えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

四天王 エレメンタルフィクサー

こんな展開を待っていた、というトクさんの台詞に大きく頷いた。そうだ、クエストさんはいつも、大好きで切望してる物語を、予想を遥かに超えるエネルギーで届けてくれるのだ。


(あらすじ:公式メルマガより)
孫悟空、桃太郎、アラジン、ピーターパン──異なる絵本の主役たちが力を合わせて戦う物語。

電子書籍の氾濫により紙の本は滅亡の危機に瀕していた。
ある時、世界中で広く親しまれていた童話のデータが書換えられていた。
物語を侵蝕する“悪意”を駆逐すべく結成された絵本アベンジャーズ“四天王”──果たして【カミのセカイ】を取り戻すことができるのか?
物語の境界線を破壊するフルアクション琴線エンターテイメント!


フライヤーでも印象的だったスーツ姿の「四天王」のそれぞれの物語を話すシーンから始まる。まずね、ここのね、スタートの照明がね、最高なんですよ。客席の照明の落ち方含めて心臓が震える。物語が、お芝居が始まる。もう、そっからは彼らの独壇場な訳ですよ。カラフルな衣装もオープニングからぶっ放していくキレのあるダンスも、どんな人かは分からなくても既に目を奪ってくるキャラクターも。

やーーーーもう、こっから、ひたすらに、ああああ好きだ、って思いながら見ていた。否が応でも、物語に引き込むあの力に何度、って感じ。本当に。

夢を壊すようなその後を歩むピーターパンや、なんとなく矛盾した生活を送る桃太郎や、大事なものを全部は持っていられないアラジンや、そして、旅を終わらせ決別を選ぶ孫悟空や。
矛盾した生活を送る、って書いたけど、あれか、あの、夢というか書き換えられた物語を思うと、そもそもあったものなのか。どうなんだろう。それとも、桃太郎が冒頭口にした通り、物語は幾つも分かれて形を変えてその人の物語に変わっていくから、というだけの話なのか。

 

ブラック西遊記が大好きだ。祈りの歌を何回再生したかわからないし、どうしようもないとき、何度口ずさんだか分からない。
だから、今回の悟空の姿が。
あのトクさん、本当に、ベニクラゲマン→ミラピの時のピノキオの時もそうなんだけど、そういう意味ではまさしくアベンジャーズ、なんだけど、
こうだったかもしれない世界線の話は本当に。
ブラック西遊記がお別れしたくなかった三蔵法師の話だとしたら、四天王はその逆なのかもしれない。
沙悟浄が一緒にいてくれて良かった。沙悟浄がどうしてそうしたか、とかそんなに描かれていないけど、描かれていなくても、沙悟浄猪八戒もどんな気持ちだったのか(猪八戒の、こうなることは、のところ本当にやばかった。それぞれが、こうなるかもしれないと思いながら必死に留めようとしてたんだなあ、そうなるだろうことを知ってたから尚更。

なんか、あまりにそれぞれが全部出すみたいに台詞を言うもんだから、その瞬間みたいな台詞ばっかりだから。現実もお芝居も全部引っ括めて、ぶん殴られるみたいな気持ちだったよずっと。
トクさんの台詞が好きだ。トクさんの描く心にぴったりくっつくみたいな台詞が好きだ。
命賭けて舞台で飛んで叫んで笑ってる人たちに出逢えるX-.QUESTさんが好きだ。命懸けで、舞台に立ってる姿があまりに格好良すぎて大好きで、気が付けば、引っ張り上げられちゃう、そんな舞台が大好きだ。


リミッター、解除!
あの叫びを聞いた時の気持ちを、うまく言葉にできない。叫び出しそうな、泣き出しそうな。
そこからのあの、今までの彼らの作品の音楽と、そして作品の中に登場する殺陣の手と。

便利棒での牽制や、あの段々と決まっていく殺陣はブラック西遊記
走り入って、空気をガラリと変えるのはベニクラゲマンの
軽快なリズムで舞う剣の舞は金と銀の鬼の
弓や八双飛び、そして四方から刺すのは義経ギャラクシーの
キャラクターが次々と殺陣を繰り出すのはミラピの

いや、あれは、本当に。
覚えてる、と思った。彼らが演じてきたいくつもの物語を覚えてる。何度も手を伸ばしてもらって、笑わせて泣かせてくれた物語たち。
ちょうどこの前書いたブログでお腹割いて今まで受け取った好きが出てきたらいいなあ、なんて話をしたんだけど、
言うまでもなくだった。詰まりまくってた。
覚えてる。飛ぶ方法が、楽しいことを考えることだと言うなら私は何回も、飛んでいたし飛び方はちゃんと、覚えてる。

ブラック西遊記を、初めてDVDで観た頃。
社会に出たばかりで力の抜き方も入れ方も分からずに、全然ダメダメでそんな中、リミッター解除!って叫んで、とんでもなく格好良い殺陣を観て、もっと頼れよ深いところで!と叫ぶ悟空の姿を何回も見た。観て、観続けて、気が付けば色んなことが楽しくなっていた。
体調を崩した頃、何をしていいか分からないって思ってた間、ずっとブルーアップルを観てた。真剣にベニクラゲを飼おうかと考えたこともある。
生で初めてクエストさんに触れた金と銀の鬼は、ここに来れば、どこまでも走れるパワーがもらえることを知った。明日からも、って思う背中のひと押しをくれた。だから、私はあれから、落ち込んだ友人に会うと、クエストさんを見せるようになった。
義経ギャラクシーで、人間が好きだ、と思った。どうしようもなくても、抱き締められる人間が好きだった。初演も再演も、それぞれ大好きな友人と観た全部引っ括めて幸せだった。


私はいつも、勝手に受け取って、勝手にクエストさんのお芝居に何度だって人生を救われてきた。
つーか、そんな、大袈裟な話じゃなくて、ずっと、旅をさせてもらってたんだなあ、と思ったんだって話なんだよ。
だからあの、栞の台詞は苦しかった。三蔵法師の諭すような台詞が苦しかった。だけど、いつか、例えばあそこのシーンからあと少しでお芝居自体は終わるけど、それはずっと寄り添っててくれてるって、思った。思ってもいいでしょう…?
いやだって!ほんと!こんなに沁み込んでるよー!!!!ってのを!実感しちゃう芝居だったんだよ。ずるいよ、くっそ大好きだよ。
だって、私たちは、物語を心に抱えて成長するんだよ。

 


出逢えてよかった。クエストさんを観に行ける時代に、その年齢で、出逢えて本当に良かった。そして、塩崎さんも、そして胸元さんの台詞でも続ける、ということに想いを馳せた。続けてくれたから、くれるから、出逢えた。
その旅路がしんどいものだったとしても、続けてくれてたから。
感謝しかない。そうして、私もここまで来れた。
だから、これからの旅路が少しでも幸せがたくさんあるものだといいと心の底から願ってる。まずは、明日の舞台が、全ての人にとって、幸せなものでありますように。

 

SOW大阪2日目を観て彼等の表現に想いを馳せた話

今日を一生懸命生きるしか、できることなんてないんだなあということをひたすらに考えていたような気がする。


3年ぶりとなるEXILEのツアーライブ、そのスタートダッシュの大阪公演に急遽行ってきた。
奇跡みたいな巡り合わせで観に行って友人には感謝しかない。座席についてもしばらくは二人とも信じられなかった。

3年間のそれぞれの映像が流れ、始まった希望の星、と名付けられたライブ。

 

ハイロー、しかもザム2から入ったのでど新規もど新規な人間の感想というよりも、既に真っ白になりつつも、少しでも残していたい感覚の記録です。次が、2月でそれまで少し空いてしまうので。そして、私なりに今日浮かんだ、EXILEをはじめとするLDHについて考えたことたちです。履修速度が遅い人間なので、知識不足のせいでトンチンカンなことを書いてる可能性は大いにあります。広い心でお読みいただくか、あるいはそっとページを閉じて忘れてください。


セカンドさんのファイナルをライビュで観て、そこで今回のツアー発表を観て
私は私なりに色々と思ったり考えたりして、
そしてアルバムを聞いたりしながら過ごしてきた。
ライビュのラストfor EXILEというセカンドさんをはじめ、待っていた彼らの数年について考えたことも何度もあった。そんなことを思い出して、あの3年の映像で、あ、こいつはヤバいぞ、と悟った。
直人さんがラスト、語ったようにEXILEという場所がなんなのか、というのは青春という言葉がしっくりくる。立っている彼らが1番あの場所に憧れ続けている。そんな気がする。

それは長く、J soulを受け継ぎながらグループやメンバーを増やし作ってきた結果生まれた文化なのかもしれなかった。一度は客席で、テレビの向こう側で、観て目を輝かせたことのあるメンバーたちがいるからこそかもしれなかった。
そんなことを考えるくらい、彼らがそこに立っている姿が楽しそうで、キラキラとしていて、なんか、たまらなかった。
変わらないなんてことはなく、だけど一緒にい続けるという途方も無い夢を見るための人たちなのかもしれなかった。
憧れてその場所に立つ。それはどんなに羨ましいことだろう。
あんな大きい舞台に、なんて話でもなく、いろんな人に愛されて好きなことが出来る場所にいるなんて、なんて話ではもっとなく。というより、それはしんどいことも多いだろう、と思うし。そんなことではなくて。
大切な憧れを、踏みにじることはきっとなかなか無いと思うのだ。そうやって、みんなが自分の場所を決めれるなら、きっともっと幾分、世界は優しくなるだろうと思う。
ただ、とか、言いながらですよ。
世界はひとりぼっちじゃないから、例えばすげえ憧れて焦がれて立ったその場所だって、百点満点の幸せがずっと続くわけじゃないじゃないですか。そんなん、みんな、薄々わかって、なんなら経験したこともあったりして、うんざりしてたりするじゃないですか。
憧れたぶん、反動に苦しむことはどんだけだってあると思うんだよ。
なのに、EXILEの人たちはとんでもなく幸せそうに、あの場所に立ってるどころか、立ちつづけてて、これからも立ち続けたいっていうんだよ。

いやなんか、ほんと、全く纏まってないな。たぶん、もっと、こう例えばメンバーの絡みとか演出の話とか、たぶん、ライブの感想とかってそういうことだと思うけど、いつまでたってもそんな文書ける気がしないんだけどさ。
すげー楽しくて、夢みたいで途中何度か、あ、これもしかして夢かな、と思って、でも現実で今もまだちょっと驚いてる。現実なんだって!

STEP UP聞いて、とか、なんか、色んな曲聴いてパフォーマンス観てちょうど今真っ只中にいる色んなことの背中押された感じが半端なかった。そうだった。夢見てたんだったってめっちゃ思った。
うるせえうるせえ!しんどくてもそこにいきたいんだ!って思ったし、
浪漫の地球で、汚れてもないって歌うTAKAHIROさんにめちゃくちゃ泣けてしまって
あの、表現ってすげーなーと思うんだけど。
ほんとに。
や、だってこんな前向きに、なるんですよ。

言葉が、ただ言葉がもともと辞書的にもつ言葉の意味だけじゃなく、
たぶん、誰がいつ言うか、なんてことにものすごく左右されるものだったなんてことをちょっと思って。


ちょうど昨日、フォロワーさんたちと飲みながら、EXILEさんたちの創り出すエンタメや表現が彼らの人生に直結し過ぎてる話をしていて
八王子ゾンビーズとか今日のFANTASTICのデビュー決定からのTurn back Timeの流れとか。
悲劇商法だなんて心無い言葉もあるらしいけど、いやちげえじゃん。
だって、彼らの表現ってパフォーマンスも歌も彼らが感じて考えて思ったことの発露じゃん。
ちょっと話はズレますけどね、Ti Amoのケンチさん直人さんとか観た時思ったんだけど、
パフォーマンスの悲しい、とか叫ぶ、とかの激情とのマッチ感というか相性は一体なんなのか。心が揺さぶられること、の結果生まれるからなのか。教えてくれー。パフォーマンスって、いったい、いったい・・・。
感情の結晶じゃんと思うことがよくあって、言語化できないものが形になって表れてるんだ、とよく思う。
彼らのこれまでがあるからこそ、なんか1つ変われば全く変わってしまうもの。それがパフォーマンスなんじゃないのか、表現なんじゃないのか。
そう考えると、翔太さんの存在は彼らの中にも、なんなら私たちの中にもあってだって、今日の私は昨日の私の続きなわけで。
昨日の先に今日があるんだということ。
そんなことに今日のライブで今更のように気付いてビックリしていた。え、じゃあ昨日の私より良くなってたいし、明日の私が格好いいかって今日の私にかかってんじゃん?!って思った。
やべーぞ、今を全力で生きてる彼らが常に最高を叩き出して昨日の彼らを越えてるのを見続ける限り、私も一切全くこれっぽっちも負けたくないぞ。
あと、今回結構後ろの席だったんだけど、なのでスクリーンなかったら表情分かんないし場合によっては(わちゃって出てきた時とか)花道でも若干誰か分かんなくなる時もあったんだけど、
でも、直人さんとたぁさんはあ!って気づいて、そりゃ、まあ、めっちゃDVDとかでガン見したもんね。動きとかそういう癖とか、覚えてるもんね、と思いつつ、ああ私あの2人が好きなんだなあ、としみじみ考えてた。たぁさんが最推しか?って話をしたばかりだったので。いや、2人ですね、色々考えましたがたぶん2人ともめっちゃ好きです。楽しそうなのがね、見てて、すげえ好き。みんな楽しそうだけどね。バイブスがより合うんだと思うな。感覚の話なので正解はないです。好きだってだけです。
最近よく、私の腹を割いたら、今までの好きが全部出てくればいいなーなんてことを考えることがありまして。
好きなものが多過ぎるのとすぐ増えるし、となると、お前の好きは軽い、と言われがち(興味の示し方とかのせいかもしれない)なんだけど、それはもうそう見えてるのであればそっかーって思うけど、でも、なので私は尚更、そういうアホみたいなことを考える。
興味を失ったように見えるかもしれないけど、それは実は私の血肉になってて離れないんすよ。すげーすよね。なんつって。
なんか、彼らの表現が、確実に色んなものを(それが私自身なのか、もしかしたら目の前の世界の可能性もあるんだけど)変えていくのを見ると、そんなんも、考えてしまうよね。


私にとって、大切なお芝居にそんな台詞が出てくる。死んでいなくなってしまったその人はいなくなったわけではなく。周りに次々と死なれてしまう不幸な女にその兄が言う。
お前は、彼らと出会う前のお前とは決定的に違って、海は、お前と出会ってまた違う海になる。
ニュアンス。戯曲手元に置いとくべきだったな。
なんか、そんなことを、考えてるので
今日の音楽やパフォーマンスに出会った私はそれまでの私と決定的に違うのではないか、とそんなことを考えている。
そんで、、とその続きを夢みたいに考えてしまうのだ。あんなに、夢に溢れた、戦う人たちを観ていると。
ひとまず、次にまたライブに行く時、更に格好良くなってる彼らに負けじと明日の私をかっけーにしたい、と今日の私は思うのでした。

アルバムFULL MOONを聞いてびしゃびしゃに泣いた話

登坂広臣さんのことを、好きになる未来というのは全く想定していなかった。
全く、とか言うととんでもなく失礼なんですが、しかしハイローを観ながら雨宮兄弟を見て、うっわ、人気ありそうー分かるーでも私は別にそんなでもないかなーアクション格好いいねーくらいの感覚で見ていたのです。
あ、誤解ないように言っておくと、それからレッレを見て気が付けば雨宮兄弟のことを思い出して月一で胃を痛めて眠れぬ夜を過ごすようになってしまったんですが。そろそろああいう夜なくなってほしい。2人じゃなきゃ越えられなかったどころか君らふたりのおかげでこちとら越えられない夜が増えたわ。

まあ、それはさておいて。

8月8日に、そんな登坂広臣さんのコンプリートアルバムが出た。FULL MOON。その感想を、書きたいと思う。

元々、三代目J soul brothersのアルバム、FUTUREの登坂さんのディスクを聞いて、ああこれについて話したいことがある、と思った。
HEYという曲だ。あの曲が、私にとって、物凄い衝撃だったのだ。

どこまでも伸びていくような音と、楽しそうに歌う姿が目に浮かぶような声と。
なのに、どこか、ヘイ、と叫ぶ声が寂しくて寂しいのに聞くこちら側がいることを信じてくれているようで。

 


登坂さんに興味を持ち出してから勧められた写真集「Nobody knows」を買った。エッセイに興味があったし、綺麗な写真をたくさん観れるのはいいなあと思った。
エッセイを読んで、なんて不器用な人なんだろうか、と思った。思ったし、彼が歌という表現を手にしていることに良かった、と思った。変な言い方だけど。
どのタイミングでだか覚えてないけど、ホットロードの時に語ったお芝居に対しての発言を聞いて、元々私は少し誤解していたのかもしれなかった。お芝居が好き過ぎて、過剰にその辺りに反応してしまうきらいがある。
だけど、エッセイを読めば、あるいはホットロードをはじめ、実際にお芝居してるところを見れば、ただただ、不器用なその人が見えてくるような気がした。
あんなに綺麗な顔をしてるのに、なんて不器用なんだ!と思ったりして、いやしかし、顔立ちと生きやすさはまた若干違うよなと思い直したり。


ともかく、なんだかビックリしたのだ。
社会に出てからの漠然とした不安感や家族への愛情とか、伝え方がうまくいかずに仲間内でぶつかることとか。期待の大きさに押し潰されそうになる不安感とか。
もちろん、立ってるフィールドなんて全然違うし、それこそ、LUXEな彼に親しみを覚えるというのも変な話なんだけど。
ただストレートに色々なことを表現する登坂さんに興味が湧いた。そして、だけど格好いいところに憧れた。


LUXEが発表された時も、痺れるような衝撃を受けた。自分を燃やしたり粉々にするそのMVにもだけど、何よりナイフを向けられて血塗れになろうが一切衰えることのない眼光の鋭さに。そして、批判がこようがこれが俺の気持ちと言ってのけてしまうその姿勢に。


LUXE、大好きなんですけどね。これが俺だよって中指立てて、痛みも引っくるめて立って進んでいってしまうところとか、たまらなく励まされるんだけど。
私は、もういいよって言われたくないのかもしれない。ぶっ倒れるまで走り抜けたいと思ってるのかも。だから、まさしくそれを体現するような彼の楽曲が好きなのかもしれなかった。登坂さんには倒れないで欲しいけどね!!!!!!!!!


FULL MOONは月の満ち欠けをイメージして作られていて、それぞれバラエティ豊かな曲がイントロ、アウトロ含めて14曲収録されている。ポップな曲も幸せそうな曲もバラードも。音楽のジャンルに詳しくはないけど、その色とりどりさは素人でも分かるくらいだ。
今、聞いてもらう曲だと三代目のドキュメンタリーSEVEN/7で言っていた。自分の曲はずっと聞いてもらい続ける曲というよりも、その瞬間、今、に合わせた曲だと。


じゃあ、そもそも、彼の今、を反映した曲なのだろうかと心臓がキュッとするような歌詞が若干多めなことにどきどきしてしまうんだけど。もっとも、作詞作曲の全てを登坂さん自身が担当しているわけではないのでそれは全く邪推なんだけど。


兎にも角にも、なんでこんなブログを書きたくなったかといえば、本当にHEYがあまりに幸せそうだったからだ。声の限りに叫ぶ、その曲がたまらなく愛おしかったからだ。
言葉だけじゃ足りないことを全て詰め込むみたいな歌声が好きで、それを聴いてるとムズムズして、幸せな気持ちになったからだ。


なんか、表現ってたまらず駆け出したようなところがあって。コップの水が溢れるように(これは私の大好きな漫画、ハチミツとクローバーの言葉を借りてるのだけど)溢れたそれが形を持ったものだと思っていて。


上手に歌うことよりも、その時いかに自分の気持ちを込められるかに賭けて歌いたいのだ、と言っていた登坂さんがこの曲を歌うことが、たまらなく、とんでもなく嬉しかったのだ。
ああ彼の表現が好きだと受け取れたことがとんでもなく、幸せなことのように思えたのだ。


彼はこれからも歌い続けるんだろう。
いつまで、それを自分が受け取り続けるかは分からない。いつかは、ああアルバム出たんだ、とぼんやり聞き流す日が来るのかもしれない。
感情も表現と同じようにその時にしかないものだから、それは分からない。盲目的にずっとを信じられるほどは私は私を信用していない。


だけど、ヘイ、と叫ぶ彼の歌声が届く位置にいる限りその歌声に耳を澄ませていたいと思う。
そしてそれがなるべく長く続くことを願ってる。本当にアルバムリリースおめでとうございました!!!!!

 

 

 

 

続 八王子ゾンビーズを見て考えたこと

昨日感想書き上げて、それからアイスも食べてうだうだ考えてたんだけど思いが止まらず、書き殴ったので、蛇足的にアップする。忘れないために。

 

 


もういっかい、自分にとっての12年がなんだったのか見つめ直す時間だったんだな。

例えば、羽吹くんをこいつを助けたいって思うんです!って叫んだ下田さんのシーンが好きだ。羽吹くんが今まで踊ってきた自分の身体の動き能力と、動体視力を信じて刀を避けるっていうところが好きだ。
それに、あんなん見たら希望を斬る快感、とかどうでも良くなるというか、ああもうじゃあいいよ、になるよね。

平気じゃないだろっていう羽吹くんの台詞は肉体的痛みもだけど「悪いことをしたから何を言われてもいい」なんてことないのだ、というみたいだった。

かえでくんが、最期死ぬ場所を彼らの家にしたこと。あの笑顔で死んでいってしまう姿が焼き付いてて、薬やったんじゃねえだろうな?!って言われる瞬間怯えたように背けた目が切なくて、でも、仁くんたちだけが、俺を殴ってくれたんです、って笑う姿が切なかった。あそこに集まった彼らはみんなそういう人たちで、互いが互いだけを怒って真剣に見てきたんだろうなあ。
アンナチュラルで、犯罪者がどんな人間でどんな生い立ちかなんてどうでもいいって台詞があって、ほんとその通りで。どんな事情があろうが、その罪は許されない。どれだけ後悔しようが、償おうとしようが。だけど、人生は続いていってしまう。
そういうことを思うと、母さん、産んでくれたのにごめんなさいってかえでくんが言ったことが苦しかった。
せっかく産んでくれたのに、って。
道を間違えたくて間違えたわけじゃないし、彼がモデルという世界を受け入れたのもお母さんやゾンビーズたちにいいじゃんって言われたかったからだろうし。だけど、良く生きられなくて、ごめんなさいというのは、きっと、彼の本心だったんだろうな、というか。若くして死んでしまったことも、それまでの色んなことも、どれも嘘偽りないことでそんなことないよ、とは庇えなくて、でも、だけど、最後にありがとうって言ってくれて嬉しかった。
好きな人が100%良い人だってわけがないじゃないですか。そんなん、信じるにはちょっと危ういとだって思うよ。だけど、それ引っくるめて(それは無条件に肯定するということじゃなくて)その人を好きでいたい。
仁さんは決して生きることが良いことだとは言い切らなかったこと、でも、楽しまないとたしかに人生は勿体ないこと。
ゾンビーズ、と、死ぬ前から彼らは名付けていた。自分たちに。
あれは、死んだつもりで生き直そうとしていたのか。死んでしまった方がいいかもしれない自分たちだけど、生きようとしてたというか、生きることに縋り付いて、縋り付くだけの理由を探してたんじゃないか。そう思うのは、感傷的過ぎるだろうか。
生きることは良いことじゃなくて投げ出したいこともあって、死んだ方がいいよお前らなんて言われることもあって、だけど、死んでしまうには惜しい瞬間だって、たしかにあるかもしれないじゃないか。仁さんだって、かえでくんを救ったし、きっと、羽吹くんを救ってくれたじゃんか。
なんか、そういうことなんじゃないの。

そこに至るまでどう生きたかが顕著に問われた舞台だと思った。羽吹くんを観ながら。
諦めることを知ってる。
誰かと踊ることを知ってる、人によって踊りやすい踊りにくいがあること、一番合う振りがその人を輝かせること。
自分が散々苦しんできたことで、誰かを救えるというのは、なんて優しい物語だろう。

ゾンビーズが成仏できるかは、羽吹くんにとっても希望だったし、あのホームレスのおじちゃんにとっても希望だった。だって、彼らの死はあの市長の悪い部分でもあったわけだから。

良いとこもあれば、悪いとこもある。

希望を叩き斬りたい悪だから苦しんでおけって言う彼らこそ残忍に見えたけど、きっとたぶんそういうことでどちらにもそういう節はあって、悪いことは償ったから許される、ということもなくて。
行きすぎちゃダメなんだよな。
ホームレスが、羽吹くんにちゃんと自分の目でみろって冒頭言うけど、ほんと、何事もそうなのかもしれない。自分で見て、決めろ。ちゃんと見届けること。

ゾンビたちが痛みを避けないことにしたこと。
痛い、それが平気なわけじゃない、だけど、避けずに向き合えば道は拓けるかもしれない。
人生は死にたくなるくらいしんどいこともあるけど、生きてるだけでラッキー。
ゾンビーズたちのあの時間は、言わば、ラッキータイムじゃないですか。本来だったらあり得る訳がなかった時間。かえでくんとか特に。
そうして過ごす、物語だから成立する幸福な時間に彼らが何をするのか。

 

生きてるから、舞台が観れるんだな。そしたら、たしかに、生きてるだけでラッキー。

 

間違えても生きろ、とは優しくないメッセージだけど、でも、失ってしまった人々と含めて、手を伸ばし続ける格好良さも含めて、生きろって熱量のある舞台だった。
なんか、私がダンスってパフォーマンスかっけーって思う理由っていつもそこに行き着くんだけど、言葉じゃ追いつかないような熱量を表現するのがダンスだって、ずっと観てるだけだけど思ってる。体の底から湧き上がるのをめちゃくちゃな熱量に変換して、放出していく。
だから、最後のダンス、嬉しかったな。そんで、前を向き続ける羽吹くんが格好良かったなあ。
驚くほど直球なあの台詞に、出会えて良かった。

 

 

八王子ゾンビーズ

信じられるものは、たぶん人生でそう多くはないのだと思う。

八王子ゾンビーズを観てきました。

 


私は元々、たぶん応援上映というものに対して腰が重く(と、最近気付いた)応援上演パートがあります!と聞いた時におお、まじか、とちょっと及び腰になった。
初めてだし好きな人が主演やってるいい機会に見てみるのもいいのではって気持ちといやいやしかしって気持ちがせめぎ合い、ついでに八月の慌ただしさにやられて、ライビュすら、観るかどうか迷っていた。そんな、八王子ゾンビーズを観に行った。


ひとつには、フォロワーさんが初めて観るお芝居でこの舞台を選んで良かった、と言ってたからだ。


お芝居が好きだ。
好きなものはたくさんあるし、人生の全てにおいてお芝居を優先するわけでもないし、お芝居の代わりに他のものをとることもある。
だけど、お芝居が好きだ。
お芝居が好きなところが、自分の一等好きな部分だ。
だから、自分が観た観ていないに関わらず、なんなら、好き嫌いに関わらず、お芝居が愛されているのが嬉しい。
そして、フォロワーさんが楽しそうにしているのを見るのが好きだ(まあだからフォローしてるわけですし)
そんなふくふくのツイートを見て、なら、と迷いに迷い、一度は近所の映画館はチケット全て完売という事態に見舞われながらも、当日起きて諦められず、ギリギリ行ける距離の映画館で残席わずか、の表示を見た瞬間にチケットを取っていた。


見終わって思う。観れて良かった。


ダンスの夢を諦めた羽吹は自己啓発のつもりで新しい自分に出逢おうとダンスを捨て、寺に1ヶ月の体験修行に出る。そこで、ゾンビたちが痛めつけられるところ、そのゾンビたちが成仏したいということ、その為には満月の夜にダンスを月に捧げる必要があるということを知る。


で、羽吹くんがダンスをゾンビに教え始めるわけですよ、悪ふざけするゾンビにちゃんとやれよ!って怒りつつ。夜毎、ちょっとゾンビのことを好きになりつつ。
すげー、それが、楽しそうなの。
わちゃわちゃってしまくって台詞拾いにくかったり(アドリブだから、で役者間で止まっちゃってたのかも)うお、そのネタはネタとしてやるにはどうすっかね、ってのがあったり。全くもやっとしなかったか、と聞かれると、難しい。
のだけど、ゾンビーズが互いに楽しそうに笑うのを見るのは、そしてそうして一度は捨てたダンスを楽しそうに振り付け考えながらやる羽吹くんを見るのは、最高だった。


八王子ゾンビーズ、は彼らの生前のチームの名前だ。どうしようもないロクデナシで、人を傷付け、事故とはいえ、人の死に関わった彼らが、もう一度、誰かを笑顔にしたい真っ当に生きようと集まったチームの。
彼らはたぶん互いに互いを引っ張りながら、悪いことすんなよって見張りあいながら、ふらつきそうになる度、支え合いながら、生きてきたんだろうな、そんなことを、ダンスの練習中のシーンで思った。
正しく生きたいのは、一緒にいるその人たちを、不幸にしたくないからで。
だから、ダンスの練習もする。そうして、自分の大切な人たちがもう終わらない苦しみから解放されるなら。そんで、楽しくなっていく。


それを、見ていた羽吹くんの気持ちを考える。


羽吹くんはセンスあるよ、って言われて夢にしがみついて、そうして続けてきたのに続けることが、才能だって言い聞かせてきたのに、生まれ持っての華だからさ、結局なんて言われて、気が付けば人の悪口だけずーっと言うような人になってて。きっと、ダンスなんてこれっぽっちも楽しくなくなって、あの寺にきたんだろうけど。
振りを昼間の雑用中に考える彼は楽しそうで、じゃあそれぞれの身体に合う振りにしよう、っていう姿は格好良くて幸せそうで。
それって、全部、十数年、辞めたら負けだって思ってたからだよなあ。

 


羽吹くんは、ゾンビーズについて知る度、なんでって聞きにいくじゃないですか。それってどういうことなんですかって聞くじゃないですか。
私は、あれ、出来ないなあと思いました。
出来ないし、出来ないくせに、そうしてくれたらいいのにって思った。そうじゃないんだよ、って答えてる仁さんに、これはそうだけどでもその話にはもう少し続きがあってって話すゾンビーズたちに、ああそうなら良かったって思った。
聞いて、話して、それで納得いくときも悪いときも、たぶん、どちらもそれがあるとないとじゃ違うんじゃないかな。


住職の正義も間違いじゃなくて、許せっていうこともある意味で間違いじゃないですか。
考えてたんですよ、許せって言えるかどうか、言われたらどうか。
私も実際、死んじまえって思うし、死んでそれで許されたって思うなよって思うし。ゾンビーズは、ゾンビーズだから、許してやれって思ったわけじゃん。


そんな中で、届けって願うゾンビーズたちのダンスを見ていた。


かえでくんの話も書きたいんだけど、なんか、その許す許さないとか、悪とか悪じゃないとかのことを考えちゃう。
住職が、俺は変わらないし変えないっていう、あれは、一つの答えだったよね。
そして、そういう意味でも、仁さんの最後の羽吹くんへの言葉はまた違った響きになるのかもしれない。
ツイートから、引っ張ってきてしまうけど、


私が舞台が好きなのは、同じ台詞や段取りをなぞっても人が変われば日が変われば全く変わるからで、その舞台はその瞬間その人その場でしかできないからで、そーいう意味で、羽吹くんはじめ、あの八王子ゾンビーズは、あの瞬間にしかなかった。あーーーもう、ほんと、まじでありがとうございました。

 


ってことを、終演後、思って、というか途中からずっと思ってた。ねえそうでしょ、って生きた人間だからでしょって。

分かんない、答えはでない、もしかしたら数日したら変わるかも、変わっていいと思うし。

 


ダンスってそういう意味でなかなかに最強な表現だね、言葉にしない強さってのはもしかしたらあるのかもしれない。言葉にするとすぐ誤解が生まれるし、同じ単語を使っても絶妙なニュアンスがズレたりするし。

もっとも、ダンスだって受取手によるんだろうけど。隣の芝現象なんだろうけど。

 

 

 

そんな、うまくいくかよってこともそこそこ起こるじゃないですか、八王子ゾンビーズ
台本の甘さといって仕舞えばそうなのかもしんないけど、そんなに信じられるものが多くないとも思うので、なんか、そういうことくらい信じたいとおもった。私は、羽吹くんのダンスを信じたい。十数年しがみついたもんが意味がないわけあるかよって言葉を信じたい。
懸命なあの羽吹くんをかっけーって思った自分の気持ちを信じたい。
その瞬間を、生きるしかない舞台は、受け取る方だって、その瞬間しかないのかも。


私は、お芝居の中でなら悲しいことより楽しいことを信じたい。八王子ゾンビーズのあのダンスでそんなことを考えた。

 


ところで、今日はひときわ、お月様が光って見えますよ。

 

退屈な日々にさようならを

お盆だった。
それは、死んだ人が会いに来たからじゃなくてそうじゃなくて、死んだ人と生きてる人の輪郭が曖昧になるようなそんな映画だったからかもしれない。


十三のシアターセブンは、こういう映画を観るのにとても幸せな会場だと思った。規模感とか、チケットを買う場所の雰囲気とか。
あと、なんか、それぞれ自分の周りの空気にぎゅっとされてる感じとか。


パンバスきっかけで今泉監督を知って、パンバスの台詞が私にとって大切なものが多すぎて、楽しくて嬉しくて、今泉監督特集があると聞いてやっほぅ!って叫びながら観に行った。サッドティーも観たいけど今回見れなかったからまた今度。
なんか、今泉監督の作品は映画館で観たいのだ。いや映画もお芝居も、すべからく、映画館や劇場で見られるように作ってるんだからどれもそこで観るのが一番に決まってるけど。だけど、私の中では特に。

そんな中始まった冒頭の映画の上映会のシーン。
色々相まってうおおおおってしていたんだけど、
清田がどこまで分かって友達想いだね、って言ったか分からないけど、たしかにカントクはすごくあの映画カントクのことを、気に入ってるんだろうな、とは思った。
そういうのがこいつの才能ダメにすんだよ、とはなんか、あーーーあーーーーそうねえ、ってなるし。ただ、あの空間でそれをああいう形で言ってしまうカントクはどんどん映画を撮る環境から締め出されてしまわないか、心配になって、そしてそんな心配、クソみたいだな、とも思う。でも、映画を撮るってことも人間関係だから、仕方ないのか。
ただ、いま思ったけど、清田は友達思いって言ったけど、そんなお綺麗な言葉で語られるのは嫌かもしれない。お綺麗な、と言うのも酷い話だけど。なんか、清田って、いまいちこう、信用できないんだ。
というか、わからないまま、死んじゃったので、清田。


退屈な日々にさようならを、は、分からないまま、がすごく、多いな。

退屈な日々だったのはどちらなんだろう。と思う。私が一番思うのはそれです。
音楽もすごく良くてさ、ああ久しぶりにあったその子が全然知らない顔して笑っててお前もっと汚く笑ってたじゃんって思うあの子は、それが嬉しかったのか寂しかったのか、次に思うのはそんなことです。

太郎にいちゃんがすごく好きでした。穏やかで鈍感で、鬱屈とした感情とか激情から遠そうで、だけど絶望してなくて、ただ希望に満ち溢れてるわけでもなく。そんな中でも、日々を大切にしてそうな太郎にいちゃんが大好きです。
あと、あの水風船でのキャッチボール。あの遊びをして育ったあの兄弟はすごくいいよね。あんな優しい遊びある?めっちゃしたい。
でもあれ、びしゃって割れちゃうとこの切なさもすごいね。もしかしたら、あれ見て、話そうって思ったかもしれない次郎ちゃんのこと。どうか分かんないけど。その前に写真が出てきちゃったから。
ご飯を美味しそうに撮るから今泉監督の作品は好きです。ご飯って大事だから。
ご飯を食べることを大事にしないってのがすごく苦手でそれって、どんな暴力描写よりグロい気がする。だから、ちゃんとご飯を食べてるとああ大丈夫だ、って思う。この人たちは勝手に絶望しないっていうか。
パンバスの姉妹のご飯もそうだけど、何品かあるってのがね、またいいんですよね。あとあそこアドリブで撮ったってのも最高って思ったし、あと、千代さんが実はすごく緊張してたっての、いいよなあって思う。

その太郎にいちゃんを見ていた千代さんのことを書く。
千代さんは、恋をしててだけどそれは可愛かったり柔らかかったり甘かったりするものに見えないかもしんないけど、恋だったんですよ。
太郎さんが、どうかなあ千代はって言ってて、おまえー!おま、おまえー!!!って叫んだわけですが。今泉映画に出てくる誠実だけどとんでもなく惨いこと言う男性たちよ!全くもう!なのに魅力的なのずるいよな!ほんとにもう!
車を見送る、あのシーンの美しさというか胸をきゅっとするあの感じ。あれが、恋以外のなんだというのか。
質問しながら、あのシーンだったらいいなあって思ってました、猫目さんが思い入れあったの。そしたら、ドンピシャな答えを頂いて、まるで映画を通して会話できたような幸せな気持ちになりました。嬉しかった。
ずっと、好きで切実に好きで、そんで一緒になんでもないように笑ってた千代さんが好きだ。綺麗な女の子と歩けて、なんて言ってしまう千代さんが愛おしくて仕方ない。そうだよね、嫉妬するよね。ほんとは、あの元カノだって呼びたくなくて、でも呼んだ方がいいんじゃないって言える千代さんがたくさんたくさん幸せになればいいと思う。
死んでしまえるような恋じゃなくても、一緒に穏やかに生きていけるような、物語みたいにドラマチックに見えなくても、私はその恋が堪らなく好きだった。千代さんと太郎さんたくさん幸せになってくれ。穏やかに笑ってしわしわのおばあちゃんおじいちゃんになるまで一緒にいて。


まともじゃダメか、って思うんですけど。
千代さんと太郎さんみたいに。なんか、こう、激情に狂ってしまえなくて普通に仕事できてしまう、まともに働いて、生活にちょっと苦しみつつもご飯食べて。いいじゃん、そうやって生きても。そうやって生きるのも、しんどいこともあるし、かっけーじゃん、とか。退屈な日々なのか、なのかも、でも特別な日々かも、とか。
なんか、私はそこそこに一生懸命ダサく生きている人が好きなのかもしれない。勝手に親近感がわいて。でもそれって案外難しいんだぜ、なあ、なんて、言っちゃうのかも。

昔、友人が、男じゃないからって理由で亡くなったことがあるんですが。それを、私は数年知らなくて、ある日、なんであいつが死んだのに普通に生きてんのって詰られたことがあって、いや、詰ったつもりはなかったんだろうけど。
だから、映画を観ながら勝手に、その時に戻って。お盆が死んだ人が帰ってくる季節で、そして退屈な日々にさようならを、がお盆に合う作品だとしたら、彼女が帰ってきたのかもしれない。映画と一緒に。そんなことを途中、次郎ちゃんの死について言い合う人たちを見て思った。

生きてるって思えていた方が幸せだったのか、それとも、死んだことを抱えていた方が幸せだったのか。

私は、知った直後知りたかったよなんで言わないんだよって思ったし、それでもじゃあ嘘つくなら最後まで隠し通せよって怒って、まんま、あの台詞の通りだった。
次郎ちゃんも、私の友人も、自分で生きていきたくなかったから死んじゃったんだろうか。いきたくなかった、というか、いけなくなったというか。
勝手すぎるよ、と思う。じゃあそのお前を好きなこっちはどーすんだよ、って思う。
勝手に、重ねてごめんなさいだけども。
次郎ちゃんがあの映像を撮って最後に寝てる彼女のもとに行ったのずるくて優しい。映像残したことも。本当に。本当に次郎ちゃんってば。
だからやっぱり、私は太郎さんが好きなんだけど、ふたりのあの可愛い女性が次郎ちゃん好きなの、分かるよ。
そして、あそこで綺麗な顔して笑った警官の女の子が、ああ言ってくれて、勝手に重ねてた私は嬉しかったよ。

退屈で、どうしようもなくて、特に盛り上がらなくて
それでいっかーって笑ってしまうショベルカーのシーンだった。なんだろうあのシーン。なんか、いっか、ってなるよね。

スタッフさんの死について話すシーンが好きです。それなら映画撮れないって思う太郎ちゃんも、遺族から義人が責められるから死ななきゃって思う次郎ちゃんも、そして、だけど撮るべきだ誰かの希望になったかもしれないのにって思うことも。
私は、観客なので、撮って欲しいと思ってしまう。
届かないかもしれないでしょ、でなくなった作品はきっといくらでもあるんだろうな。だけど、だから、届いた作品が愛おしいし、私は受け取りましたよ、って感想を書きたくなるのかもしれない。
ありがとうの表明と、これからもよろしくの表明として。

ウォークマンの中のヒーローが暴れまわった日の備忘録

どんな気持ちになるんだろうってはじまる直前まで思ってた。どんな気持ちなんだろう。誰かに怒られるんじゃないか、ファンじゃないくせに、とかファンのくせに、とか、兎にも角にも、そんなことを、ただただ考えてた。

お前はいつもそうかーい!
だけど、楽しんで!って言ってもらえて、選んだのに楽しめないの最低じゃん!って思って、テンション上げて日焼けしまくったら、ELLEGARDENのライブが本当に最高だった、という日記です。

たまたま、アニメのファン動画で出会ったバンドだった。歌詞がアニメにも、そして高校卒業直前だった自分にもどんぴしゃで、演奏してるのがELLEGARDENってバンドで、虹って曲だと念じるみたいにして覚えた。
そっから、どうやら姉や弟も好きだって知って家にあったCDを片っ端からウォークマンにいれた。浪人時代のお供だったウォークマンが時々流すたび、画面を見て、珍しく曲名を覚えたりして。

しかし、気が付けばELLEGARDENは活動を休止していた。しっかりと追いかけ出す前に。だけどそんなことにも構わず、私のウォークマンELLEGARDENを流し続ける。

だから私にとってELLEGARDENウォークマンの中のバンドだった。顔も見たことなかった。ただただ、彼等の音楽をずっと聞いていた。シャッフルで漫然と音楽を流すときも、彼等の音楽の時はボタンを押す指が止まった。
そんな、ウォークマンの中のヒーローが、実在した。

ワンオクのたかさんが、目を潤ませながらその瞬間で生き抜いちゃうみたいに声張り上げて暴れ回ってるのを見て、彼らのヒーローっぷりに思いを馳せた。
私の大好きなお芝居についての言葉で、たった一人のために作ったお芝居だからこそ多くの人に届くってのがあって、あの時のワンオクの演奏はまさしくそれだった。ただただ、ELLEGARDENに捧げられていた。あなたたちにどれだけ憧れて、もしかしたら嫉妬したり、励まされたり、そうやってここまで走り抜けて、奇跡のようなステージに立ったバンド少年たちの演奏だった。あああそこは、彼らの夢のステージだ、と問答無用で思った。
ワンオクも、高校時代、ぶすくれながら部活へ向かう車の中、かかっていたラジオで、中指立てるみたいに叫んでる歌だな、と出逢ったバンドだった。あー最高じゃん、歌ってくれよ、って思えてしゃーねえじゃあ部活行こ、と思わせてくれたバンドだった。そんなかっけーバンドが、子どもみたいな顔をして、私たちのヒーローに、ロックスターに歌い続けてくれ、って叫んでる。

それが、だんだん暮れていく空と相まって、出来すぎた映画みたいで、最早笑っちゃいそうになりながら、腕を振り上げていた。

座席が、スタンドの前の方だったので未だかつてないほど近くて、そしてアリーナも2階席、3階席も見渡せて、ああ愛じゃん!って叫んでた。みんな待ってたんだ、あの、すげえバンドのこと、そんなことをふくふくとした幸せの中、思っていた。

ら、もう、1曲目、1音目、ぶん殴られた。
何度も何度も、ウォークマンから流れてきた曲だった、音だった。まるで、アニメの中のヒーローみたいに、存在してるのにどこか幻みたいなヒーローが、目の前で、歌っていた。
そっからは、泣きっぱなしだった。だって、大好きな曲たちが次から次へとやってくるのだ。しかも、それを、とんでもなく幸せだって顔したヒーローが歌ってるのだ。
だいぶ前の失恋した時より、よっぽど泣いた。
ああ私は、好きなものや幸せの方が泣くんだなってしみじみ思った。

本当に、私はこの特別で奇跡みたいなライブに行っていいのかって思ってて、選んで良かったのか、とも思ってた。
やっぱり、それくらいの好きなら来んなよって言葉も聞いたし、じゃあ、私は胸張ってその人たちに好きって言えるかというか、いやそもそも好きって胸張るってなんだよ何曲曲名答えられるか選手権かよ曲名覚えんの苦手なんだよごめんなさいみたいなことを、ずっと、考えていたんだけど。

そんなん全部置いてくくらい、ずっと泣いててあーーーーーー私はこの曲たちが好きだーーーーーって思った。そして、細美さんがMCでたまたまラジオとかCDで聞いててようやく今日ここに来れた、ここにいる半数くらいの初めましての皆さん、俺たちがELLEGARDENです、以後お見知り置きを、って言ってくれて、あーそうか、私も来てよかったのか、好きなんです、すげえ詳しかったり何曲も歌えるわけでもないけどそれでもあなたたちは私の中でヒーローのバンドだったんです、って叫びたかった。

ヒーローがたくさんいる世の中すぎる、私にとって。ヒーローは、そのまま、好きな人たちってことなんですけど。私の毎日、八百万の神さまならぬ、八百万のヒーローに支えられてんだよ。

ツイートを見てくれる人たちには、ご存知の通り。私の行動模範は、好きなエンタメを作り出す人たちです。彼らが言う言葉や示す態度をかっけー、と思いながら、自分を振り返って軌道修正してる毎日です。
そうなると、とんでもない人たちに思えてヒーローでしかなくて、カッケーとこしか見えなくなる。情けなくてもそれ含めて、なんて言えてしまう。
それは、偶像崇拝なのではないか、と時々問いかける。誰かの神格化はとんでもなくその人と自分を突き放すもので、それは、なんか、相手の立場を考えた時にしたくないなあと思う。どんな表現でも目の前の人に届けようとしてるのに、受け取る私が勝手に高いところへと追いやるのは違うだろって。えてして、そうして勝手に高いところへと追いやってしまうとその後に残るのは勝手なガッカリ感だと思ってるからかもしれない。勝手にあげて、勝手に落とす。それだけは、したくなかった。つーか、そもそも、ファンの理想のその人でいることなんて、その人たちの仕事じゃないんだよ。彼らの仕事は最高のエンタメを作ることなんだよ。
今年の春に舞台を観て、ああ私は何してるんだろうと思った。感想を書くことや毎日必死に生きることが私にとっての返事だって言い聞かせてたけど、それがなんだよ、意味ねえよ一人相撲じゃんって思った。思って、思ったから、じゃあ人生が私の舞台です、死んだ瞬間拍手してもらえるような頑張ったねいい人生だったって言われる毎日にしたくて、しかし、それは、なんか、ちょっと違ってて、えーじゃあ、どうすんねん、みたいな。
2018年は、ともかく、たくさんあって上半期を終えたのだ。好きな人達が舞台を降りたり、劇団を辞めたり、いなくなったり、そうだ、好きな役者さんが亡くなって途方にも暮れた。そうなってくると、え、じゃあ、良かったって言われる人生ってなんだよ、なんて、自暴自棄になりたくもなるんだけど。だって、大切なものは増えていく一方なのに、手が二本しかないポンコツっぷりで、どんどん零れ落ちるんだもの。増えていく幸せ以上に。そんなのは、さすがに、神様の設計ミスでしょ。
とかさあ、思ってたんだけど、

いーや、もう、どうでもよくね、って思ったよ。
こんな話をしたのは、細美さんが今日だけロックスターでいていい?って言ってたからなんですよ。だって、ロックスターでしょ、ELLEGARDEN。私たちにとっても、私たちの好きなバンドにとっても。
物販の話題の時点で、あんまり彼らの思ってる彼等像と私たちの中の像は近くないのかもね、なんて言ってたけど、ほんとに、そうなのかもしれなかった。ひとりの人として、ヒーローたちは歌って、演奏してきてくれたのかもしれなかった。

その距離感で、幸せだっておもって、それは彼等の特別な能力なんてものじゃなくてもっとシンプルな何かだった。
そして、私はそれが好きだった。ウォークマンの中で暴れ回ってた彼等の音楽はその結晶だったんだと思う。

とんでもなく幸せでずっと泣いてて、あーこの曲もその曲も好きだって思って
それをあの人たちが何より嬉しそうに演奏してくれてることが嬉しくて、
もう、なら、その心を信じろよ。
お前は何べん言うんだって言われそうだけど、書きながらも思ってるけど、違うんだよ、私はなんべんだってヒーローに殴られたいんだよ。助けられる町の人じゃなかった、私は。倒されるの待ちの怪人だった。そうして、退治されてまじかよ、と思いながら私は少しヒーローに近付きたくて少しでも良い人になりたくて、彼らの真似をしてるのだ。
そんなことを信じてしまうくらい、ウォークマンの中のヒーローが実在する衝撃はすさまじかった。
それを幸せだと笑ってくれる姿を見れたことが、嬉しかった。


今日が最高って思っててもきっとそれは更新されていくから、と言ってくれたことに、明日もじゃあ笑って過ごそうと思った。


積み重ねていった思い出が音を立てて崩れ落ちようが、今日を記憶に変えていけるなら。
かっけーひとたちが、この景色を見れて良かったって笑ってくれるなら私はこれからもたくさん頑張って好きな場所に行こうと思った。
そして、それはできたら、いつか、身近な誰かのヒーローになれる私に繋がってる道ならいいと思ったのだ。だって、私のヒーローが私たちの姿を見てあんな幸せそうな顔をしたんだから。いつか、そんな奇跡だって起きるかもしれないじゃないか。