だけの宝物になるのだ。


あと何より。
言葉が届いた瞬間、を、ここ数年有難いこと体感していて。感想とか、好きなものの話とか、別に誰に聞かせるわけでもなく、自分の為にしていたことだったけど
それを届いたよ、って伝えてくれる人がいて、それが本当に本当に、嬉しかったんだよな。
それがたぶん、宝物になってて背骨を支えてくれてるんだよ。


その宝物をともかく、増やしたいんだと思う。
その増えていく宝物があれば、何があろうが私の人生は「あー楽しかった」になるはずなのだ。

うん、そうだな、私たぶん、文を書くのがめちゃくちゃ好きなのだ。
それに気付くのに二十何年もかかってしまった。


…閃いたときにはもっとこう、目の前がひらけた気がしたんだけど、どうだろう、伝わるのか、これ。分かんないけど、まあいいか。
ともかく、なので今年もたくさん文が書きたい。感想も、こういう思考回路の断片も、書けそうなら小説だって書きたい。


死ぬことだけが決まってる人生で、そういうことで面白がれたら、私にとっては「意味があった」な気がする。
そして私の人生という物語は、私という読者を満足させたいが一番の今の欲求だと思うのだ。
なんだよ、やりたいこと、こんなところにあったのか。

うちで踊ろう(大晦日)

うちで踊ろう(大晦日)が公開された。

https://youtu.be/j3q1V3QHSU4


紅白で観て、それから毎日のようになんなら見終わった直後から「あの『うちで踊ろう(大晦日)』をもう一度聴きたい」と呻いていた私にとってこの知らせは物凄い朗報だった。
週末の夕方、突然その知らせを受けた瞬間はわりと本気でお年玉か?!と思ったし、仕事始めでくたくたになった中で凄いご褒美をもらってしまったと打ち震えた。

2020年の終わり、そして2021年の始まりに色濃い印象を残したこの音楽とパフォーマンスについて、忘れないように文に残しておきたい。



『うちで踊ろう』といえば星野源さんに興味があるなしに関わらず、多くの人に知れ渡った楽曲である。
1回目の緊急事態宣言の直前、4月3日のInstagramに投稿されたそれは、星野源さんからのある遊びの誘いのようだな、と思う。
(もっとも、私はMIU404をきっかけに源さんに興味を持ったため、当時をリアルタイムでは追いかけられていない。それでも、自分の好きな人々が次々にコラボしていく動画を見ながら面白い仕掛けだなあと思ったことは記憶に残っている)



うちで踊ろうの歌詞を読むと、まるで励ますエールのようにも思えるし、実際そうした意味合いとして受け取ることもあるのだけど、
何より、それは『面白い』ことをしたいという物凄くシンプルな仕掛けなんだと思う。



応援をするため、ではなく、「面白い」ことをする。それに周りの人々を巻き込み、遊ぶ。



まだまだど新規な私ではあるけど、その『面白さ』を生み出す姿は、とても源さんの魅力そのものなように思う。
ソロ活動10周年の記念として発売された『GRATITUDE』で観た初期のシングルの特典ディスクの中でも、
また放送されるごとに話題を呼ぶおげんさんでも
常に『面白い』を求めて、生み出していく。
そして生まれた『面白い』を誰よりも楽しむ。
それはこの短い期間でも強く印象に残った彼の姿だ。


源さんの影響でマリンバを買って、時々気まぐれに叩いているんですが、
やっぱりせっかくだし、とうちで踊ろうを叩こうと思って楽譜を探して物凄くシンプルな曲なんだな、ということに驚いた。
音楽の知識がないから実際のところは分からないけど、でも、あ、叩きやすいし覚えられるな、と思った。
そして、色んな『重ねられた』うちで踊ろうを聴いて、こんなアイデアやアレンジがあるのか!とまた驚いた。シンプルだからこそ、色んなことができたりするのかな、と思う。
これは私が言うまでもないことだけど、実際投稿されたたくさんの『重なり合った』うちで踊ろうは色んなアイデアがあって、
音楽だけではなくアニメや喋り、大喜利的な動画編集があったりと、その幅は物凄く広い。
それは作る側として参加できずとも、十二分に楽しめるくらい『面白い』ことだった。


そんな、うちで踊ろうに(大晦日)が付いた新しいアレンジ。発表されてから、自然と期待値は上がったし、同時に源さんだからきっとそんな上がりまくった期待値を軽々と越えていくんだろうな、とワクワクとドキドキで息苦しさすら覚えながら、テレビに向かっていた。


うちで踊ろうは、何度も聴いていた。源さんの曲としてだけではなく、直人さんのダンス動画を始め、色んな人の重ねた動画を何度も何度も観ていた。
だから、ワクワクしながら同時に「全く違うものになるのかな」という寂しさのようなものを感じていたのも事実だ。
もちろん、それはほとんど無いにも等しいような不安だったし、同じように時間を置いて2番を作られた『アイデア』を思えば、不安よりも期待の方が圧倒的に大きかった。
それでも新たに加わった歌詞の「あなたの胸のうちで踊ろう」という歌詞では、「うちで踊ろう」からいつものリズムへと戻っていく。
音楽知識があれば、もっと具体的に正確に書けたのだけど、あの歌詞を聴いた時に、痺れた。


新しいうちで踊ろう、は私たちが春から楽しんできた、一緒に重なり遊んできた『うちで踊ろう』と同じなのだ。


古い友人の変わらないところを見れた安堵感のような、それでいて、またこうして一緒に新しい時間を過ごしていることの嬉しさのような、そんなあたたかな気持ちが湧き上がった。
そしてそんな優しさを含んだ歌は、しかし、ストレートにシビアなことも口にする。

確かに、春のあの宣言時、こんな年末を迎えるとは思ってなかった。緊急事態という言葉の強さに怯えながらもまだどこか「今までの日常」がすぐに戻ってくると思っていた。
しかし、年末にはさすがに「来年になればきっと」と楽天的なことを思うことすら、難しくなっていた。

そんなことを思うと、12月の最後に放送された星野源さんのオールナイトニッポンを思い出す。

こういう年越しになると、来年は良い年になるだろうなって、なってほしいなって思うじゃない?
でもね、たぶん大変だと思う、来年も。

それを聞いた時に、そうだよな、とすとんとなにかが落ちてくるような気持ちになった。
確かにそんな楽天的な気持ちに縋りたくすら、あるけれども、きっと、それは難しい。むしろ、もっと許せない、それこそ人間って下らないなと吐き捨てたくなるようなことをこれからだって見ていくことになってしまうんだろう。それは、他人がどうこうということだけじゃなく、そんな中で自分にうんざりする可能性だって、十分、あるのだ。だって、今までだってそうだったんだから。

そう思うと、途方にすら暮れたくなるし投げ出したくもなる。
それでも、うちで踊ろうの歌詞は言う。
飯を作る、風呂に入る。
当たり前のただ、生活を続けていく。それが一番、難しいことだとしても。ただただ、生活を続ける。
膨大で先の見えない、時間だとしても。
それは幸運でも幸せでもない、どうしようもない瞬間だってある。

うちで踊ろう(大晦日)はこうすればうまくいく、という歌でもない。全てを肯定してくれるわけでもない。むしろ、はっきりとどうしようもなさもくだらなさも口にする。

いつか、エッセイで言っていた

どうかこの歌があなたの人生の役に立ちますように。僕の歌は応援しかできない。

救っては、くれない。音楽は、救ったりはしない。
それでもこんな面白しことがあると心臓を躍らせることが唯一、こんな苦しさの中で生きる理由になるんじゃないか。
そう思える瞬間をくれるから、私は彼の曲が大好きなのかもしれなかった。

ガンバレるか人類

「がんばれ」そうずっと言われているようなドラマだった。
ゆりちゃんを好きだと言った花村さんの気持ちに、そしてそれが一筋の光になったとゆりちゃんに。あるいは、友達のためにと遊びに来てくれるやっさんに、少しでも良くなりますようにと祈る3人に。つらいという気持ちを共感し合うみくりさんと平匡さんのハグに。そして何より、みくりさんと亜江の笑顔に柔らかく微笑む平匡さんの笑顔に。
がんばれ、がんばれ。
そのエールは私にとっては押し付けがましいものではなく、ひとつひとつ、まだ残ってる「美しいもの」を数えるようだった。



「逃げ恥」の新春スペシャルは感想を書こうとすると二つに分けたくなるほど情報が多い。
前半の亜江ちゃんが生まれるまでの物語と、ドラマオリジナルのストーリーである「コロナ渦」の彼らを描いたストーリーと。

ただどちらも、ままならなさというかどうしようもないような「どうすんの?!」な困難が立ち向かってくる物語である。



ところで、逃げるは恥だが役に立つ、の元々のドラマシリーズを私は2020年になって観た。

MIU404を観て星野源さんにハマったことで漠然として苦手意識を持っていたドラマと向き合おうと思ったことがきっかけだった。
そして、実際観てみて驚いたことがある。
ちょうどMIU404の志摩が、自分の危険を顧みず行動しがちだったこともあり、平匡さんを見て、ものすごく「逞しさ」を感じたのだ。
そもそも、「逃げるは恥だが役に立つ」とは作中でも説明されるとおり、ハンガリーの言葉だ。
そしてそれは2016年放送されたドラマの中でも平匡さんによってその意味が説明される。

「後ろ向きの選択だって良いじゃないか
恥ずかしい逃げ方だったとしても生き抜くことの方が大切で、
その点においては異論も反論も認めない」


その生きようとする強さに、平匡さんすげえな、と視聴当時、驚いたことを今回のスペシャルドラマを観て思い出した。
平匡さんは決して生きることが器用な方ではない。むしろ間違いなく不器用に分類されるだろう。
そんな彼が生きるということについて逃げ出すわけでも投げ出すわけでもなく、むしろ「生きる」ために「逃げる」ことを選択するほどの前向きさを持って向き合っている。
私は平匡さんのそういうところがたまらなく好きだな、と思っていた。

そして、それは今回の新春スペシャルで描かれた2020年の彼……いや、平匡さんに限らず、どの登場人物たちもそんな雰囲気があったような気がする。

後半のコロナ渦の物語に限らず、出産・育児、あるいはゆりちゃんを中心に少し触れられた「人生を歩むこと」において、
どうしようもないような気すらしてしまう「詰み」を感じることは多い。
それは制度や曖昧な「世間」のような空気感が原因のものもあれば、そもそも生物としての(出産や病気など)リスクもある。
そして同時にそのほとんどが「どうにかしなきゃいけないもの」たちだ。




どうしても平匡さん中心の見方をしてしまったのでアレなんですが、
私はあの、出産間近の時の平匡さんとみくりさんが険悪になったシーン、大晦日の職場での平匡さんの
「ゴミを…ゴミを…ゴミを…ッ!」が
もうめちゃくちゃ辛かった。
感想を書くために見返してて2回目なのにばっちり泣くくらい辛かった。なんなら軽く声を上げて泣いた。



やらなきゃいけないのだ。
平気じゃなきゃいけないのだ。
そんなことはないって言説は世の中いくらだって溢れてるけど、とはいえゴミは出さないと無くならないし、子どもを産む肉体的負担を背負えるのは女性だけだし、仕事をしないと生活していけないし
「つらい」はどうしようもないことが多いのだ。

そんな気持ちになって、投げ出せもしない平匡さんにちょっと拳を握りながら泣いた。
だからこそ、みくりさんのハグの「つらい」の共感が、心の底から染み渡った。
ちょうど、リアタイした後にTwitterで思わずこのシーンが滲み過ぎて弱音を漏らしてしまったんどけど、
なんというか、どうしようもない解決策のないことでも辛いって言って、辛いよね辛かったね、ってこう、荷物を途中おいて休んでもいいのか、とあったかいお風呂に入っだような安心感が心を覆っていた。


その後、こうして感想を書くまで数日、またいろんなことを考えていたんだけど、とはいえ、同時に「でももう辛いとかしんどいって言うの飽きたよ」と思う私もいるのだ。
わりとブログにしろTwitterにしろちょこちよこそういうことは言葉にしてて、でもどうしようもないじゃん、と思うし、それを続けるのもなんかこう、しっくりこないというかどうしても落ち着かない気持ちになってくる。



ただ、もう、なんか正解はないのかもしれない。
ゴールテープはまた当分見えることは無さそうだ。
だとしたら無理に「辛いことは言っていこう」にも「ここは踏ん張っていこう」にも振り切らず、なんというか、もうそれこそ
「生き抜くことの方が大切で」
その時その時の戦略をとっていくしかないんじゃないか。



そしてたぶん、その戦略をとるために人は人と話して、あるいは好きなものや面白いことを観て諦め切ることのないよう、世界はまだ美しいと思えるように、過ごすしかないんじゃないか。
なんだか毎度の結論になってしまって恐縮だけども、そんなふうに思う。



それは、野木さんの作品を観るたびに思うことでもある。
今回の逃げ恥新春スペシャルでも、MIU404でも野木さんはコロナ渦の「今」と地続きの世界を描いた。
その良し悪しは好みの分かれるところでもあると思う。実際、今もなお、終わりが見えないなかで「現実」からエンタメを見ているときくらい離れたいという人は少なくないと思うし、その気持ちは痛いほど私の中にもある。
ただ、それでも、こうしてこのタイミングで描かれるなかで「必ず、必ず、…生きていればまた会える」という言葉がよすがになっているような気もするのだ。
今、生きていれば、と呟いてあるいは言い合って「生きてまた」と約束に約束を重ねて、なんとかやっていくこと。



それは、生き抜くための方法の一つなんじゃないか。


ガンバレ人類、とサブタイトルに銘打たれたこのドラマは、もちろん相変わらず笑えるシーンや愛おしいな可愛いな、と思うシーンもたくさんある。
そんなシーンのあたたかさと「生きていればまた会える」を繰り返し繰り返し、思い出す。
ガンバレるか、人類、頑張ってくれ、人類。
そうして越えたところにも悲しいことも辛いこともあるだろう。
根本的な遣る瀬なさは世情なんて関係なく、無くならずあるものなんだろう。
それでも、そう思えるような時間だったことを、まだぐるぐると確認するように思い出している。