えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

万引き家族

本当じゃなきゃ、というよりも、正しくないと、ダメなのか。

 

 


万引きと祖母の年金を生活の糧として生きる奇妙な家族。
ひとり部屋で震える少女を、娘として招き入れ奇妙な社会から「ズレた」家族は生活を続ける。
だけど、そんな生活は次第に軋み始める。

 


いっそ、悪意なのではないかと思えるほど丁寧に描かれた生活の描写がそこここにあった。
四季とか、昔からしてたこと、とか、家族とか。
押入れの中の秘密基地と、そこに並ぶ宝物たち。怪我を手当てしてくれるお婆ちゃん、お母さんの机、けらけらと楽しそうなお父ちゃんと素っ気ないけど家族のそばにいるお姉ちゃん。
その、どこかで見たような必ず実家のどこかの景色にだぶるようなそれが本当にどこもかしこも懐かしくて愛おしくて。
なのに、妙に、ちぐはぐだった。


それは、彼らに付き纏ってる貧乏や犯罪、「底辺」と呼ばれてしまいそうな空気感のせいなのかもしれなかったし
少女を連れてきた、というここから幸せなままにいれるかどうか、の不安のせいなのかもしれなかった。


だけど、それでも、そこにある生活は暖かく人肌の温度が匂いが常にあったのだ。
あと、それがこんなに染み込んだのが、たぶん、友人の15とも話していたんだけど全部が見えたわけじゃ知れたわけじゃなかったことだった。


なんでりんが虐待されてたのか、
アキちゃんの家族がなんでアキちゃんにああなのか
夫婦のこれまでとか
翔太のここにきてからすぐのことや
お婆ちゃんが本当はどうしたかったのか
とか

 


心の中のことは、特に。
大袈裟に分かりやすく台詞やましてやモノローグで語られることはなくて、私はその表情とか行動とか、そういう全部をただただ目を見開いて見て、想像してた。
だから、りんを抱き締めたあのシーンが大好きだった。
好きだから叩くのなんて嘘だよ愛してるから叩くなんて嘘。本当に愛してるならね、こうするの。抱き締めて、なんなら泣きながら頰をすり合わせるその仕草に何一つ嘘がなくて、それを見守る家族はあたたかくて、それも、なんでしょう、優しくしたいから、とかじゃないんだよ。
そうしたいから、そうなる。
そこにその人が良い人が悪い人か、何して生きてるか、とかそうじゃなくて、そうとして、存在してたと思った。
そこはとても愛おしい場所だと思った。


棄てたのを拾った、と言った。棄てられてたから拾った、と死体遺棄、でもその前に棄てた人がほかにいるんじゃないですか。

 


命は重たいだとかなんだとか言うけど、本当に、世の中、棄てられていく人たちのなんと多いことか。
棄てたのは、棄てられたのは、誰なんだろう。
私はそう考えて、泣きたくなる。
ああして映画を観ていた私は「棄てられてない」から映画という娯楽を享受できてるのかな、とふと観てる途中過ぎった。だけど、本当に、ただの一度も「棄てられた」ことは「棄てた」ことはなかったか。

 


これからも、棄てたりしないと私は信代さんの目を見て、言えるだろうか。

 


ちょっとズレた感想かもしれないのだけど、


万引き家族、というタイトルにこんなタイトルの映画が賞を獲ったら日本に対してネガティブなイメージがつくなんて言葉を幾つか聞いたけど、私の知る日本は5歳の子どもを衰弱させてそのまま殺しちゃうような、死にたくて他人を無差別に殺せるような日本じゃないか、と思ってしまった。

だけど、それが嫌で、そうなんだけど、それは正しいのかもしれないけど、そうじゃなくて、と思う。本当では、あるんだけど。

目を逸らしたい、ってことだけじゃなくて。


話を、万引き家族に戻す。


彼らは正しくはなかった、というのは犯罪とかなんか、そういう意味で分かる。
万引きとか、盗みとか。
たぶん、翔太を拾ったのも盗もうとしてた時だと思うし翔太を置いて逃げようとしたし、お婆ちゃんがアキをすませてたのはいつか何かあったらお金のことも考えてたのかもしれなかった。
(ただアキについてはいつか来たかもしれない、の仮定の話だ。お婆ちゃんはたしかにお金を貰っていたけどあれはあくまで、家族を母親がお婆ちゃんから奪ったことへの罪悪感から勝手に息子が払っていたお金、だよね?アキは海外に行ってる、と嘘を重ねてたのはあの両親はアキがどこで、何をしてるか、を知らないよね?と、思う。ちがうのかな)


だけど、正しくなければ全部嘘になるのか。

 


お店にきてた青年が、抱き締められたとき、あ、あ、あ、って言うじゃないですか。
それをアキは、うん、あったかいね、って相槌を打つじゃないですか。
私は、あれ、ありがとうって言いたかったんじゃないか、って思ってたから、あ、あったかい、かってなったんですよ。
あいしてる、だって、あ、だし。
あ、って色んな音、思い、言葉に繋がる最初の音なんだよ。
でも、あったかい、もきっと、そうで、あの時青年はあったかいね、もありがとう、もあいしてる、も全部言いたくて、そこからアキが拾った言葉があったかいね、だったんじゃないか。
それはあったかい、を拾ったからありがとうやあいしてる、が間違いになるわけじゃないでしょう。


アキの親がお婆ちゃんに家族を奪ってごめんね、で払ったお金は3万円。
お婆ちゃんが隠していたお金を山分けしたら、1人3万円。
家族のそれぞれの価値はひとり、図らずも偶然に3万円、という安いんだか、高いんだか分からない金額がついてしまった。

 


だけど、あの花火を見た、お鍋を食べた、海に行き笑った、家族がそれぞれ3万円払えば手に入るのかって言われたらそんな簡単な話じゃないわけで。
3万円、なんて価値じゃないんだよ。
でも、3万円にもせず棄てた、人間がいたし、いるんだよ。


犯罪でしか、繋がれなかった家族、っていうメイキングの言葉にはっとしたんだけど
同時に、じゃあ3万円とか犯罪とかそんなもんだけであなたたち繋がってたわけじゃないでしょ、と私は色んなシーンを思い出して泣いてる。
信代さんの、絆、とかと照れ臭そうに冗談ぽく言った言葉を思い出してる。選んだんだよ。選び方や、手に入れ方は一旦さておいとこうよ。選んだ、それは、間違いなく、すげえことじゃんか。

 


アキが、見た空っぽの部屋やりんが見ていた誰もこない道を思う。
私は、一度どうしようもない幸せを味わったら、それだけで人は生きていけるし生きていけてしまう、と思ってるんだけど(それは悲しくて幸せなことだと思う)
りんやアキはそこに何を見たんだろう。
翔太は迎えにきた「お父さん」と駐車場でけらけら笑い、走り回った時のことを思い出すだろうか。

 

 

正しくなきゃ、本当じゃなきゃダメですか。

それは誰が決めるんですか。

一個しかないんですか。

 

 

 

分からないけど、

私は、あの色も景色も、いくつも折り重ねて、覚えていく。

となりのところ

面白い会話劇をする劇団さんがあるから、と友人に誘われた。

あの、私はお芝居に誘われるのが大好きなんですよ。
正確には、誰かの好きなものを紹介されるのが。布教されるってのとは、ちがうんです。紹介、なんです。
布教はたぶん、誰でも良くて、紹介、はそれこそ、結婚する相手を紹介するようなそんなニュアンスで受け取ってしまう。
(そんなつもりなく気軽に紹介してくれてる人たちもいるよね、ごめんね!
なんか、紹介、ってこう、緊張感があるんです、私がする時。大好きなものだと特に。
嫌いだったり気に入らなかったりどうしようかなって不安と、だけどこの人に好きになってもらいたい好きだろうな、ハッピーだろうな、みたいな。
だから、私はとても、嬉しかった。
ので、空晴さんという綺麗な名前の劇団のお芝居を、観てきたのであります。


これは、そしたら幸せが倍増したよ、という話。

 

いまのところ大丈夫です。でも、ホントのところは・・・
三軒の隣り合わせの家。そこに暮らす三家族。
幸せそうに見えたり、うさんくさそうに見えたり・・・でも所詮は他人。お隣さんたち。
ある日、その真ん中の家が今まで低かった隣同士の塀を高いブロック塀にする計画を提案し工務店を呼んでしまう。その工務店員が実は一軒の家の家主の幼馴染で、そこから今まで知らなかったご近所さんの姿が見えてくる。

 

 

 

客席について丁寧に作られた舞台セットにまずにやりとしてしまう。
ともかく、どれもこれもに人の手を感じる作品だった。
派手さは一切なく、ただただ、描きだすみたいなお芝居。だからしみじみと、私の心の中に残ってる。

 

三軒の古い戸建。そこに住む人、来る人。
当然、この人は誰で、この人とこの人はどういう関係で、なんてことは語られない。語られないんだけど、彼らの会話でなんとなく少しずつ、理解していく。
その感覚の、あー日常、みたいなあの空気感。
全部は話さない。生きてるので。
なにもかも明け透けになにをどうしてどうしたい、なんて私たちは口にしない。
そんな生活を送ってるから、彼らの気持ちが尚、沁みるのだ。

となりの先生の秘密、遊びに来た「息子」の秘密、荷物を運ぶ親子の、あるいは賑やかな夫婦の「秘密」、そして、なかなかの年齢で新たな仕事を始めた工務店のおじさんの「秘密」


秘密、なんて書いたんだけど、それは彼らの生活で人生でしかないんだよな。
開けっぴろげてない、ずっとそこにあるもの。
でも、すれ違ったら気になっちゃうんだよね、なんかね、妙にね。

 

ともかく、面白い会話を挟みながらふつーに時間が過ぎていく。その、愛おしさ。だんだん、私も庭先にお呼ばれして、奥さんに睨まれながらお茶を飲んでるような気がしてきた。
ケラケラ笑いながら、時々、なんだか不安そうだったり泣きそうな彼らの表情が気になったり、でも踏み込めなかったり。
そうしながら、友人のことを思い出していた。
高校の部活の友人が再会するシーン、忘れた人と覚えてた人。その会話、覚えてることもあること、同じところで時間を過ごしたこと。


あの、私は部活が大好きだったので、それこそメンバーに軒並みならない気持ちを持ってずーーーっと過ごしてたので、
台詞の忘れちゃうんですかね、いつか、がとんでもなく、刺さった。
今は、たぶんあの役の彼に歳が近いけど、でも、いつか。
そんないつかを思わせる空気感だったような気がするのだ。それくらい、彼らが身近だったんだ。

そして、だから、ラストシーンの照明が焼き付いてる。目に。
なにを書いたらいいんだろう、感想に。
決して抽象的じゃなかったけど、うまく言葉にならない。

だけど、いつか、電車の中で泣き出してしまった時の気持ちが救われたり、いつかくるこれからを愛おしく思ったり、これまで、を思ったり。


なんか、そういう、時間がとんでもなく愛おしくて。それは稽古期間だけじゃなく、舞台にいる人たち全てのこれまで、とこれから、が交差したように思えてしまったんです。

だから、カーテンコールの、またみんなで元気に会いましょうね、に泣いてしまった。
出逢えて、すれ違って。だから、全てがうまくいくとも何もかもを分かち合えるとも、限らないどころか、そうじゃない可能性の方が高い。
だけど、それでもいいじゃないか。
なんとなく、触れたところがあったかかったり、今大丈夫でもいつかダメなら、その時そこに私がいたなら、美味しいものでも食べましょう、話したければ話せばいいし話したくないなら最近見たすごく美しいものの話をお互いに見せっこしよう。
なんか、そんな、夢のようなことを思ったんだ。


そんな気持ちが、私がこのお芝居が好きな理由でした。
空が晴れる。
それを、嬉しく思う。
まさしく、劇団の名前そのままのようじゃないですか。
また、元気に、こうしてお芝居に出会えるよう私も祈ってます。なので、どうぞ皆さんお元気で。

 

 

TRUSH!

とんでもない一年になる、と思った。劇団6番シード25周年記念公演第1弾TRUSH!はもう、ここからの劇団6番シードはすごいぞ!と確信とワクワクをくれる最高の公演だった。

 


公式サイトから引用の公演あらすじ


「ゴミ(TRUSH)の中を突っ走れ!(RUSH)」
劇団6番シード結成25周年記念公演第一弾は、ごみに埋もれた西部の街で繰り広げられる最高にHAPPYなダンス☆ダンス☆カーニバル!
陽気な未亡人達が、駆け落ちした令嬢と庭師が、伝説のガンマンが、荒野のならず者が、トロッコが走るウエスタンワールドで踊る!踊る!踊る!

 

 


もう、なんか、怒涛の展開なのだ。これが。
最初のオープニングアクトで、あ、これは完全に目で追うのは無理だ、と確信して観たものをそのまま楽しもうと決めた。これ、一回きりしか舞台観れない人間のライフハックなんですけど、無理やり一つに絞ろうとするんじゃなくて空間全部を焼き付けるってのが一番。空気全部を吸い込む感じ。
怒涛の生演奏に、生歌、ジャグリングにすごいダンスやタップダンス、そして、足踏み。
も、これはすごいぞ、と。
これでもか!ってくらい繰り出されるのでずっと楽しい。一瞬たりとも気を抜かずずーーーっと楽しい。脳にアドレナリンぶち込まれてるような感覚に陥る。


私が特に好きだったのが足踏みだ。
もうこれは完全に好みの話なんだけど、足踏みが好きだ。あの、言葉にならないだけどダイレクトにその感情を叩きつけてくる足踏み。
六行会ホールは広い上に音が広がる構造っぽいので、こう、真ん中らへんで見てるとさすがに音はそんなに殴ってこない。殴ってこないんだけど、むしろ殴ってこないからこそ、その音の鬼気迫る感じというか、彼女たちが、あるいは大地に眠る彼女たちを思う男たちが何を感じ、思ってるのかが肌に刺さる。
それは、リアルタイムで起こっている本物、だと思った。

 


この公演すげー!と思ったのは、この本物って奴です。

 


とんでも設定やとんでも展開が、それはもう殴りかかってくるのです。
ちょいちょいちょーい!とツッコミたくなるようなことも、ちょこちょこ起こるわけです。
でも、コメディとシリアスの空気感の変化とか役者さんたちの佇まいや表情が、も、その人でしかなくて、信じちゃう。
というか、本当にあの空気感のぴりっとした変化の心地良さ!!!
もう安心してジェットコースターにずっと乗ってる感じ。というか、オープニングアクトで、あ、これ絶対好きで楽しいやつ!って確信してからはもう完全に身と心を委ねてひたすら楽しんだ。
なんか、あらすじとかストーリーとか、勿論それもなんだけど、このお芝居は肌に残ってる感じがする。

 


ワイヤーで飛んだり、歌ったり踊ったり演奏したり。


演劇って、平気で何百年って時間を行き来したり、色んな場所に行ったり、するじゃないですか。
それって、生身の人がやるからこそ起こせる奇跡って気がこの公演を観ててしたのです。


なんか、書こうとしてるんだけど、ただただ楽しくて楽しいって気持ちは紛れも無いのに、それ以外うまく言葉にならない笑
と思ってたら、松本さんの終演後のブログ読んで、あ、これがある意味で正解なのか!と納得してしまった。
ほんと、どんな人でも楽しめるお祭りだったと思う。


それは、キャストスタッフの総力戦っぷりと、全力で楽しい、を突きつけた結果なのだろう、とたまらなく嬉しくなるのです。
(ツイートもしたけど、照明が最高に好きでした)(めっちゃストレートで、だけど雄弁で、かつ、役者さんが最高に輝く最高の照明でした大好き)


ある意味で、そのお祭り感って、6Cさんらしからぬ、なんだけど、


ゴミって言われたマシューやロックが立ち上がったり、女たちが今度は大切なものを失わない、と立ち上がったり、
なんだか、そういう人の底力というか。
立っている人の格好良さ、は6Cさんならではの大好きな表現でした。中でも、アール役の宇田川さんの言葉で語り過ぎず、だけどその背中でガンガンに魅せてくれるそのお芝居は、あーーー大好き!って叫びたくなるものでした。


絶妙な遊び心と非現実感、それに本気の感情が乗っかる。あれは、6Cさんならではのお芝居だったと思います。


たぶん、とらっしゅへの気持ちは観た直後のこのツイートが一番表現できてたと思う。


「お芝居は、どこにでも行けて時間の流れだって自由自在で色んな奇跡を、生身の人間が起こす魔法なんだな。最高に元気出るので、ほんと、ほんと #とらっしゅ すごい。好き。」

 


本当に、夢のようで幸せな大好きがたくさん詰まった舞台だったんです。それは、たぶん、生で触れたからこそ、そう思うんだ、と思いました。良かったー!


楽しかった!!!!!!!!!!

 

 

ここから始まる25周年記念公演が、そして、26年以降の劇団6番シードさんがとんでもなく楽しみだ。

崖っぷちホテル8話がたまらなかった話

崖っぷちホテルが面白い。
まずあのドラマが日曜日にやってるっていう奇跡を、いやもうこれを奇跡と呼んじゃうんだけど、なんかそういうのを褒め称えたいくらい最高だと思ってる。

経営も従業員のやる気も崖っぷちなホテル「ホテル グランデ インヴルサ」を風変わりな客、宇海がやってきて、自信のない支配人佐那と共に大逆転へと盛り上げていくストーリー。
1話ごとに各従業員を味方につけていくストーリーは鉄板なんだけど、

もう本当にワクワクしませんか?って宇海さんの台詞だけで私はこのドラマを大好きだと叫びたくなる。

 


で、6月3日の崖っぷちホテルがあまりに最高だったので(正直いうと、他の回も最高だったんだけど)感想を書きたい。


七人の王女をもてなすことになったホテル一行。王継承で揉める彼女たちは仲が悪い上に、何故かいきなり帰りたい、と言い出した。
日本の滞在先にホテルグランデインヴルサを選んだのは王である父が忘れられない食事をしたからだと言う七女と協力しながら、果たして王女たちが満足できる思い出を作ることができるのか?


崖っぷちホテルが、日曜にあって嬉しいと思うのは、これがお仕事、のドラマだと思うからだ。


お仕事のドラマはいつのクールでも一定数あって、どれもこれも基本的に格好良く、諾々と飲み込んでしまってる日頃のもやもやを口にしたり、自分の道を信じたりする姿にスカッとしたり、明日から自分も頑張ろうと思える。そんなドラマが多いような気がする。
だが、崖っぷちホテルはこれらとは少し違う気がする。そもそも、コメディである。社会派ドラマでは、間違っても、ない。


更に、登場するのは自分で総支配人をすると一度は覚悟しながら自分には向いてないんじゃないかって悩む主人公や(まあでも、こういう主人公はある意味ではお仕事ドラマの鉄板な気もする)仕事をすぐサボろうとする従業員、それにどう考えても「向いてない」仕事をして人に迷惑をかけている従業員たちなのだ。
ただ、こうして文にしながらだから、ある意味で、共感しやすいドラマなのかも、と思う。まあでも正直、ドラマの分析がしたいわけじゃないんだ。だから好きって話なんだ。


この仕事が天職だ、と思えたり、或いは誰かの為になってるんだ、と実感しながら働いてる人がどれくらいいるだろう。
よくテレビやネットではキラキラ輝く仕事人が出てくるけど、そうじゃない人の方が圧倒的に多い。
し、ドラマ、アンナチュラルであった通り、どちらかといえば「労働は罰」って言葉の方がしっくりくるんだ。
だから、ああして向いてないなんて百も承知だけど、生きていく為に生活の糧を得るために「仕方なく」働いてる姿って、覚えがあるものなんだ。


そして、6月3日放送の8話の崖っぷちホテルである。
8話は、なんとか王女たちが来てよかったと思えるような夕食を振る舞えるかどうか、が鍵になるので、厨房組である江口さん、ハルちゃんがキーパーソンだ。特に、王女と仲良くなったハルちゃんが、鍵を握っていた。


私は、このハルちゃんが大好きだ。
常に明るくて、楽しそうで。ちょっとトンチンカンなことをよく言うけど、でも、そのどこにも悪意がなくて。見ていて元気になる。
宇海さんとハルちゃんはこのドラマの二大癒しキャラだと思ってる。


そんなハルちゃんが、王女と話した明るい系民族の話。もう、心臓ぎゅっとなって、愛おしさが込み上げた。
ちょうど、7話をTVerで見逃し視聴してから8話に臨んだので、尚更だった。7話の感想を私はツイッターでこう呟いていた。

 


「宇海さんは「笑うことに決めた」「楽しむことに決めた」人だと個人的には思っていて、その姿はなんというか、憧れでしかないっていうか、そうありてえなあーーー」


「1話の時は正直何故そんなにデフォルメ芝居を選んだんだろう、と思ってたんだけど、なんか、あれは「それを選んだ宇海さん」っていう宇海さんの生き方なんじゃないかな、と思えてきたよ。」


「9歳児で演じてる、ってのにも最初はそれ映像でやるといくら岩ちゃんさんの顔面偏差値を持ってしてもしんどくないですかね、って思ってたんだけど、最早私はちげえんだよ、ちげえんだよな、概念としての9歳児というか、むしろあの芝居を映像でやるのがさあって芋焼酎片手に語りたくなってます」


宇海さんや、ハルちゃんたち明るい系民族の人たちも、きっとそうなんじゃないか。わーーーーって思いながら自分がどんどん空っぽになるような気持ちになりながら、じゃあ明るい系民族を辞めてしまうんじゃなく、なんなら無理せず楽しく・・・ワクワクし続けられるのか、って考えたんじゃないか。
そう思うと、なんて、愛おしくて優しい人たちだろうと思った。

 


そんで、ハルちゃんはずっとそうだったな、と思い、ああだから彼女を総料理長にしたのか、と改めて納得したのです。


今回、どうしたら王女を怒らせないかを考え始めたメンバーに宇海さんが言う「それは当たり前です、どうしたらワクワクするか、考えるのはそれです」(意訳

 


なんだって、こうしなきゃ、と思うと途端に息苦しくなるし、わーーーーってなる。
変な緊張感はミスを引き起こしがちだし、無駄に疲れる。
だけど、ワクワクするか、を考えた彼らはどんどん、お客様を笑顔にしていく。
それは、楽しいからいくらでも考えられる、からじゃないか。
宇海さんにどうしたら、と聞いた大田原さんに答える。
「それは、考えるんです」


人間、嫌なことは考え続けられない。だから、ワクワクすることを考える。
向いてないってわーーーーってなるようなことを考えるんじゃなくて。


もう、そんなん、好きじゃん。
楽しくていい、そうしてワクワクしてやったことはきっと、誰かの嬉しいになる。
誰かの「嬉しい」に繋がるなんて、そんなん、ワクワクするじゃないか。

 


そんな、とんでもなく優しくて愛おしいことを言ってくれるドラマが、崖っぷちホテルだと思うんだ。


いよいよ、大逆転、への一歩を踏み出したホテルインヴルサ。
彼らが次はどんなお話を見せてくれるのか、私はワクワクしながら待ってる。そのお話で元気になって、また誰かをワクワクさせられたらいいなあ、そう思う。

キャガプシー

キャガプシー、あの幸せなテントに初日に出掛けた。

"世界は本当に美しい場所なのか?"

 

一年の時間が過ぎて、もう一度あの美しくて悲しい物語を観たんだけど。
人間のケガレを押し付けられたキャガプシーたちの壊しあいを取り巻くそれぞれの物語。
なんだか、振り返ると出てくる4人ともが、目がうるうるしてた気がして振り返ってるこちらまで目がうるうるしてしまう。
初演以上に見やすくかつ、飲み込みやすくなっていた。
悲しみは変わらずにありながらもさまざまな表現がポップに変わっていた。

 

色、のことをずっと考えてて。
ツミが色について口にする度、お父さんのキャガプシーへの言葉を聞くたび。
ネズミの衣装がほぼ単色で、地味な色で作られていることが本当に悲しかった。
キャガプシーを作る人形師も虐げられていた、というし、そもそも、人形師みんながキャガプシーに対して愛情を持っていたわけじゃないだろう、と思う。なんでこんなもの作らないといけないんだ、と思っている人形師もいるかもしれないし、もっと事務的に淡々と作ってる人もいるかもしれない。
なんか、そういうのをネズミの姿は想像させてくる。し、そのネズミが、あのウナサレの色を塗った事実に、彼を憎みきれない、と思う。心を与える、その儀式をキャガプシーである彼が担ってたこと、そして、あの色を塗ったこと。


初演からそうなんだけど、私はネズミに寄り添いたいと思う。というか、一番共感できるのがネズミなんですよ。
世界の美しさを、信じられずになんどでもこの世はどうしようもない、と口にするネズミ。

 

トラワレの世界の美しさについて語った言葉を宝物のように心の金庫にしまったウナサレの目が、本当に潤んで見えて。
なんでしょう、ひたすらに無邪気に真っ直ぐに笑うことを選んだのが初演ウナサレなら、そうしたいのだ、と常に言い続けたのが今回のウナサレのように思った。
どこのシーンか思い出せないんだけど、ウナサレの笑顔がぎこちなく見えて心臓がぎゅうっとなったんだよ。
ああああこの人、まだあの悪夢に魘されてるんだなって思って、それでも、大好きなお兄がそういうから、それを信じたいと、信じられると思ってるんだなあと思って、もう、あの、愛おしすぎる。

ツミもさ、世界のこと、そこそこ好きだった、って言うじゃないですか。
キャガプシーに出てくる人たちはみんな、必死に世界が美しいんだって思おうとしてるんだなあって。しかも、言い方は変ですが、むしろそこそこに不幸な彼らが。それが、あまりに愛おしくて。
あと、世界のことがそこそこに好きで不幸は量が決まってるから幸せになるはずだ、と思ってたツミちゃんが、不幸になりながらも、一緒にいてくれるネズミを好ましく思って(それがとんでもない絶望だとしても、ネズミの言う通りいたたまれない事実だとしても)いるツミちゃんの柔らかさが好きだ。
今回入った歌、素晴らしかった。ほんとに。
優しくて悲しくて沁み渡るような。
これはヴルルの島の感想でも書いた気がするけど、何かを受け取れる人というのは優しいなあと思うんだけど、ツミはまさしく受け取る人で、だから、台詞の一つ一つがぽつんと、沁みていく感じがして、愛おしい。


今回のトラワレはとても弱い存在だ、と思った。言葉を選ばないなら。ふにゃ、と折れてしまいそうなギリギリのところに立ってるような。
ほかのキャガプシーと喋らないことがモチベーションの彼は、初演も今回もそれは身を守る為の防御方法なんだけど、今回は特に切実に見えた。切実、というか、きっと、少しでも言葉を交わしてしまえば彼は溢れて溢れてぼろぼろになっちゃうんじゃないかっていう危うさというか。
その上、そうして喋らずひとりでいることが更に彼を追い込んでるように見えて(だから、ウナサレと喋りながらどんどん色鮮やかになっていくんだよね、それもまた苦しくて愛おしいね)そして、その危うさがそのままネズミへの依存に繋がるんだよなあ・・・。
溺れかけた人を助けると、溺れたくないという強い気持ちでそのまま助けにきた人も一緒に溺れさせちゃうことがあるっていうじゃないですか。なんか、今回のトラワレはそんな感じがした。したからこそ、ウナサレの弱いこともこの世界は相変わらず悲しいことも受け止めて「無理矢理にでも笑う」姿に惹かれて、そして、最後には彼自身も無理矢理にでも笑うことを選んだんだなあ、と。

私は、ネズミを許せないって思ったんだ。
ふたりを騙し、どんな事情があれ、ズルい方法でウナサレを壊させたことも、彼から言葉を奪ったことも。そもそも言葉を奪わないと勝てないことを確信しているのが、また、また・・・ネズミ・・・。
だから、トラワレの、ゆるすって言葉にガツンと殴られた。知ってたのに。知ってたから。
トラワレの絶望はとんでもなくて、きっとその心は痛いはずで痛過ぎて痛いってことも認識できないんじゃないかって心配になるくらいで、でも、トラワレはその痛い、のまま、絶望も飲み込んで味わいながら、ゆるすって言うじゃないですか。
私は、あの許すって言葉を聞いたネズミの絶望を想像したんですけど。許されてしまうことの絶望と、優しさ。どっちもあると思うんだけどどうですか。許してしまえるんだ、許されてしまうんだ、っていうか。


僕にはお兄しかいないから、お兄も僕を選んでって台詞も、
外の世界はネズミと見た夢だったってのも、
ツミを置いていくっていうウナサレも
なんか、ひたすら、心臓がぎゅっとされ続けたんだけど。
ただただ優しいだけの話じゃないですよね。
誰かを選んで、選ばない話だし。ずっと、一緒にはいられないし。
ただ優しいとか愛情とかだけで成立する関係じゃなくて、なんか、この、この・・・。


きっと、みんな、世界が美しいだなんて本当にただそれだけを信じられているわけじゃないのかもしれない。それをただ信じるには、悲しいことが多過ぎる。

お別れがある、一生一緒にはいられない。一生ずっと一瞬の隙もなく相手のことを愛おしく思うことすら、できない。それを、私たちは知ってる。

振り絞るような声で、ウナサレの青色を顔に塗り世界の美しさを語ったネズミの声を覚えてる。
ウナサレが世界にガッカリしたツミにたどたどしく語った世界の美しさを覚えてる。
それは、どちらもそもそもはトラワレが捨てきれなかったこうであってほしい美しい世界だ。
そして、それをツミは受け止める。そっかあ、と微笑む。

そうして語られる世界を、私たちはあのテントで大切な人たちと見た。
聞いて、想像した美しい世界の話を隣にいる人に話すその姿はそのままおぼんろさんの世界そのものだと思った。


悲しくても、無理矢理にでも、笑うべきだ。

 

笑うために、大好きな世界の話をしよう。大袈裟に愛おしくて優しい、あの時みた世界の話をしよう。
お別れしても、なくなっても、その時があったことはどうしようもなく一等大切な事実に違いないんだから。

 

 

 


初演の感想:http://tsuku-snt.hatenablog.com/entry/2017/11/09/191810
見た直後に殴り書きした短いお話もどき:
トラワレとウナサレ「空色、何色、幸せ色」
http://privatter.net/p/3431488
トラワレとネズミ「葬送」
http://privatter.net/p/3433720

あなたは夢麻呂さんという人を知ってるか


夢麻呂さんという、役者さんがいる。
役者で、演出家で、脚本家。
そんな、芝居人がいる。


初めて観たのはボクラ団義さんの十七人の侍だった。だけど、何より私の中で特別な彼の作品は、SANETTY produceの2016年上演のロストマンブルースだ。
そもそも、ロストマンブルースが大切だった私にとってあの作品は特別だ。
(観劇後上げた感想ブログの熱量が今読んでも凄まじい。大興奮かよ。大興奮だよ)
http://tsuku-snt.hatenablog.com/entry/2016/12/28/172838

ちょうど、上演1ヶ月前に観に行った舞台が途中で中止になってしまったこと、だからどうしても今度はカーテンコールまで観たかったこと。
初めてロストマンブルースを観た時、仕事で体調を崩してギリギリな中、踏ん張るために何度も何度も、DVDを観ていたこと。
公演が発表された当時、ツイッターで見た色んな話。
そういう諸々が詰まりに詰まって、特別・・・もうそれは、特別重く、というのがしっくりくるような・・・な公演だった。
それを、受け止めて吹き飛ばしてキラキラにしてくれたのが、あの公演だった。その中央に立っていたのが、夢麻呂さんだった。

今日、仕事中その時の景色とかを思い出して、話したくなったので、夢麻呂さんの話をしようと思う。

 

夢麻呂さんはともかく熱い。
ロストマンブルースの頃、主演でかつ叫ぶシーンや感情が振り回されるシーンが多いなか、毎日、遅くまで感想ツイートに返信をしていた。
それは、シェリーを満員にしたい朝倉(ロストマンブルースの主人公)の姿に重なって毎晩こっそり泣いてた。
んだけど、何も、それは朝倉だったからではない。ロストマンブルースだったからでも、主演だったからでもない。

いつだって、彼はそうだ。

役の大小でも、脚本演出でも、ゲスト出演でも。
見つける限り、丁寧に観劇への感謝を返す。
役名や演出であることを添え、ほぼ毎日。
いやもう、これって、凄いことだと思うんですよ。
良ければサインをって告げて、お礼を言って、また良ければ劇場に来てくださいって言い続ける。


周囲の舞台の宣伝をリツイートし、時には自分の言葉を添えて勧めて。

夢さんは、わりと、ストレートなツイートが多い。
劇場に来て欲しいってことも、集客についても、演劇はあくまで、自分の仕事だってことも。

たぶん、それは人によっては好きずきあるだろうなあ、と思うのだ。
色んな受け止め方だってあると思うのだ。
だけど、私は夢さんのやり方は全力で好きなのだ。
それがそれだけが絶対的に正しいって話じゃなくて、そういう「夢麻呂さん」を見るのが好きなんだ。

それは多分、そんなによく知らない私ですら彼にとってそれが本当でずっとそうやって真っ正面から向き合って作って来たんだ、と信じられるからだと思う。そこに意地とか誇りとかを見る気がして好きなんだ。


役への本人の投影、ってのはなるべく私がしないようにしたいことの一つで、
それと同じように舞台に立つ人の色んな背景とか事情を、推測なんてできたらしたくない。
そんな野暮天なこと、したくない。
あくまで、私はって話だけど。


ただ、夢麻呂さんのストレートで真っ直ぐなツイートはそういう気持ちすら吹き飛ばしちゃうのだ。本当に私の中で朝倉一義過ぎる。
えーもうそんなんずるいじゃん!って思うのだ。格好良過ぎるじゃん。
キラキラした格好良さじゃなくて、ただぼんやり過ごしてるだけじゃ手に入らない重厚な格好良さすぎる。
そんで、何より、ああこの人はお芝居が好きなんだな、と思うのだ。
仕事で、だからこそ、そこに狡いこととか一切持ち込まないんだなって、たぶんこの人は私の大好きなお芝居ってのを傷付けず愛し抜いてくれるんだろうな。
そう思えるのが、どれだけ幸せかって話なんですよ。


だから思わず堪らなくなってこんなブログを書いちゃってるのです。
つーか、去年のメトロノウムを最後に観に行けてないんだ。そろそろあの熱い芝居が観たいんだ。
観に行けない行けてないって話を書くことの不誠実さについては本当に申し訳ない。
ただ、どうしても夢麻呂さんのお芝居の話を書きたかった。


だって、そこには間違いなく私の大好きな愛されてるお芝居があるんだから。

 

R老人の終末の御予定

例えば何日も何ヶ月も経って、あああの人が言いたかったことはこういうことだったのか、と思い至ったり、唐突に昔のことを思い出してその時間の愛おしさに喉が詰まるような気持ちになることがある。
R老人の終末の御予定への気持ちが何かに似てる、と考えていたんだけど、たぶん、それだ。
じわじわと自分の中にある気持ちとか、きっとそういうのが時間と一緒にどんどん、色付いていくんだ。

 


逆説的な人間らしさ、というパンフレットの吹原さんの言葉を思い出す。
ほとんど人間が出てこなかった今回のお芝居を観終えて、なのに人が愛おしいと思った。
それは動物としての人間というより、たぶん、心の話なんだと思う。

 

 


これは、地球上で初めて結婚したロボット夫婦の物語。

 


そもそも、原案となったふたりは永遠にという作品が大好きだ。
余命を悟った天才的科学者が妻を看取るため自分とそっくりなAIを作るお話。しかし、実は同じく天才科学者だった妻も同じように愛する人を看取る為、自分そっくりなAIをもう随分前に開発していたのだ、という何とも切なく優しい話。10分くらいのそのお芝居を私はPMC野郎さんに出逢って間もない頃、YouTubeで知り何度も何度も再生した。
大きな何かが起こるわけではないけど、夫婦それぞれの気持ちが優しくそしてその秘密を唯一知るふたりの友人の台詞が優しくて悲しくて。


吹原さんの作品は奇抜な設定やキャラクターが出てくるけど、その根っこにいつも素朴な気持ちがあって、その素朴さにいつもいつも私はノックアウトされる。


今回、それが元になりもう一つの軸としてエレキギターと電子ポットの恋が描かれる。本来仇同士のマフィアの子どもたちである彼らの恋。

 


トリッキーな被り物の彼らの姿はだけど、淡々と人間のそのままの姿みたいだ。
家柄を気にしたり、なんだか分からないということを理解しながら殺しあったり。
それは、ロボットのアダムとイブであるふたりは永遠に、の彼らがひとつひとつ「人間」のそれを習得していったからだ。


恋をして、誰かを思い、人を傷付け、自ら命を絶つ。

 

 


私は、終わった直後、悲しくて仕方なかった。
ポットさんを助ける何かがあると思ったんだ。
おじいさんの記憶の先にポットさんを助ける何かがあって、それはもしかしたらふたつのマフィアの争いすらなくしてくれないかって私はどこかで願ってた。だから、呆気なく死んでしまったおじいさんにも、それと同じように死んでしまうグレコにも、呆然とした。うそでしょ、と思った。
人間に近付いてしまったばっかりにフリードリヒの言う通り本当は滅ぼし合わない理想的な生命体だったはずの彼らが、言葉を選ばないなら、どうしようもなくなってしまったように思えて、かなしかった。どうしようもなく、ってのは、言葉が悪過ぎるな。
ただただ、人間が悲しいと思った。


R老人、横見さんの演じる花嫁姿のケイコが人間を殺すシーンが恐ろしくて悲しくて、そして美しかった。


鍛え抜かれてる横見さんだからこその静かなんだけど物凄いパワー(あのロボットの馬力感!ミシミシって音を聞いた気がした!)での殺戮にはぞっとしたし、表情は最小限なんだけど深い悲しみと怒りが見えて。。あのシーン、心臓が震えた。
無表情の人間への恐怖ではなくて、心を持ったロボットが殺す、ことを手段としてえてしまう、実行してしまう心の動きが怖かったのかな。
じゃあ、美しく感じてしまったのはそれが心が動いたからなのか。
あの一連のシーンの喜怒哀楽の詰まってる感じ、すごい。
結婚、という喜びから、大切な人を失う悲しみを経て、最後に怒り。
ぎゅっとしたあの、喜怒哀楽がさ。
でも、それを得た彼らが愛おしくてさ。
フリードリヒ!!!!!!!!って怒りすら湧いたし、ただその彼もきっとそうしてただ無抵抗に殺されるロボットたちの姿に沢山傷付いたんだろうな。考えることが仕事のフリードリヒが、もっとあたたかくて幸せなことを考えられる世界ならよかったのにな。


あそこで、ひいおじいちゃん・ひいおばあちゃん、と呼ぶことに最初はくそ・・・ってなったんですよ。悪意すら感じるというか、ああ、そこでその関係をちらつかせるのはさ、というか。
うまく言えないな。
フリードリヒのことを考えると、というかあの辺りのシーンは、ほんと、人間の悲しさというか。どうしようもなさについて考えてしまって雁字搦めになる気がする。
でも、もっと素朴に呼んでた可能性もあるのかもしれない。いらない、と一方的に人間に捨てられそうになった彼らが、彼らを守るために一生懸命考えた結果なのかな、とか。自分も同じそして自分たちを生み出すきっかけになったふたりにひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん、って呼ぶのは彼なりに心のやり場だったのかな、とか。


物語は、一色じゃないので、悲しいも愛おしいも同時にやってくる。


フリードリヒが考えるのが仕事だ、と言ったことを思い出す度に、ごめん、って思う。人間がどうしようもなくて、悲しいこととか考えさせてしまってごめん、って思う。

 


吹原さんの話は、だけど、いつも残酷なことを隠したりはしない。痛いことも悲しいことも、ただただそのまま描く。
独りぼっちのブルースレッドフィールドも、うちの犬はサイコロを振るのをやめた、もほかの作品だって、それはブレなかった。


あと、もうひとつ、とんでもなく悲しかったのが、辰郎とグレコの選択なんだけど。自殺っていう。
自殺ってのがどうにも苦手だ。創作上でも、叶うならなるべく見たくない。どんな理由があろうが、何があろうが、這いつくばってでも生きてくれ、と思ってしまう。死んだら、何もならない。
死んで向こうで、なんて詭弁だと思ってしまう。
だから、ほんとに、どうしようって思ったんですよ。勘弁してくれ、その選択はやめてよってめちゃくちゃ思って。
でも彼らにとっては生きてたら何とか、とか生きてたら味わうだろうほかの幸せとかそんなんじゃなかったのかな。
人間の方の正田辰郎の紹介文で、ただただ彼女が笑うことだけを考えてたんだな、と思った。
彼女が悲しむところを見たくない、というそれだけが基準でそれ以上もそれ以下もなく、善悪の判断とかたぶん、関係なかったんだよね。
辰郎を看取りたいであろう彼女の気持ちよりも彼女が悲しむところを見たくないっていうある意味でとんでもなく身勝手でがむしゃらな愛情が辰郎や、メカ辰郎の根っこだとしたら、そりゃ、仕方ないか。それをやいやい言えないか。
グレコもきっと、そういうところが、辰郎に似ててだからこそのメモリーチップとの出会いだったのかなあ。

 


そんなわけで、私はカーテンコール、呆然としてたんだけど、その途中、グレコの曲を思い出して、ハミーとの会話を思い出す。音楽は作り出すことは出来ないんだと言ったこと、その彼が約束の彼女の為の曲を作ったこと。

 

あとね、羊羹がね、羊羹のエピソードがね、最高だったの。メカ夫婦がふたりで初めて美味しいって思ったものだもんね。だから一緒に食べたいよね。美味しかったのはきっと好きな人と食べたからだよ、なんてロマンチックなことも言いたくなるよ。
そんでさ息子がさ、事故じゃなかったよって言うじゃん。事故じゃなかったよ、父さん僕、長生きしたよって。あそこ、愛おしくてたまらなかった。みんなみんな、背負って生きてきたんだなあ。


好きだ、大事だ、笑ってて、幸せでいてって一生懸命みんな祈ってて。
ジェニーと清二さんのエピソードも大好きなんだけどね、なんか、もう、そうだよなーーー。
人間を看取る為に生まれた、誰かの為に誰かの気持ちを背負って生まれた彼らがだんだん自身の気持ちとか思いも一緒に背負って生きていったことを考えてる。できたら、優しくてあったかい気持ちだけ背負って欲しかった。だけど、そうはいかなくて、でも優しくてほんとなあ。
結局、いつも、シンプルなところに行き着く。


唐突にああそうだ、心とはこんなに美しくて優しいものだったんだ。と、そこで思い至って泣き出したくなった。抉り取って抱き締める、その言葉の有言実行っぷりに、泣き出したくなった。


どうしようもない残忍さも、身勝手さも優しさも美しさも、全部心の部分から始まる何かだった。


R老人の大好きだった台詞、「魂とは、知性に宿る」って言葉の優しさ、本当に大好きでした。何度も何度も、この数日思い出していました。
魂が知性に宿る、というなら肉体的生命に関係なく、それはそうなんだと思う。とどのつまり心臓が動いていても、知性を失っちゃったらきっとそれは魂を失うことなんじゃないかしら。
どうしようもないところもあるし、傷付けるし傷付くけど、例えば森山のついた嘘のように知性、が優しさを生むこともあって、それを魂って呼びたい。
そんでそれは、きっと、残るんだと思いたい。

 


今回、あと、吹原さんの台本ト書きの世界がひっくり返る、という表現の愛おしさすごくないですか?って思った。というか、ひっくり返っていたのだ、ということにガツンときた。そうか、場転って世界がひっくり返る、か、そうか、そうかって。
森山がさ、料理焦がしちゃうじゃないですか、「ひっくり返せなくて」世界がひっくり返る、とト書きで書かれるあの物語でひっくり返せなかった、彼についてなんだか妙に悲しくなってしまって、八重子にあなたとなら事故の前のように話せる気がする、と言い募る姿が悲しくて、しくしくする。
森山の世界は事故でひっくり返ってしまったんだ。ひっくり返って、戻らなくなってしまったんだ。その逆さの世界で、唯一逆さじゃない、メカ夫婦。


死んだ後の世界はあるのかな。死んだ人は何もできない、といった森山は自分を見守る人にも会えるのかな。


あの、弟(台本では家族全員、でおおおあってなった)を食べてしまった彼。そして、あの瞬間のお芝居で、その弟、がどんな顔をしてそばにたってるか。が伝わってきた。
死んだ人が、見守るとはよく言うけどそら、恨んで呪ってる人もいるはずなんだよな。死んだ人は何もできない、というふたりの「面白い」話を考えるとさ、でも、この見守る、もそうなんだよね。
見守る、守ってくれる、も呪ってる、許してくれない、ってのもぜーんぶ、何もできない、なんだよね。生きてる人間がどう思うかで、それに救われたり苦しんだりするんだよね。

 


死んだ後、彼らが再会できるというのがひとつ、この物語においての救いだった。
死後の人々を見ることができる森山の存在はあの物語にとってとんでもなく優しかったけど、私がもう一つ優しいな、吹原さんありがとう、と思ったのは老人森山の死が近くなって、の台詞。長い時間や生きてきたという事実が人に穏やかなものを与えてくれるんだってのはやさしい。


(だから、生きてて欲しかった、と思っちゃったけど)

 


かなしかったけど優しかった、という話を終演後、淳さんにお伝えしたら、優しい話だからこそ、森山がいるんだ、という話を聞いて、もっかいタライが落ちてきたような気持ちになった。
そうだった。
死んだ人が見える彼がいたこと、死んでしまったグレコとハミー、そして夫婦がいたこと。
(ところで、森山のあの短いシーンで彼が普段見ている死んだ人間がいる世界の恐ろしさと八重子の存在に気づいた時の森山の心境に想いを馳せてしまって物凄く苦しいやら切ないやら愛おしいやらで忙しいんですけど)
R老人は、なんか、幸せな話としてとっても悲しい話としてとってもいいよ、という懐の広さが好きだ。し、やさしい話だと思うよ、と聞けたから尚、輪をかけて好きだ。

一寸先はネバーランド、とパンフなどに書いてある。
ネバーランド、永遠の、世界。

 


死んでしまうけど、どこかで会えるかもしれない。
そこはもしかしたら、ふたりは永遠に、過ごす世界なのかもしれない。

 


それは、ひとがどうしようもないものととんでもなく美しいものを持ち合わせた存在だ、と動かない悲しくて優しい事実を突きつけてくれたこのお芝居が見せてくれた優しい「もしかしたら」の世界を私は願わずにはいられないんだ。