えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ノッキン オブ ヘブンズ ドア

探偵社で巻き起こる、事件にまつわるお話。
出てくる人たちは物語のキャラクターらしく風変わりだけど、その根っこにあるのは身近な優しさで、誰も彼もが何気ない存在だった。

 


あらすじ(corichより)


天国探偵社は、他の探偵事務所で依頼を断られた人たちが最後に訪れる『駆け込み寺』のような探偵事務所。
そのため、舞い込んでくる依頼は少し不思議なものばかり。
今日も依頼人達がちょっと不思議な依頼を抱えて探偵社のドアをノックしてやってくる…。

 


たぶん、どこが刺さるかは人それぞれなんだけど
国生とその義理の姉、親友の3人がともかく心にずしっときた。


元々その3人を演じる役者さんが好きだというのも絶対に(やっぱり好きな役者さんは目が勝手に追うので)あるんだけど、
観ながら、むしろ逆にああだからこの人たちのお芝居が好きなんだな、と思っていた。

 


ノッキンオンヘブンズドアは、とても観易くてシンプルで、優しい舞台だった。
笑いどころも明確だし、起承転結や貼られた伏線も丁寧に回収されていくのでストレスなく見ていける。
かつ、エンタメらしい「物語要素」がたくさんある。
聞いていて楽しい台詞回しや、ツッコミどころが(良い意味で)ある小道具たち、くまおくんとか、その最たる存在だろう。
くまおくんとか、絶対みんな好きだもんね。しかも、蜂巣さんのお芝居がまた良いんだ……パワーであれだけ押された後、最後、そっと置かれるように手渡される台詞……いやもう好きでしょ。

 


その上で、国生くんたち3人が心に刺さったのが、もう、何気ない仕草がともかくすごくすごく良いのだ。
わりとこの3人もしっかりトリッキーな台詞も素っ頓狂な台詞もたくさんある中、時折見せる、本当に何気ない表情や仕草が、もう、絶妙でめちゃくちゃ良い。


例えば、最後、二手に分かれ国生くんと礼音さんが向き合って、別れるシーン。
あの一瞬の視線の交錯と合わせた拳が、彼らの親友としての数十年を見せてくれてて、あそこ、もう、本当に大好きで
二度目の共演?!って思うくらい噛み合った、居心地の良いお芝居ににこにこしてしまう。

 


また、礼音さんで行けば、詩ちゃんにありがとう、と言うシーン。


「相手の良いところを見つけるさ、そしたらきっと好きになる。ああもちろん、ここで言う好きっていうのは恋愛感情じゃないよ。そしたら、……そしたら、もう死のうとなんてしない」


うろ覚えのままの台詞なので概略でしかないんたけど、
ここの台詞の空気感と表情が、たまらなく好きだった。
かつ、ふざけることも多い彼が、真摯に頭を下げることにも(まだ始まって間もないのに)その気持ちの深いところが見えるようで、その時点でわりとグッときてしまう。
また、それを受ける詩ちゃんがいいんですよね。あの二人も、きっとそれぞれに大切なんだろうな。
なんだか、そういう、言葉にまではならない……物語の下地を支えるそれぞれの関係性が見えるような表情、仕草が多いところが好きだったな。

 


あと、小玉さん演じる千尋さんも、礼音さんと同じく国生くんや周囲の人を案じる姿がすごく好きで
千尋さんも、基本楽しい人なんですよ。
楽しい人で、面白くて明るくて頼りになるお姉さんなんだけど、
お墓で、妹死んでからダメなの、と話すシーン。
その優しさの意味というか、強さの裏側にある脆いところが、すごく、心に突き刺さってしまって。
なんだろうな、私はああして人に優しくできる人が好きなんだな。そうしていきながら生きていこうとする、後悔を減らそうとするひとが好きだなあ。


かつ、それがくどくないんですよ……。
さり気なくて、当たり前みたいに、ただ生きてる人たちのそれなんだなあ。好きだなあ。


さり気なさでいうと、礼音さんがみのりちゃんがお姉ちゃんに話をするとき、そっと辺りに散らばった手紙を拾い上げるところが大好きで
礼音さんはそうする…!とうるうるきてしまった。
なんだろうなあ、言葉に上手くならないけど、生きてる人がいるから舞台上が好きだなあ。

 


それで、国生くんがね、
愛されるお芝居をする人だ、と丸山さんが以前評されるのを見たことがあるけど、
いや本当に、見るたびに思うな。
舞台の上を、本当にそれこそ生きる人だし、その上で満遍なく……各キャストはもちろん、客席のこちらにまで……愛を届ける人というか、愛してくれる人だなあ、と思うし、その柔らかさは愛されるなあ、としみじみ思った。

 


一番、生きてる、と心が震えたシーンについて書きたい。
「俺も、死のうとしたから」と、作中ずっと、彼から滲んでいた寂しさについて口にするシーン。
(みのりちゃんの身の上話を聞かなくて良かった、と口にするところとかの、静かな表情とか、寂しいし、苦しい。すき)


話し始めると同時に、彼の声が震えた。
それが普段、そのことを奥深くに鎮めて生きてるけど、まだそれが生傷なんだろうな、と思う。
生傷、というか、いや、なんだろう。
結末を思えば、生傷という表現は合わないのかもしれないけど、いつまでだって悲しくて苦しいことには違いないはずなんだ。
そんなことを、横顔を見ながら思った。
そして、それはそれで良いんだ、と思う。良いとか悪いとかいうより、そうなんだから、と素直にすとん、と思って、だから声を震わせて話す国生くんが好きだった。
し、死のうとした彼が見た、千尋さんや礼音さんが泣いてる姿を見た気がしたんですよ、
それを、見る国生くんの表情も含めて。
そんなシーン、ないんだけど。
でも、なんか、それを見たような気持ちになってしまうくらい、彼らはそれまでしっかり生きてて、数十年、生きてる人たちだった。


私は、舞台上でそんな人に会えるとそれだけで堪らないくらい嬉しい気持ちになる。
ものすごい台詞とかアクションとかダンスとかも見れると嬉しいんだけど、それ以上に
そこにいてくれる人という存在に出会える舞台が好きだ。

 


そんなことを考えて、ああなるほど、と思った。


詩ちゃんが、みのりちゃんのそばでただ何をするでもなく音の出るポテチや煎餅を食べてたこと。
あのシーンも大好きだったんだけど、
ああそれだなあ、と思った。
言葉ってよく追いつかなくなることや過剰になることがあってだから、ああそうだな、と愛おしくなりつつ見ていた。
(そう思うと、くまおのもう喋るな、って台詞はいい台詞だな、だし、喋れないくまおならではだな)


ただいてくれる、そんなことに救われたりするんだな。


人は一人でいるとロクなことにならないと
全体を通して伝えてくれたお芝居を、思い出しながら思った。
ああそうだ、ポテチを買いに行こう。

 

ここで旗を振ってる(RTF雑感)

エンタメ、私は手を叩いて喜んだりしかできないし、彼らもただただエンタメを届けてくれるだけではあるけど、その距離感の愛おしさ一生忘れたくないな。

そんなことを、ライブから帰ってぼんやりと考えていた。


2018年、それぞれのソロ活動に重点を置いていた彼らが、再び2019年、ツアーを7人で回る。
発表された時、いやでもアルバムとか出したじゃないですか?!!!
って正直思ったわけだけど、実際に4月、RTFに足を運んで、ああほんとに「帰ってきた」なんだな、と思った。
2018年、休んでいたというわけではなく、
それぞれがそれぞれの力を貯めていていろんな景色を見ていて、それが7という形になったのが三代目J SOUL BROTHERSの形なんだろう。
それは、EXILEさんやSECONDさんたちが口にするそれぞれの活動をグループに還元する、というまさしくそれで、
好きになってから何度もそれを実感してるはずなのに、今回、ラストの演出を見ながら、自分も観に行ったライブや舞台、目にしてきた彼らの活躍を一気に思い出して、毎回めちゃくちゃに泣いてしまった。

 

彼らが、何度もステージ上で「自分たちにとってのステージの意味」「パフォーマンスをする意味」を口にしてくれるから、この大阪2daysを終えて、延々とエンターテインメントというものについて考えてる。


映画を観ることが無駄に思えた、という言葉をついこないだみた。その言葉は、だけど、映画を久しぶりに見てそうじゃないと思った、と続いていた。そんなことも、思い出していた。


ライブも、映画も、お芝居も、直接は私たちを救ってくれない。お腹も満たしてくれないし、寒さを凌がせてはくれないし、目の前にあるしんどさみたいなのを、直接は解決してはくれない。最後のについては背中を押してくれることはあっても。だから、そういうものに興味がない人にとっては無駄、で狂気にすら見えるんじゃないかな、と思う。
だけど、そうじゃないんだよなあ、とステージを見ながら思った。そうじゃないんだよ、格好良い人たちを見て眼福とか、いやもちろんそれだってあるんだけど、そうじゃないんだよなあ、それだけじゃ、ないんだよなあ。
だけどきっと、あの時あそこで私たちが彼らと交換している幸福は、言葉じゃ追いつきやしないんだろうとも思う。し、それで良いと思ってしまう。

彼らはエンタメを届けることしかできない、と言った。私もただライブで大はしゃぎして声援を送って、手を叩くだけだ。だけど、それで、たぶん良いんだ…それが良いんだ。


RTFはとてもエンタメに寄っていたと思う。
R.Y.U.S.E.Iにはじまり、メジャーでかつ、ポップで乗りやすい音楽を中心に構成されていて、
演出も老若男女が楽しめる、シンプルで「格好良さ」に振り切ったものだった。


YES WE AREの中のFIREがずっとずっと大好きなんですが、
あのシングルの中の曲ってどれも、R.Y.U.S.E.Iの後の彼らの曲なんですよね。
流星は落ちた、なんて言いながら「正気か?なんて余計なお世話」って中指すら立てそうな彼らが大好きだ。心配などいらなくて、また次、蘇る。いくらだって。
も、絶対そうじゃん、とライブ中ずっと思ってた。まだまだ、彼らは止まらない。
これからだって、安寧に身を任せることなんてなく、彼らはそれぞれ歩いて、交錯していくらだって綺麗な虹を見せてくれる。
そう思いながら、聞いていたから尚更、R.Y.U.S.E.I前におみさんが「僕らの人生を変えてくれた曲です」と叫んだのが最高だった。


彼らには、今、しかなくて
でもその今は、過去からの連続で、生きてきた道そのものの証明なんだな。


道の駅の感想のブログで、生きてるだけで良い、ってのはしんどいって話を書いた中、矛盾するけど、もしかしたらそれかもしれない、と思った。
生きて、ここにいることそれ自体が彼らも私も奇跡ですげえことなのかもしれない。だから、旗を大きく振って、ここにいる、と彼らも私も示している。

 


三代目J SOUL BROTHERSの、彼らがここまで歩いてきて、そしてこれから歩く道をはっきり指し示し、彼らは大きく旗を掲げていた。俺たちは、ここにいる。今、ここに。
9周年、本当に本当におめでとうございます。

 

道の駅in徳島

[敬浩さんとの約束通り、セトリは一切あげませんが、MCなどの話はしております。お気をつけください]

 

 


道の駅徳島に行ってきました。
最初で最後の道の駅だったので、とりあえず全部目に焼き付けるぞ!と思って、観れるだけの敬浩さんの円盤見て万全の(消し炭になる)準備をして頭フル回転させて道の駅に臨んだ。

 

 


スポットライトを集めるような人だなあと思った。オープニングが始まると同時に、ああ、この人は「ずっと光を浴びてきたんだな」その中でこんな風に輝いてきたんだな、と思ってしまった。それと同時に、「道の駅」という今回の徳島でいえば1600人の人の前にいる敬浩さんは年相応の……なんなら、少し実年齢より幼い……青年に見えた。

 


気が付けば、石が転がるように敬浩さんのことが気になり出して「あー、、これは好きなんじゃないか」と思ったのがここ数ヶ月のことだった。
(好きでは…?!って自覚し出したブログがこちら)

(うわ、あれ9月とかか…まじか……)

 


やっぱり、道の駅という場所って特別なんだなあと思う。
AOSの敬浩さんを最近ずっと円盤で見ていたので、尚更、EXILE TAKAHIROである彼の姿のきらきらと光を反射する姿に改めてびっくりしたんだけど
同時に、道の駅の敬浩さんって、ただ「EXILEのTAKAHIRO」ではなくEXILEに憧れてマイクを握った青年が、色んなことに迷いながら13年生きてきたんだな、ということをしみじみ考えてしまうくらい等身大の人だった。

 


VBAやBボーイサラリーマンを通してTAKAHIROさんが選ばれた時の話を聞くたびによく出るワードとして「華」という言葉がある。
敬浩さんは、華がある人だと思う。
と、同時にその華というのは酷く概念的で、かつ、本人にとって自覚しにくいものだからこそ、苦しんだ期間もあったんだろうと思う。


この「華」の定義を私はよく考えるんだけど、
ビビリでHIROさんが言っていた、
「応援したいと思えるストーリーを見せる」
つまり、ストーリーを見たいと思わせる力があること、それが敬浩さんの魅力である「華」なんじゃないか。
一夜にして、普通の青年がミリオンアーティストのスタントボーカルになるという奇跡みたいなストーリーになり得る人。
そのストーリーの主人公になれる人。


ツイッターで見かけた、物語は「生きている意味」がいるけど現実はただ生きてるだけでいい、って話を見て、優しい言葉だなと思いながらも私はしっくりこなくて
だって身もふたもないこと言うけど、生きるって生きてるだけでそこそこしんどいじゃないですか。
だというのに「生きてるだけでいい」なんて言われてもいやいやマイナス消化されねえじゃん、なんて思ってしまったのだ。
ただ、そうは言っても「生きている意味」つまりは、生きていく中で果たすべき役割なんてものを背負うのは、あまりにもしんどい、とも思う。

 


スポットライトがあそこまで似合う彼が、
元々似合う人だったのか、それとも似合うまでに足掻いて歩んできたのか。


その答えは、あの道の駅のステージの上に全部があったように思う。

 

 

 


少し前、私は敬浩さんが何を作るのか知りたい、という感情で好きなんだな、と思った。
元々の興味も「キー坊を演じられるこの人は一体どんな人なんだろう」から始まったわけだけど、それはたぶん、根本的に今も変わってないんだと思う。
歌も人柄も、好ましいと思う、尊敬もしてる。だけどそれ以上にこの人がどんな道を歩んで、何を作るのかが気になるというのが一番しっくりくる感覚なんだ、と思った。
ふと、それに途中で気付いて泣き崩れるというよりも笑い出しそうなくらい清々しい気持ちになった。
だって、たぶん、この人はこうしてステージに立ち続ける。し、それをこんなに嬉しそうに楽しそうに笑っててくれるのだ。
それは、何より「安心」というのがしっくりくる感覚だった。

 


敬浩さんはパートが終わるごとにそれはそれは深くお辞儀をしていた。あまりに丁寧すぎてびっくりするくらい。
MC、めちゃくちゃ飛ばすじゃないですか。人いない!とか用事ない!とか、
遠慮ないし、信頼関係がないと成立しない類のジョークだな、と、思ってたんだけど、だから尚更「信頼してるのか」と心にグッときてしまった。信頼してくれてるのか、この人は、私たちファンを。
好きだった歌が怖くなったりしても歌い続けれた理由の一つに、ファンを挙げてくれる、ファンの存在を一筋の光だった、と言ってくれることに、めちゃくちゃ泣きそうになったんだけど(もっとも、その頃私はまだファンじゃなかったので、いつもあれを聞くたびに周りにいるずっと応援してきてくれた人たちにありがとう…って私も手を合わせたくなる)


ジョークを飛ばして、ちょっとロクでもない話をして、そうしてよく笑い、こちらが笑うと嬉しそうにする。


すごく距離感が近くて、そうして誠実な人だと思う。近い距離で笑いながら、同時に受け取った私たちにあんなに深くお辞儀してくれるんですよね……。思い出してめちゃくちゃ泣いてるんですけど……。


EXILEのファンだった一人の青年が、駆け抜けてきた13年間。


その人が、嬉しかったり苦しんだりしてきたことを考える。そして、それが常にファンと一緒だったことを痛いほど感じた道の駅だった。
ソロツアーの前に、道の駅を完走したかった、という敬浩さんの気持ちが分かった気がする。
敬浩さんにとって、ファンがいなければこの13年は成立しなかったと本気で思ってくれているんだろう。
だから、来ている人の顔が見れる距離感で、そして全国を回ってるんだな。
もうそんなん、愛だと思う。愛だし、それを成立させてくれたことに感謝しかない。

 


道の駅が進むにつれ、思う。
最初、ああこの人は本当に音楽に愛されてる人だな、と思った。音楽に愛されて、そして「スター」として人前に立ち続ける人だと。
その印象が、次第に音楽が好きな一人の青年へと姿を変えていく。
あまりに幸せな時間をもらってしまったな。

 


一の積み重ねでしかない私だけど、それでも、手を叩いて受け取った、ということを示したい。
こうして手を振ってペンライトを振った私たちの光景は、敬浩さんにとって優しい光景だったろうか。せめて、もらった分の幸せが、返せてたら良い。伝わってたらいいと思う。
どうぞどうぞ、最後まで幸せな道の駅になりますように!

 

4REAL

一音目から、the VISIONALUXからの変化に、動揺していた。クリアに映し出された表情も空気感もここ数日何かに取り憑かれたように実際にも脳内再生でも観ていた、AOSのディスクの誓いを歌う敬浩さんとは違う人のようにすら見えた。
そして、何より
シャウトを聴いた瞬間涙が出た。
そこにいたのは紛れもなく、ACE OF SPADESのボーカルである敬浩さんだった。

 


いよいよ、初めてにして最後の道の駅が近付いていた。1週間前くらいからそわそわと落ち着かず、グッズを買い揃えたり、当日の服を考えたりする中でふと、ああせっかくだし、溜めてたままになってる敬浩さん関係の円盤を観よう、と思い立った。
特に、3月19日にライブに行ったものの円盤を遅れて入手してそれっきりになっていたAOSよ4REALを観てから行くのもいいんじゃないか。


そう思った一番の理由は、やっぱり「YOU are ROCK STAR」が大きい。
YOUが誰のことなのか、という解釈については、いろんな考え方があると思う。その中でも私はGLAYさんなんじゃないか、と思っている。
そう思うようになってから聞けば聞くほど、どれだけ敬浩さんが彼らのことが好きで憧れなのかということに思いを馳せるようになった。そして、同時にそんな敬浩さんにとってのAOSの意味というか、存在について思いを馳せて、生でYOU are ROCK STARを聴く前に改めて目に焼き付けたくなったのだ。

 


そして、フォロワーさんの勧めも受け、the VISIONALUX……以下、愛称(?)である鈍器って呼ぶ……の同じく観ていなかったAOSについてのドキュメントが入ったディスクを観て、なんやかんやあり、ブルーレイデッキを衝動買いしつつ、ようやく、4REALを観た。


鈍器のAOSディスクを見た時、シャウトが可愛い…!と思ってしまった。
どの曲だったかきちんと控えてないんだけど、シャウトが伸びきったりせず、叩きつけることもなく、なんか、可愛かったのだ。
技術については私は音楽に対する素養がそんなにないので分からない。の中であれなんだけど、なんとなく、技術的問題からシャウトがあんな形になったわけじゃないような、そんな気がした。


これは全くもって、個人的感覚だけど、敬浩さんについてすごいなあ、と思うのは愛情に長けた人だな、というところだ。
SOWでのファンサや色んなメディアでの振る舞い、コメントを聞くたび、いつもしみじみ愛情を受け取る、渡すのがめちゃくちゃうまいな、と感心してしまう。
好かれている自信がある、と言ってしまえばそれまでだけど、
そうだけというよりも、愛情というそのものの意味とか価値を知ってる人なんだろうなあ、と思う。
価値を知らないと、大事にできないと思うので……。
そして、そうより思ったのがTiAmoのメイキングでのTAKAHIROさんのコメントだった。
道ならぬ恋を歌うあの曲のメイキングで、「もしもライブでこの曲を聴いて泣く女の子を見たら、俺も泣いちゃうと思う」(記憶を振り返りつつ書いてるのでうろ覚えです)と言っていたのだ。


まじかよ、と思って、とても印象的だったのを覚えてる。そんな、え、心寄せてくれちゃうんですか?!とある意味で無防備とも言える発言にびっくりしたのだ。


そして過去のEXILEの曲を最近、せっかく道の駅行くしパーフェクトイヤーくるし、と聞き始めて改めて思った。TAKAHIROさんが、というのもあるけど、きっとそもそもこの人たちがそういう歌を歌って、パフォーマンスしてきてくれたんだな。


感覚の話になってしまうけど、EXILEの曲を聴いてると寄り添う心を貸してくれる人だな、と思う。


普段、音楽は元々どちらかといえばロックやバンドが好きだった。
し、好きになる音楽たちは胸の底を抉られるような痛みを時としてくれたり、
どちらかといえば、近い距離感で痛いくらい抱き締めてくれる曲が私のこれまでの人生には多かった。


ただ、EXILEの曲はなんだろう、程よい近くて遠い、遠くで近い距離で寄り添って、そこにいてくれる。在るという事実をくれる。同一化まではしない。ただ、遠すぎもしない。
うーん、これ、めちゃくちゃ感覚の話になってしまうな……。


ともあれ、そんな感覚をそれぞれに楽しんでいたことやTiAmoのメイキングでのコメントを思い出してなんとなく、腑におちたような気がした。たしかに、TAKAHIROさんの歌にはシャウトって少し違うのかもしれない。


とは言いつつ、EXILEの曲にもシャウトはあるだろうし、なんならそもそもSINにシャウトがあってザラでその歌声を遺憾なく発揮しているところはDVDで観た。だから、全く根拠に裏付けされていない、感覚だけに基づく話だ。


ただ、AOSの4REALで、思い切り叫ぶ姿を見て、ああそうか、生きる場所って一つじゃなくて良いんだな、と大袈裟じゃなく、本気で思った。

 


なんか、EXILEのTAKAHIROさんもACE OF SPADESの敬浩さんもめちゃくちゃ格好良かったんですよ。
そしてどっちも幸せそうだったんですよ。


AOSというバンド自体が普段はそれぞれ別のフィールドで戦ってる人たちで、
まさしくアベンジャーズ、という通称が納得いくくらいそれぞれに最強なんどけど、
その人たちが揃うとこんなに格好良いのかよ、って、改めて思い知ってしまった。


や、もう絶対結成当時から格好良いんですよ。
だって、言ってしまえば出逢った瞬間からそれぞれレベル100の4人が集まって音楽してるんですから。
でも、アルバム作るよ、ツアーやるよって決めて集まった彼らは、いやそもそも、AOSを期間限定、ってだけで終わるんじゃなくてなんかやろうよ、って言い合ってこの約7年を過ごしてきた彼らは、もう、めちゃくちゃ格好良いんですよ。
当初のレベル100の彼らとはまた違うんです。


だって、この7年それぞれに生きてたんだから。


なんか、そう思うとめちゃくちゃ格好良くないですか。
生きてた結果、あんなに最高のものを生み出してしまうって、もしかしてだけど、生きてるってすごいことなんじゃないですか。
バンド・ACE OF SPADESEXILEどっちが良いか、なんてナンセンスな質問なんですよ。
だって、どっちでもでああして生きてきたからそれぞれのあの形があるんだから。
AOSだけで仮に活動していたらあのシャウトはないし、もしかしたらEXILEだけで過ごしていたらSOWのあのキラキラした笑顔はまた違ったものだったかもしれないんですよね。
なんか、それが、ものすごいことのように思えた。
逆に積んでてよかった、とそれぞれの円盤に対して思ったくらいだ。この短期間で見比べたからなおさら、そう思った。

 


みたいなことを考えて、つい人生に想いを馳せてしまった。おたくなので、好きな人たちを見るとすぐ人生について考えちゃう。
私は元々、敬浩さん好きなんだ、と気付くのが遅くて、あ、そっかと思ったのがなんなら三人の信長のときで
まあ、これにはたぶん色んな要因があるんだなあと思うんだけど、
一つには好きなものを一つに絞らないからこそならいっそあんまり特別好きって言わずにすごそう、みたいな心持ちがあるからだな、とも思い至ったんですよ。好き、とは言うけど心の底から自信を持って、名刺代わりのつもりで好きというにはハードルが高かった。敬浩さんを、じゃなくて、なんにせよ。


ただなんか、どっちも最高だし、どっちの敬浩さんも格好良いんだよなとしみじみ考えてたら、あ、そっか、別に良いんだ、とふと思って。生きる場所はたくさんあって良いし、好きな人ってたくさんいて良いし、それでそれぞれが自分の中で形作られて最強で最高になるんじゃん?!!!!

 


もー、4REALの感想どこいったって感じなんだけど、本当に幸せそうで楽しそうで、
それがいつかEXILEGLAYが大好きだった音楽が大好きな少年が行き着いた先で、
試されてるような心地にさらされながらチクショウ、ってマイクを左手で握っていた青年の先なら、世界、めちゃくちゃ優しいじゃん。
もちろんそれは、当然ながら世界が優しいんじゃなくて、敬浩さんが自分で掴んだものではあるんだけど。
なんか、悪くないっていうか、最高だなあ、とぼろぼろ泣いてしまっていた。


し、ラスト、観客への煽りで
「後悔すんなよ!」
って言ってて、あ、この人、私(観客)とコミュニケーションめちゃくちゃとろうとしてる、ってぶわっと感動してしまった。
人と人が関わって、一つじゃない世界で生きていって最高になるんだな、と実感した私にはあまりに衝撃的で、敬浩さんのことを更に好きになってしまう事実だった。


武道館でAOSのライブめちゃくちゃ観たいな……。このそれぞれの毎日が織りなす、次の最高が、すごくすごく観たい。し、それが彼らの夢の場所で叶えられたら良いと思う。

 

フリクリ

ピロウズは、私にとって夜の公園や夜中のリビングで聴く音楽だった。もしくは、門限ギリギリで遊びに行く友人の部屋。
高校時代の友人からすごくいい音楽がある、と言われ彼女の携帯のスピーカーから流れてきた音楽を覚えてる。それから、ふたりで携帯サイトの歌詞を読み、あれやこれやと話した。

ピロウズの歌詞は分からない言葉も多い。
分からない言葉、というと少し語弊があるな。言葉の意味自体はシンプルだ。だけど、例えば「これは失恋の曲」「これは友人と喧嘩した曲」「親に贈る曲」みたいな分かりやすいストーリーはない。
ただ歌われる言葉はシンプルで、だから分かったような分からないような気持ちになりながらただ、言葉にする必要のない心地よさに身を任すことができるのだ。


そんなピロウズの楽曲をたくさん使った、アニメがあるとフォロワーさんに教えてもらい、観たのが「フリクリ」だった。
正直にいえば、アニメを観るのが下手くそ(だいたい途中で挫折する)なんだけど、このアニメはすごく観やすくて、見やすいというより心地良くて、無事……といっても、作品自体が全6話とかなり観やすい構成なんだけど……観終わった。

ナンダバ・ナオ太という主人公が「普通でないことは起こらない」と諦めながら、ただ「普通」の日常を送る中、謎のベスパ女ハルハラ・ハル子に出逢い、そしてその出逢い頭にベースギターで殴られて日常が少しずつ変わっていく物語だ。


wikiを確認すると、OVAとしてはじめ発表された作品で、その当時コマーシャルやパッケージに作品解説、あらすじは一切載っていなかったという。

これ、めっちゃくちゃ、わかる、となった。

また、ファンの方のブログにもあったが「語られていない物語」がこの作中にはいくつもある。
例えば、兄タスクの話だったり、メディカルメカニカの話だったり。
結局なんだったのか、どうしてなのか、どうなるのか。それはほとんど語られていない。

理路整然と現象の理由だとかその後の結末を語って聞かせるようなことは一切ないのだ。
たぶん、私はここが心地良かった。ピロウズの音楽みたいだと思った。
印象的な台詞はいくつもあった。

「脳みそ空っぽなのに怖がんなよ」
「不味いラーメン食ってみんのもさ、なんかおもろいじゃんよ」

そんな、頭に直接響く台詞がそのまま心の柔らかいところに届く。だけど、届いたからどうということではない。ただ、届いた、という事実だけがある。


特に好きだったのが、学芸会で長靴を履いた猫をやる話とサメジマ・マミ美が火を放つ話だった。

言葉にできないもやもやや遣る瀬なさやどうしようもなさが、言葉になったり、行動になったりした瞬間、ナオ太のツノが巨大化して、怪人(というべきなのかも迷うけど)になる、戦う。
でも、戦って倒しても何があるわけじゃないんですよね。
戦って倒して、ああスッキリした、みたいな話はどこにもない。泣いて感謝したりしないし、「救われた」りしないのだ。

ある意味で、何も変わらない。
変わらないけど、別に良いのだ。


期待してたけど思ってた結果と違ったとして、それを面白がる、愛せる、という話をフォロワーさんがされていてなるほど、としっくり頭の中に落ちてきた。

ナオ太とアラマオの最終回の会話を聴きながら、会話、というよりもアラマオの呼びかけという方が正しいのだけど、
普段なら、というか、他の作品なら「どっちが正しいって結論出すんだろう」ってドキドキしたり不安になってり心がぐるぐるしたりするんだろうな、と思ったけど、
フリクリはきっと、大丈夫だ、と思った。
ただ、しんしんと降ってくる台詞をぼんやりと眺めて、眺めてるだけで何も変わらないけど「無い」わけじゃないのだ、と思っていた。

無いわけじゃない。
それが、優しくて愛おしかった。


「こうしてなきゃダメ」とか「こういうこと」とかでともすれば雁字搦めになりがちな中で
不味いラーメン食べてもおもろいじゃんよ、って言ってくれる、
正しい正しくないではなくて「そう」という事実だけあれば良いのだ。
それ以上でもそれ以下でもなく
ジャッジだってされなくて良いのだ。
何をしたからどうなるではなく
ただ、そうであること


好き、と告げたナオ太くんはそういう意味でシンプルで分かりやすくて、大好きだった。

 


それ以上でも、それ以下でもない。
それはどれだけ優しいことだろうか。

 

川を眺めていたオタクが、エンタメに心を預けて生きるようになるまでの話

ザワでぶん殴られて、なんか、諸々考え込みながら、いっそ棚卸しでもやるか、と思った。
最近、棚卸しなブログをよく読んだというのもあるけど
元々このブログは主にお芝居を観た時、自分が何を考えたのか思ったのか感じたかを記録するようでしているので、なら、ザワをきっかけに棚卸ししたい、と思ったならやってみようと思う。

多くの人が言う通り、ザワは普通にはちゃめちゃにアクションが最高で、大人も子どもも格好良いエンタメ作品であり、
この刺さり方はたぶんおかしいので(笑)ザワの感想的要素は少ない。

 

私は、新卒で入社した会社で身体をぶっ壊した。しかし、そんなことは今時珍しくもない話だ。
最初におかしくなった、と諦めたのは本屋でだった。足どころか、指一本動かせなくなった。
ただ、私は昔から頭の使い方が下手で思考回路がフル回転すると立ち止まって動けなくなる(物理)があったので、そんなに動揺しなかった。そういう時は落ち着いて、違うことを考えながら空でも見上げればなんとかなる。
ただ、その時は店内だったので空を見上げようにもそうもいかず、どころか人の気配と密室感に立ちくらみを起こしていたので、ああこれはまずいことになったなあ、と思った。
ちょうど友人と約束していたので現状を報告して、なんとか友人と合流できたのは予定より一時間以上過ぎてからだった。
なんで追い込まれたか、なんて考えるまでもなかった。何があったのか、と聞く友人に仕事のノルマで毎日怒鳴られ続けて毎日終電、休みもほぼ無し、みたいな生活続けてれば当たり前っすよねえってへらへらしてたことをぼんやり覚えてる。それからめちゃくちゃ怒られて、辞めろ、と言われたのも。その頃、趣味で忙しくてたまの休みの日もなんとか朝から晩まで動き続けてたのもまずかった。
だけど、現実のドツボにハマる思考回路を他で埋める、くらいしかあの時の私の地獄から逃げる手段はなかったのだ。

それから繁忙期に入り、なんとか転職したいなあと転職活動を始めて更に予定を詰めて動き続けてどうにかこうにか生活していた。

 

お芝居があったので、ギリギリなんとかなると思っていた。
深夜バスで東京に行き、日常を離れていれば笑うことも泣くこともなんら変わりなく出来ていた。だから、平気だと思っていた。なんだかんだ、丈夫にできてる、と感心していた。

 

 

しかし、そんな中、それはある日突然やってきた。

 

 

朝起きてから、足の動きが悪かった。いつもより早起きしたその日は営業会議が予定されていた。その会議ではブロックで集まって、成績の確認と原因究明をする。その会議で、ほぼほぼ予算の達成は難しいこと、そしてエリアが予算未達なのも「あいつが足を引っ張るから」と発表されることは決まっていた。


トイレに行こうと敷居に足を置こうとする。動かない。ドアを隔てた廊下に出れない。人ごとみたいに、動かない足に分かるよー、と声をかけた。分かるよ、行きたくないよな、動きたくもないよな、でも頑張ろうな。そうだ、帰って観るDVDは何が良い?そう子どもの相手をするように自分を宥めていた。
それでも、部屋の廊下へ続く敷居が跨げなかった。困った、トイレ行けねえじゃん、とズレた、しかし切実なことをぼんやり考えていた。
仕方ない、ととりあえず着替えることにして、ワイシャツに腕を通そうとする。できない。あ、やべえ、と気付いたころ、じわじわ息苦しくなる。
昼からの会議に合わせて早起きはしていたけど、時間に間に合わなくなる。その時、ツイッターでネタにさえすれば何とか動いてくれないか、と現状を書き込んだ。ウケる、こんな、まんまブラック企業で働く社畜みたいなこと、あるんだな。息はできないし足も腕も動かないし困ったなあとぼんやりしていたら、休め、とツイートを見た友人たちに説得されて、会社に泣く泣く電話した。上司は私の話を聞き、そうか、と相槌を打って、それからこういった。


「ワイシャツ着れへんのやったら、Tシャツ着てくるか?そういうわけにもいかんか」


いくかよばーーーーか!!!!!
ってギリギリの理性で怒鳴らなかったの、めちゃくちゃえらいと思う。何とか、いかないですねえ、と答えて、電話を切った。

それから数時間、気絶していた。していた、と気付いたのはたまたまその日仕事が休みだった友人が連絡の取れない私に鬼電をかけてくれたからだった。

それから、病院に行き、案の定適応障害と軽度の鬱の診断をもらった。その間も、会社からは休んだことへの叱責の電話がかかってきた。
付き添いの友人を見つつ、いやこれ、この子いなかったらさっさと道路飛び出してたなあタイミングだなあと思いながら、作ってもらったご飯を食べて、なんとか好きなお芝居をかけながら電気を消して目を無理やり瞑って眠った。

 

 

それからも、仕事には行った。胃潰瘍になった。ご飯は食べられないけどノルマはあって糖分がいるのでアイスコーヒーに死ぬほどガムシロップ入れてを飲んだ。お客さんに、頼むから休んで、と頼まれた。

仕事に出ると友人や同期が電話をかけてくれた。帰りの電車にちゃんと乗り込んだと分かるまで同期は何度か電話を繋ぎっぱなしにした。死ねないもんだなあ、とぼんやり思いつつ、有難いなあと思っていた。
その頃にはさすがに会社に、休ませてくれ、と言っていたけど、奇跡的に数字が伸びてしまって、だから大丈夫だと言われた。甘えてる、と叱責されたかと思えば期待してるからだ、好きだからだ、と言われてこれ、気を狂わせる実験とかでよく聞くやつだ、といっそ面白かった。

 

相変わらず、お芝居でバランスを取っていた。その頃には家にはたくさんDVDがあったから泣くべき、笑うべきに合わせてDVDを見ていた。

 

こんな素敵なものがあるから、世の中捨てたもんじゃない。

 

ほんとは、そんなこと信じられなくなってきていたけど、意地のように念じて、好きなものの話をツイッターでしていた。

あれはたぶん、意地だった。

そんなある時、Twitterでひとり、淳さんのお芝居の話をしていた。
高田淳さんとは、私の大好きな役者さんである。聴き心地のいい台詞回しも、目を張るようなアクションやダンスも、そして何より細部まで意識の配られたお芝居も。見ていて、すごくすごく美しいと思ってて、

その頃、それを魔法みたいだ、と思った。

 

きっと、どんなことでもこの人が言えば、舞台上どは本当になるんだろうな、と思った。
そんなことを呟いていた。

「私は、淳さんがもし実は魔法使いなんです、ってある日公表しても驚かない、やっぱり!っていうと思う」

 

そう呟いた時、リプライをいただいた。魔法使えますよ。その一言を見て、めちゃくちゃ泣いた。
泣いたし、お礼を言った。なんだか、それはギリギリ信じようとしてることの背中を押してもらえたような気がした。

演劇が魔法なんですよ、と付け加えられた言葉を心のそこから信じようと思ったのはその夏に上演された「時をかける206号室」という作品でだった。

 

あんなに楽しそうに稽古をしていて、そして、あんなに美しくて幸せな舞台を、生で観たこと。
それを、生身の人が作ったこと。

 

その舞台のカーテンコールを観ながら仕事辞めよ、と決めた。たぶん続けたらいつか、身体をぶっ壊して死ぬんだろう。だとしたら、こんな芝居が観られなくなる。それは絶対やだ。さっさと辞めよう、私には観なきゃいけない景色がまだまだたくさんある。

 

 

たまたま飲みに行った友人がどんどんゲッソリしていく私を見て言ったことを思い出していた。つくが、もし、好きなものの為に死ぬなら私は良かったって言うよ、でも今の仕事のために死んでも葬式にだって行かないからね。そう普段にこにこと人を褒める友人がキッパリと言い切ったことを、思い出した。ようやくその時、友人の気持ちを想像する余裕が生まれたんだと思う。

 

で、休みを捥ぎ取り(最初、退職は聞き届けられなかった、ひたすら説得して説得して、の生活が始まった)なんとか病気を治すことから始めた。病気を治すこと、仕事を辞めること、それがひとまずの目標だった。
ただ、わりとポジティブだった。鬱は治らねえとか知るかよ、決めてんじゃねーよ私はまだまだ芝居観るんだからな、と思っていた。

 

それで、とりあえず眠ることをなんとかしようと思って毎日毎日外に出た。背広をきた男性を見ると身が竦むことがあったから携帯に好きな芝居のワンシーンを録音した。それを聴きながら、三時間くらい歩いたり、時には自転車に乗ったりして梅田に向かった。電車には、乗れそうにもなかった。
それから、ひたすら、日向ぼっこをするといいと聞いたので好きな本を持って河原にずっといた。日暮れまで。川は普通に流れてるのになあ、とかこの人たちは普通に生活してるのになあ、と思いながら、なんとか、生きてるけどさっさと死ねたら良かったのになあ、とかこういうこと考えてるから完治は遠いんだなあ、とか

そういうことをひたすら考えて考えて、お芝居にもがっかりしかけて、それもふたりカオスを観て乗り越えたりして

 

 

背広を着てるひとを見ても息切れしなくなった、夜眠れるようになった、体温調節ができるようになった、知らない人と話せるようになった、知り合いに連絡が取れるようになった

 

そういう、出来るようになった、をたくさん重ねて、お芝居を食べていなくても、だんだんただ普通に楽しむこと、が出来るようになって、仕事も見つかった。そこでも色んなことがあったけど、感情を芝居に任せ切らなくても働けるようになった。

 

 

この頃くらいから、自分の思考回路の暴走との付き合い方を見つけた。
エンタメに振り切らせるのだ。
お芝居を見て感覚を研ぎ澄ます方に全部持っていく。質量保存の法則じゃないけど、そうして心を預ければ、足が止まってしまうこともなくなった。

 

そこで考えたり出逢ったりしたことが背骨を支えてくれるようになった。

 

 

「なんでそんなに感情移入してるの」と言われることが多いけど、たぶん、私は元々日常に満遍なく置いていた感情に関するエネルギーを全て、エンタメに振り切ってるからだと思う。
そうしたいと思った、思えるものに出会えた。


川を眺めて眠ることができるのを待つだけのオタクは心をエンタメに預けることでなんとかこんな毎日でも過ごす方法を見つけた。

しかしそうしながら不安もあった。この自分の状態を依存じゃないと祈りたかった。だから、余計頑張ろうと思った。

 

任せてしまってる感情や心が重たいなら、その任せたことで得たエネルギーを何かに変換できればチャラにできないかと願った。
そんな頃、ハイローやLDHに出会った。搭載されるエネルギーはどんどん強大になっていって、出来ることは無限に増えるようにも思えた。

 


ザワを観て、楓士雄が持つ人、であることにものすごく苦しんだ。あれは「私がもたない人」だからこその劣等感だった。
彼に惹かれる人の気持ちは分かった。痛いくらいに。
でもだから、尚更苦しかった。


ハイローは、私にとって持たない人たちの話だった。
失くした人たちがもう一度見つける話だと思っていた。もしくは、持てなかった人が見つける話だと。


そんな私にとって楓士雄くんは異端児だった。
圧倒的に光の主人公であり、持っている人で、救う側の人だった。それが、持たない人間の僻みであるということは、重々分かっている。
彼の強さが初めからそうだ、ということでもないかもしれない。そこを決めることはできない。


あと、あの、弁解をすると私だってたぶん「持ってない」わけじゃない。
棚卸しなんてしなくても、私はいかに都度都度、人に支えられてきたか、わかってる。
助けてくれる友人達がたくさんいて、そもそも、だからここまで生きてる。
気を狂わせる実験であるやつ!と前職の上司たちの叱責と甘言の交互の詰めに耐えれていたのだってこの人たちがいくら私を大事だと言おうが、本当に大事にされること、がどういうことか知ってる私を壊したりはできねえんだよなあと思ったからこそだ。


それでも。
間違えたことや、失くしたことがいくらでもある。一度は本気で、世界が終わればいいと思いながらそれができないことくらい分かってるからだれかころしてくれって思いながら過ごしてしまったからこそ、ああして完全な光の強さを見るのが、辛かった。
間違えた人間が敵わないこと、をもう一度見せられた気がした。そんなことないんだって、分かってもいたけど。


人生は要約できねえんだよ、とは伊坂さんの作品中の言葉なんだけど、結局どこを切り取るかで、なんだって変わる。
最強と言われてる村山さんだって勝てない、と叫んだことがあった。
その人たちが生きてること、観て、聞いて、考えてること。
ハイローは、繰り返し、それでもその時々を精一杯生きることしかできないと言っていた。
そうすれば、ちょっとでもマシな未来がくることを信じるしかないんだ、と。

 

 

今の私の人生をここできりとったら、どんな形をしてるんだろうか。川を眺めるしかなかったあの頃より、ちょっとはマシになってるだろうか。
相変わらず、少しくらい扱い方を知ったところで、私の感情は役立たずのピンボールみたいに、こうして映画一本でぐちゃぐちゃに考え込んで暴走する。だけど、私はそうして預けることだって、悪くないって思ってる。
そのおかげで、知ったこともある。出逢えた人もいる。
なら、せめて胸張ってけ、と思う。焼き鳥ビルまでは建てられなくても、小さいお店出せるくらい、それくらい、かっけー大人に、なりたい。その為に私はこうしてぐちゃぐちゃに考え込むのだって、悪くないと思うのだ。たとえ、遠回りに見えても、これが私には似合いの歩き方だ。

 


川を眺めていたオタクは、今日もエンタメに心を預けて、面白おかしく生きている。

 

 

 

 

ザワ初見時感想:楓士雄くんにタイマンでボコボコに負けた話


救われても良いんじゃないのってことなのかもしれない。

 

楓士雄くんを見てて、そんな、と思った。
どうあっても彼は「主人公」で「持っている」「愛される人」だった。
メタとしての発言をするならテンポ的にもストーリーを尺的に考えても、楓士雄くんにこれ以上のエピソードとしての説得力を持たせる必要はない、たしかに描いたら説得力は増すけど、そんなの無くても多分、演者である川村くん自身の持つ魅力も含めて、彼についていきたい、と思わせる説得力は画面中にあふれていた。
し、それは何も役者による補強なんて話でも無くて、例えば鳳仙とやりあった後に「お前が本当の相手じゃなかったことが分かっただけで充分だ」と笑うふたり、とかさっちーにしろ楓士雄くんにしろそれだけで「頭を張る」素質を見せつけて、納得させてくれてるんですよ。


かつ、ザワオでのじいちゃんとの別れもあるし、そもそも、誠司くんも口にした通り、知りもしないで、なんですよ
彼が何を見て、聞いてその上でああして笑ってるか知りもしないで、なんだけど

 


あの、ちゅんちゅん組が、下につくって言った時、ものすごくマジか、と思ってしまった。
それは信じらんねえってことでは無く、むしろ圧倒的に納得していた上で、しんっっっっど、と呻きそうになっていた。
王になるべくしてなる人だ、とめちゃくちゃに納得した上で、息を詰めてた。

 


それを、持たない人はどうすりゃ良いんだよ、とすっげーーーーーーーしんどかったんだと思う。

 


終わった直後、映画館出た後も、ツイッターでも動揺してしまうくらい、しんどかった。
持ってる人だった。
彼のこれまでを知らない上に、そうして他人を羨むことはお門違いでみっともないことだと分かってても、彼があまりにも眩しくて、じゃあそうじゃないならどうすれば良いんだよ、と苦しかった。

 


いやもうこの感想書きながらますます自分が嫌いになってきたな。


楓士雄くんは目を逸らさない人だったし、村山サンの言う通り、彼よりも強い轟がそれでも持っていないもの、を持ってる。
ザワオでじいちゃんが言っていた仲間の意味も分かってる。
実質、映画スタート時からレベル100みたいなもんですよ、楓士雄くん。


新太くんは大切な人の為にお金が欲しかったわけですが、
私もちょうど今、大きく事情は違えど、もし悪いことして助けられるなら助けたい、と思うことがあって
でもなんか、それっていっそ助かりたくもないことなのかもな、とふと思った。
新太くんのこれまでとかを、これもまた知らないけど、想像して、それからレッドラムを作るに至った経緯を思うと、助かりたくもないよ、終わってしまえよ、って思うなあ、と間違った方に共感してしまった。
だから、あの時、助けに来られた新太くんが、ぐしゃぐしゃの色んな意味で汚いお金を集めていて泣いてしまった。
助かりたくなんてないよな、とめちゃくちゃ泣いて、泣きながらそれでも楓士雄くんは正しいよ、ってめっちゃ泣いて
正しくて良いんですよ、そりゃ楓士雄くんだってチャリパクったりしたけど、それでもだからって「正しいことを言ってはいけない」わけがなくて、その都度、正しいことをしようとする、がハイローなんだよ。
琥珀さんやコブラちゃんが言った通り、何度だって間違えても生きていかなきゃいけないし、そうやってその度に正解を必死に探すしかないんだから。


our promiseであったとおり、勝てない戦いも叶わない夢もある。それでも、進むしかない。

 


あと、あの、その上でオロチ兄弟めちゃくちゃ優しいよね……叩きのめさないでいてくれてありがとう。そして、あのポジションに「大人」を置いてくれてありがとう、HIROさん……
あそこで、思い切り泣くことができた新太と、その彼を見る楓士雄くんの表情が愛おしくてめちゃくちゃに沁みてしまった。
どうしようもなくて、そのままどうしようもない、失くしていく不器用なひとたちを描いてきたハイローが、ああして、間に合う人を描く優しさに、ふとこうして感想を書きながら気付いた。うう……そうか、優しいな……。


正しさでぶん殴り通してないんですよ、ザワ。
圧倒的太陽に当てられて死にかけてたんですけど、でも、たしかにぶん殴り通してはないんです。

 


つまんねえ大人なんだなあって自分にガッカリしながら悲しくてめちゃくちゃ泣いてたんですけどね、
なんか、楓士雄くんや鳳仙のみんながあまりに軽やかにそうして立ち尽くしてる横を軽やかに走り抜けるからさあ……も、鈴蘭の話する時も、最後のタイマンも、こっちの感傷や苦さなんて御構い無しで楽しそうで、それにもまたベソベソに泣いてたんですよ。
軽やかに走り抜けられる子どもではなくなったのに、そのくせ、そうして走っていく子どもたちが走り続けられるように道を守る大人にすらなれてないから私はめちゃくちゃに、しんどかったのかもな。

 


それでも、新太の投げ出したいって痛みも理解して止めてくれるオロチ兄弟や理不尽どうこうじゃねえんだよ、というパルコの姿とか、
あと、コブラちゃんに電話する村山サンとか


あの、あそこで今度話聞いてよ、と言えた村山さんが優しくて愛おしくて、例えばもうSWORDは第一線バリバリでやることはなくても、彼らは彼らとして大人だからできること、をいくらでもやっていくんだろうし
それは子どもと形は違うけど、それで良いんだって話なのかもしれなかった。


なんだ……すげえ優しいじゃん、ハイロー。

 


轟くんが、いじめられてて、それからクソみたいな不良を叩きのめす、でここまできて、村山サンと出会って、という経緯を考えると
頭になんかなれっこないよな、、と思う反面、
それでも彼だってさ、とめそめそしてたけど
最後、ああして楓士雄くんの手を取るのが優しくて、そうか、彼はようやく友達、ができたのか、と思ったし
そのシーンはあの関ちゃんの背中の上でキラキラと舞い降る紙を見る村山サンに似ていた。
鬼邪高は自ら入学して、自分でゴールを…というかつぎの道を見つけるまでのそのまま「モラトリアム」の世界なんだけど、
そこを出る条件は次の道を見つけることと、それから仲間を見つけることなんだな。

 


これはもう、完全にザワで死ぬほど苦しくて自分を嫌になったことを慰めるつもりで書くけど、
あれだけ太陽な主人公がいる中で大人が格好良くて、間違えてもやり直せるってやっぱり描いてくれてるんだから、救われてもいいんじゃないのっていうか、最後、頭下げてから、大人というこれまでとは違う手段を選んだ村山サンたちが最高に格好良かったんだから、そういうことだろうよ、気合い入れてけ、と思う。

 


ザワ、私にとってタイマンだったのか?って終わった後めちゃくちゃグッタリしてたけど、そしてだとしたら完封負けなんですけど、
それでもやっぱりハイローは最高だったし、いつか、胸を張って楓士雄くんにそのまま進め!って言いたい。
同じように眩しくは過ごせないかもしれないけど、大人だって悪くねえぞって思ってるから、そのままに私なりの方法で歩きたいな……。
とりあえず、放映期間中にあと何回かタイマン申し込みに行こうと思います。