えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

CINEMA FIGHTERS

全体的には、イメソン大好き人間的にこういうプロジェクト大好きだし第2弾楽しみだなー!の気持ちです。
楽しみだなー!
あと、それぞれ短いし、曲が世界観を助けるのでさくさく気軽に楽しめるのが多い。お手軽に楽しい。

ちなみに、まだそんなに一族さんたちの曲を聴けていないので、知らない曲の方が多いままに見ました。感想も、ほとんど聞かないままに書いているので、きっと曲のイメージがズレてることもあるかと思います。
逆にこっから曲を聴いてまたこの物語に触れたら違った感想も生まれるのかもな、という楽しみを残したまま感想をひとまず書きます。

各ストーリーの感想。


パラレルワールド三代目 J soul brothers from EXILE TRIBE/unfair world)

unfair worldのMVが好きすぎる私は最初んんんんーーーー解釈違いでしたすいませんー!!ともんどりうった。
違うんです、MVのことがちょっと好きすぎるだけなんです。初見のとき、衝撃的過ぎて喉枯らしたくらい好きだったやつなので飲み込むのに時間がかかったんです。
ただ、この作品がある意味、あ、このプロジェクトってこういうことか!と見終わった後考えて一番納得するきっかけをくれた。

この曲をもとに物語を作るならどんな世界を描きたいか、というクリエイターの三次創作なんだなあ。(二次創作、は原型を留めるものが多い気がするので、あえて三次、と表現したい)(飲み込んで、消化してある意味血肉に変えて何を作るのか、っていう。食材として作るのではなくてそれを食べた人が新しい別物を作る感覚)

その一方で、私の中でunfair worldは「触れられないまま見守ることを愛情とした愛の歌」という解釈があります、というもとで感想が書きたい。
本当は触れたいのに、触れられない、あるいは触れないときめた、だけど切ないくらい相手を思う気持ちを抑えきれない愛情。恋、と片付けるには苛烈すぎるくらいの感情があるなあ、とずっと曲を聴きながら思っていた。

ある高校生の甘酸っぱい、胸がきゅっとするようなほんの少しの季節の物語。
ショートショートなので、淡々とシンプルに語られていく。そういえば、この監督は情景描写が魅力って昔聞いたなあ、と思い出すくらい天文部のあの観測する場所の切り取り方が美しい。山田さんのあのぎこちないお芝居も、すごく映像の空気感に合ってた。

うまくいえないけど、邦画独特の空気感というか。


そんで、見終わって前述のとおり、んー?unfair world???ってなったんだけど
家に帰って改めて思い起こしながらタイトルを改めて見て、思った。

MVで、三代目の皆さんが演じる守護霊。
今回、パラレルワールドでラスト山田くんが見た自身の姿はifの姿だったんだ。
あのとき素直に彼女に弱音や自分の状況を、何より彼女への気持ちをもっともっと言葉にしていたら
手を伸ばしていたら
ラスト、山田くんが見てるもし、の自分たち。
それは触れられない、だけど大切な守りたい自分にとっての大切なもの、なのかもしれない。だから、パラレルワールド。幾通りもの、触れられない「もし」を通り過ぎながら、生きていくのかもしれない。


キモチラボの魔法(Flower/白雪姫)
AKIRAさんが兎にも角にも格好いい。二次元的な、スクエアとかで短編連載されてそうなかんじ。ガンガンとかこういう話載ってそう。読み切り連載。
キャラクターの立て方とか、セットとか、ポップでデフォルメ的でこの短い時間だとシンプルに楽しめていい。ライト。
ただこの作品に限らずなんだけど、物凄く台詞がストレートなので、そ、そんなに明確に台詞にしなくても。。と戸惑うところがあるのがなあ。個人的にはほんの少し残念でした。こちらが照れてしまって集中力が切れちゃうのかもしれない。
なんか、伝わってるよー!大丈夫だよー!!ってなってしまう。
まあ、それはさておいても、マスターなAKIRAさんの説得力や少年の真っ直ぐさは愛おしいし、最後の少女の笑顔は綺麗だし、ああ良かったね、と気持ちよく楽しめる作品でした。


Snowman(E-girls/Mr.snowman)
私はこの話が一番好きです。
曲との親和性はわかんない。
手のあかぎれも愛おしい。若い頃の理想と、年老いた彼女を一度は拒絶してしまう現実が交互に進んで、うおおおお残酷、ともんどりうつ。
あとは単純に私が鈴木さんが恋人役してるのが最高だったというのはあります。めちゃくちゃ少女漫画のヒーロー感ある。
でも何より、自身も冷たいカプセルを掃除してみて、手を温めながら彼女が過ごした時間を想像する描写の優しさが良かった。
し、老いた彼女を眠らせて自分も同じくらい待つというのはある意味で、現実的というか。年老いた彼女を若いままの彼が受け入れるファンタジーよりも、余程優しくて好きな選択でした。
彼女が感じた孤独と、それでも愛する人を待つという幸せな時間を同じだけ重ねたふたりがどうかあれから幸せに今度はふたりで過ごせたらいいなあ。


色のない洋服店(DreamAmi/ドレスを脱いだシンデレラ)
これもまたストレートな話。そして寓話的。
ちょこちょこ、ツッコミを入れたくなるんだけどそれは時間的にどうしても仕方ないところはなあ、あるよなあ。
たぶん、この話は曲とか聞きながらだったらもっとすっと入ったのかな?という気はした。
洋服のデザインがたくさん貼られた作業場や、手作り感のある洋服店の描写はとても好き。
いらっしゃいませ、と言い続けるあのシーンが見ててしんどくないのは、演じてらっしゃる彼女の人柄かなあ。
とても寓話的でファンタジーな気持ちにはなる。
どちらかといえば、一番MVみたいな作り(曲をすごく意識して作られた作品)っぽい。どうなんだろう、この曲も敢えて聞いてないけどそんなことないのかな。

 

終着の場所(三代目 J soul Brothers from EXILE TRIBE/花火)
町田くんいつ幸せになるんですかって思わず呻きそうになってごめんなさい。
ほかの作品がめちゃくちゃ直接的に言葉にする作品が多い中で必要最低限な言葉に絞ってた印象を受けたのがこの作品。必要最低限の言葉と、役者さんの表情、それにラスト流れる花火に託したかんじ。
花火で解釈するならふたりにまだ可能性があると思ってもいいのかな。どうかな。
それでも君が好きだよと単純に言ってしまうより、めちゃくちゃ愛情は深いと思うんですよね。だから余計しんどいのか、そうか、そうだな。
隠し通せよ、とおそらく同業のデリヘル嬢が言うあの空気感とかはなんか、とても映像の雰囲気と合ってて好きでした。でも、隠し通せよって言った後には全部暴かれた後なんだよなあ。

彼女はとても迂闊で浅はかだなあ、と思うんだけど、もう、その気持ちのまま向き合ったらいいんじゃないかな、と思ってしまうのは夢見がちだろうか。


SWANG SONG(EXILE/Heavenly White)
世界の終わりの短い話。
これも、必要最低限感があって好き。
短い時間でも曲とかお芝居で十分伝わると思うんだ・・・。
何より雪の描写の圧倒的な感じがとてもいい。あとギター演奏する岩ちゃんさんの空気感もすごくいい。彼のお芝居のあの空気感の作り方はなんだろう。好き。

結局、うみちゃんは、どうなったんだろう。

本当は死んでしまっていてそれをアサヒに知らせるのを選択せず、自分の家に行ったのか。
それともそもそもうみと知り合いというところから嘘だったのか。
そこの結論はまだちゃんとは出せてないんだけど。
でもその想像の余地は楽しみたい。
どちらにせよ、彼女にとって世界は終わるものでそれから、なんてあり得なかったんだろうし、だからもう次の曲なんてない、最後の曲と思ってたんだろうなあとぼんやり思ったので、その女の子にまたもう一曲作れる気がする、と笑ったアサヒの顔を思うと世界は案外と終わらないのかもしれないなあと思ったのでした。

 

おやすみランタン!

おやすみランタン

銭湯で、お芝居と音楽の融合みたいな公演があるけどと誘われて京都までふらりと出かけた。
もうそのえ、それつまりどういうこと?ってコンセプトの愛おしさったら!

ちょうど雨の日で、でもざざ降りじゃなくてしとしと濡れた少し懐かしい銭湯の看板とか
その前に寄った喫茶店の空気感とか

一日丸ごとを抱え込むようなそんな素敵な公演だった。


お話のあらすじはこちら(公式サイトより

場所は京都。木曜が定休日の銭湯「サウナの梅湯」。

浴槽では翌日の営業に向けて掃除をしているバイトのトミーと、
ラジオを聴いているランタン。

夜が深くなってきたとき、
京都に大きな雷がおち、ふたりは大停電にあってしまう!

暗闇をこわがるランタンに、
トミーはちょっと不思議な未来のはなしをはじめるのだが・・・


お話の合間に花柄ランタンさんの歌が生で演奏、歌われる。
音楽は詳しくないので、あの音楽たちのジャンルをどう言えばいいのか分からない。
わらべ歌とかお母さんといっしょとかで聞く曲みたいで、でもなんか、そう、とも言い切れなくて。
可愛らしくて、透き通った歌い手さんの歌を目の前で聞くのは不思議なかんじだった。

何より、そもそも、劇場、銭湯ですからね。
湯船ふたつが舞台。
たぶん普段は体を洗ったりするところが客席。電気風呂の湯船が音響や照明を操作する卓になってるのは、なんとも洒落が効いてて素敵。
なんだろう、お芝居を観たというよりかは、本当にお風呂に入ったみたいな。
小さい子どもも同い年くらいの人も、もうちょっと年上の人も。男性も女性も一緒くたで、ちよっと寒いからコートとかはみんな着たままで、ぎゅっと座って、ひとつ、お芝居を観る。
なんか、それ全部がおやすみランタンなんだなあと帰り道ぼんやりと考えた。

お話は少し不思議な未来の話。
なくなってしまった銭湯の色んなものをなくした女の子の手伝いをしに過去にドライブに行く話。
普通の会話をしながら、淡々とお話は進む。
たくさん笑わせようとか、泣かせようとするのではなくて、
でも寄り添うみたいなそんなお話と、それを色付けていく音楽たち。
難しいことは何もなくて、後悔してそれを拾い上げたら尚更先に進みたくなるような女の子に、話しかけるトミーは、熱すぎなくて、でもそれが彼がどこにでも、とどのつまりは、銭湯っていう、劇場をでてもそこにふらっといそうな空気感で、そんなお芝居にめちゃくちゃ弱い私はとても幸せな気持ちになった。

お話はハッピーエンドだ。
優しい言葉と、あたたかなランタンとの会話でしっとりと、明るく楽しくお芝居は終わる。
子どもたちが嬉しそうに楽しかった!と喋りながら帰るのを眺めながら、友達と楽しかったねーと帰る。
そんな一日をプレゼントしてくれるお芝居だった。

穏やかに幸せだ。

ナイトヒーロー

ナイトヒーローを観終わった。
NAOTOさんが、NAOTOさん役として、しかも実は裏の顔があってそれは悪と戦うソウルマンなのだ!という、ヒーロー大好き人間には最高!と叫びたくなるようなあらすじに、ワクワクして観た。

観て、それはもう、毎話毎話完全にノックアウトされた。しんどすぎて、ビックリするくらい観終わるまでに時間がかかった。


ヒーローに憧れるNAOTOさんはある日たまたま暴行される人を素顔を隠しながら助けたところを栞に見られ、それどころか映像まで掴まれ、これをメディアに露出されたくなかったらソウルマンとして自分と協力しながら悪と戦ってほしい、という。
最初は嫌々協力していたNAOTOさんだったが、みたいなそういうストーリー。


そもそも。
悪ってのが漠然としてて、DV男とか、ヤクの売人とか人身売買とか、悪といえば間違いなく悪だ。だけど、作中も言ってたけど、それは警察とかが対峙するべき悪なのでは?というか。
それに対して、暴力で対抗したところで相手が悪だという事実は変わらなくても、こちらが正義だ、という事実は生まれない。
それはあくまで「ソウルマン」側の都合なわけで。圧倒的にそれが支持されようがされまいが、その事実は変わらない。ただの暴力だ。

それを、正義だ、といい続けられる栞に初めは疑問しか浮かばない。どころか、後味が毎回絶妙に悪いので、不安しかよぎらなかった。
いやこれ絶対、正義じゃないよって。
そんな簡単に、テレビの中みたいに勧善懲悪的な、こっからこっちが悪です正義です、みたいな線引きできるはずがないのだ。

そして、もう一つ不安で仕方なかったのはNAOTOさんがNAOTOさん、という役であることだ。
このへん、主題歌のPART TIME HEROがずるい。
マスクをとってもヒーロー。
いやもう!ほんと、そうなんですよ。
エンタメを初めとする全てをヒーローと思ってる私は尚のこと、そうなんですよ!!!!!!ってこの歌詞を聞くたび叫びそうになる。
目の前の悪事を例えば解決できなかったとして、NAOTOさんを初めとするパフォーマーのパフォーマンスに、舞台に、作品に見ず知らずの、それこそ助けてっていえないままの人たちがたくさん救われて元気付けられて、それはもう、ヒーローじゃないですか。

マスクをとってもヒーローっていうか、マスクも暴力もなくても、ヒーローですからね。

そして、ソウルマンとして活動するってことはそのヒーローからどんどん遠のいていくっていうことだからね。
1話の直己さんの台詞が印象的だ。

何かあったら、今の立場はなくなる。
気をつけなきゃ。

その1話からの怒涛のソウルマンとしての活躍ですよ。胃も痛むってもんですよ。
時々、格好いいアクションや、だんだん強くなっていくソウルマンにあれ、いやでもやっぱりソウルマンはヒーローなんでは?そう思いたくなる。そういうことでいいんでは、そう、思おうとするたび、絶妙なタイミングであくまで、ソウルマンを正義とするのは栞側の主張だ、と現実に引き戻してくるエピソードを入れてくる。暴力はあかん!って叫ぶラストシーンとか、呻くしかなかった。そうだよね、わかってる、わかってるよ。。

そうしていく中で浮かび上がるトカゲ、という裏組織。
そして、栞の本当の目的。
殺された父親の復讐。
トカゲを誘き出すための、ソウルマン計画。


ストン、と腑に落ちた。
ソウルマンが正義じゃないことなんて、とっくの昔に栞は分かっていたのだ。
というより、正義なんてどこにもなくてそんなのを待ってても誰も助けてくれないって心底絶望したからこそ、ゴミクズ同然だって投げ打ってでもソウルマンの計画を実行したのだ。

なんか、栞のあの手紙があまりに心に響きすぎて苦しくてジムで自転車漕ぎながらこっそり泣いた。
ヒーローなんて、いやしないと思った栞が、NAOTOさんをヒーロー、と呼んだこと。
警察も助けてくれなくて、復讐しか考えてなかった彼女の目に、迷ってでも怯えてでも「悪」に立ち向かうソウルマンがどう見てたか想像する。
本当に悪なのか、という問いかけはある意味で泣いてる人にとってはどうでもよくて、それどころじゃなくて、助けてほしいっていうその一心で。
その手を離されて、もう掴む人なんていないって思っていた栞がNAOTOさんと出逢えて良かった。
そして、その栞にそれでも、暴力じゃダメだ、と言えるNAOTOさんで良かった。

正直、EXILE辞めます、のシーンはめちゃくちゃ複雑だった。いやもうだって、マスクをとってもヒーロー、なんだから。そのヒーローを辞めるっていうんだから。

でも、片岡直人さんとして、助けて、といった友人を助けること。
なんか、ヒーローってそういうもんなのかもな、とも思う。
みんなの正義のヒーローでいることで、自分の大切なものを護れないなんて、そういうことの方が残酷だし。
栞との関係性もすごく、いい描かれ方をしてたと思う。
恋愛関係として、というより本当にバディとしての描かれ方だったというか。所謂、椅子の男(栞ちゃんは女の子だけど)とヒーローっていう定番。友人、とか恋人とか、そういうのじゃなく、NAOTOさんと栞ちゃん(と、おじさん)というわざわざ名前付けできないようなそれだけの唯一無二の関係だったと思う。
その名前にも言葉にもならない気持ちがあの雨の中でのアクションにあふれてて、もう、ね。

あーもう好きじゃん、みたいな気持ちでいっぱいだった。
いやもう、好きだよ。
どれだけしんどくても見切ってよかったよ。彼らが戦って迷って悩んで笑ってする姿を見通せて幸せだよ。


あと、直己さんとのラストシーンもすごく、嬉しかった(この救済残しててくれて本当にありがとうございますの気持ち)
片岡直人さんとして、と言ったけど
メンバーにとってだってそうで。
別にマスクをしてるしてないじゃなくて、彼はヒーローなんだなあというか。
JSBって場所にいるNAOTOさんも唯一無二なんだよなあ。
うまくいえないんですが。
なんか、ともかく、最終回が物凄くよかったです。
本当に、格好いい人だなあと思った。
しかもそれが血の通った格好良さというか、迷ったり悩んだりするからこそ、格好いいって種類の格好良さなんだなあ、としみじみ噛み締めたのでした。

 

ぼくらの90分間戦争

残忍さの提示でも、どうしようもない現実を叩きつけるわけでもない。

例えば薫のように思い切り泣くことができただろうか。
例えば、同じ痛みを知った者として富澤のように支えることが出来ただろうか。


戸惑った。初日が終わって私は困惑していた。
凄いお芝居を観た。嫌いじゃない、好きだとも思った。
だけど、素直に面白いと思えなかった。
なんでか思えなくて、でも嫌いじゃなくて、私はますます困惑した。
例えば、と沢山仮定をたてた。
物凄い役者さんたちだと思ったから、台詞に心当たりがあるものがあったから、ひとつ以上の心に残る台詞と出会えたから(この台詞と出会えるか、は私の幸せかどうかの基準でもあるんだと思う)
あるいは、大好きなボクラ団義さんの、この東京の小劇場という場所を最初に教えてくれた劇団の記念公演だから。
どれもしっくりきて、どれもこれも違うと思った。
ただ、もし、劇団が好きだから好きだ、という仮定が答えなら死ぬほど私は私にガッカリすると思った。それは盲目的というか、自分の理想を投影して本当を見ようとしてないだけでは?と自問自答を三周くらいして、鬱々と過ごした。
たぶん考えすぎ。だし、三周したら最早それは考えてないのと一緒じゃねーかスタート地点だぞそこって、感じだった。
っていう、上で、ロングランの間考え続けて色んな人と話して台本を読んで、出した感想なので、
二転三転する挙句に長くてあちこちに話が飛びます。優しい心でお読みいただく場合はお付き合いください。


10周年の記念公演。
それに相応しいお芝居だ、とも、無声芝居やオープニングダンスなどの売りを完全になくしている今回のお芝居を敢えて選んだのは???とも、おもうし、それぞれそんな感想をツイッターでは見かけた。ここ、私もすごく難しくて、どっちもそう思う、なんですよ。
相応しい、と思うのは、ある意味で、脚本と役者の会話だけで勝負した今回の芝居は10年間ボクラ団義が色んなお芝居を作って、それぞれが色んな道を通ってきたからこそできるお芝居だ、と感じたからで。
いやもう、ほんと、あ、すげえって思ったもの。何目線だ。いやでも、あ、すげえって。
キャッチーさのカケラもない。感情移入しやすい人も配置しない。ガンガンくるなあーって思った。


いつかあるかもしれない、何気ない、言葉を選ばないなら「物語になるかすら分からない些細な」だけど当人たちにとっては人生で何度もなんども立ち止まりたくなるような出来事。
それは、だから、私たちの人生にも当たり前にあって、
その出来事の結末が、あんな風に昇華されるところを生身の人が、目の前でしかも同じように時間を刻む1シチュエーションで観ることができるのは、お芝居を観ることの幸せのひとつなのかもしれない。


あらすじ
突然訪れる 大切な誰かとの別れ際
もう二度と会えなくなるまで あとどれくらいの時間一緒に居られるだろう
その時間がわからないから わかるまでそこにいる


悲しいお芝居が苦手だ。もう、これは単純に好みの問題で、悲しいお芝居がとても苦手だ。
あと、人がいかにくだらないかを描く作品も苦手だ。どちらかといえば、ネガティブな人間だから、飲み込まれてしまうせいだと思う。
ぼく戦は、人がいかにくだらないかを描くことはしなかった。私が、久保田さんの作品が好きなひとつのブレない軸だけど、どうしようもなく愚かな人を描いても、くだらないと一蹴することはしない。そこだけは、ほんとに、安心した。
だけど、本当に、悲しい話だと思った。
淡々と、じゃあ何か結果として変わったのか救われたのか、と考えていた。
見終わった直後、なんで泣いたのって泣いたという感想を読むたび聞いてみたくなってた。
純粋に、そこでどんな心の動きがあって、泣いたんだろうと興味があった。

と、言う私も泣いたんだけど。
泣いた理由は、シンプルだ。
私もついこの間、薫と同じようにお別れをする為に近くまで行きながら、だけどそんな届いてるかも分からない会話も覚束ない相手に一方的にする「会話」がどうしてもしたくなくて、喋らないまま、お別れをしたからだ。
薫の気持ちが分かる、とは思わない。わたしは、別に薫と同じように謝らないといけないことや秘密は抱えてなかったし。だけど、たくさんありがとうとか、なんだかそういうものを伝えるべき相手に一切何も言わず、お別れしたことをなんだか、前述のとおり、昇華してもらった、と勝手に感情移入して、思った。
それは、本当に、身勝手な感想なんだけど。
竹石さんの台詞回しや表情のお芝居がPA耳蒼くらいからぐんぐん、好きで、その役者さんの芝居をあんなに近くで観ながら、そんな身勝手な気持ちではあるけど、ああその台詞だ、その気持ちだ、と思える時間をもらったのは、本当に、なんか、私としては特別な経験だった。

ただ、これはなのである意味ではお芝居の感想ではないわけですよ。
それとこれとは、一旦別の話っていう。

いったん、お芝居の物語自体の感想を。

じりじりした空気の世界でなかなか物語は進まない。だけど、どんどん彼との時間は減っていく。

同級生それぞれの向き合い方を通して、ぼんやりと見えてくる彼らが犯した罪。
でも、これを罪って決めたのは、彼ら自身だよね。いや人は死んでしまってるんだけど、でも顕一自身が言ったけど結局あの事故はどうしようもなく事故で、かつ、もし誰かのせいだとしたらきっと顕一なんだよ。

当事者以外には、無益でもっとシンプルな解決策(だけどそれはもしかしたら堪らなく夢見がちで理想的で、非実現的といえばそう)もすぐ近くにある。そんな苦しさの中にいる彼らはたしかに、戦争をしてたんだろう。
誰が悪くて、何がどうなれば納得いくのか、そんなこと分からなくなってしまってる戦争を。
最高に、皮肉の効いたタイトルだと思う。

最近、ボクラ団義さんではすこし草臥れた役が多い気がする沖野さん。疲れた顔に滲む感情が逆にしんどかった。
出世したことを責められるシーンでは、なんか、いや出世=幸せじゃないし、彼が彼なりに足掻いた結果じゃん、と呻きたくなったり。
良くも悪くも、大人になれた人だと思った。抱えた傷がどれだけ痛くても、そのままそれは痛いものだっての含めて受け止めて、でもきちんと生きていかなきゃいけない覚悟を決められた人だ。

最近私は竹石さんの会話劇が好きすぎる。
富澤が大人になれた役だとしたら渋谷は、なれないまま、止まった時間の中で今も足掻いてる役だと思った。
だからこそ、ラストで思い切り泣いた姿にほんの少し、助かった、と思った。
許せなくて、憎くて、だけど同時に罪悪感もあって。
そんなものに綯い交ぜになりながらもあそこに分からないからいるんだ、ということだけは分かるからそこにいたのが、本当にもう。
ストレートな感情表現も、分かりやすい山場もないお芝居(全体を通して)だけど、例えば、あとで話してやるから、お前顕一のなんなんだよ!って怒鳴るシーンとか、そういう、発散されようがない感情とか。
竹石さんの生身の感情表現がたまらなく好きだ。生きた人間がもつ、その瞬間の感情だっていつも思う。役とか芝居とかっていうか。
色んな色や言葉がぐちゃぐちゃにまざって、混ざりきらずに立体的にまざった絵の具みたいな。
だけど、ここは喜怒哀楽のこれです、みたいな整理のついた感情の方が、珍しいんだよな。だから、竹石さんの絵の具みたいな感情はこう、私的にはすっきりと、観てる気持ちを預けやすいんだと思う。

そしてこのふたりと対照的に思えたのが添田さん、高橋さんのふたりだ。
たまらん格好よさの添田さんだーー!!!
添田さん、こういう役を演じる時の格好よさ本当に勘弁してほしい。好き。
真っ当な、優しい人だと思う。
高橋さんも、そう。
なんか、それぞれ、こうどんどん遠くなる罪悪感とか感覚を抱えながらでもぼんやりとでも消えるわけでもないままのそれを抱えてたんだなあ。

ハッキリとしんどいことは、間違いなくしんどい。
だけど、ぼんやりとした哀しいとか辛いとか、そういうのは喉に張り付くようで居心地が悪い。
見ないふりをしたくなる。
ところで、この4人、こうして考えると成人後会わなさそうな組み合わせだな。とほんの少し思った。もし、事件が起こらなかったら。
ある意味で、顕一への感情が彼等に絆を残してたんだなあ。

風見さんが度々作中で、男子中学生にはよくある話だな、と相槌を打っていて
まさしくそうで、だからこそ、光希、奈緒たちはどうして?と戸惑ってたんだと思う。
謝ったらいい、話したらいい。そもそも、そんなこと、どうしてしたの。
そう思うと、光希、奈緒、水瀬のそれぞれの反応は物凄く、面白かったし、あーーーーーって思った。
奈緒は必死に理解しようとするし、光希は真っ向から対峙しようとするし、水瀬さんは彼女なりのケリを彼女自身でつけようとする。ゴーイングマイウェイともとれる水瀬の姿はある意味ですごくすごく格好良かったな。身近にいたらたぶん苦手だけど笑
でも、潔くて嫌おうが何してくれようが構わないけど私はこうするからってサバサバ感は最高だった。
3人それぞれがすごく強いし、色んな柔らかさがある。綺麗だった。

対照的なのは、兄・和哉とあの別荘を管理してた風見だろう。

コメディアンな大神さんは大前提として、私はこういう、ギラギラした負の感情全開の大神さんが好きだ。怖いけど!
本当は、彼が一番混乱して、どうしていいか分からなくて、分からないからこそあそこにいたのかもしれない。
顕一のことも妹のことも、律子さんのことも許せないと思っててだけど顕一の近くにいるからこそ、顕一が一番会いたいのは最期の時近くにいてほしいのは誰かってのが分かってて。
一番今連想したくないものを連想した、と困ったように疲れたように笑う彼が、本当に胸が苦しい程しんどかった。
人が死ぬ時、最善、とか後悔しないように、とか言うけどそんなの無理だろって思う。どれだけやっても、後悔はすると思う。
だけど、彼の選択をいつか和哉さん自身が受け入れられる時がくるといいなあと思う。

風見さんはなんのポジションなのってずっと考えてた。
此原に対しても思ったことだけどいやお前関係ないだろ!ってもやもやしたり。
んー私が一番脚本的にしっくり来ないというか、答えが見つけられなかったのは風見さんかなあ。
彼の台詞はもっともだし、ある意味では前述した戦争という皮肉、第三者にとってはどうてもいいようなことで起きた悲劇、そして今もどうてもいいようなことにこだわってる、とも、、まあ、とれるんだけど。
もっともらしい正論ってずるい。
うーーーーーーん。
管理してた別荘で起こったからこそ、尚更彼は彼なりに許せないのか。だけど第三者だから冷静に冷酷に正論が言えるのか。

ああいう異質さを中村さんは出すのがお上手だよなあ。
受付とかにいらっしゃる時の柔らかな空気感なんて一切感じない、物凄く冷たくて得体の知れない空気感。

一方で、蚊帳の外にいた人たちもいる。
このバランス感好きなんだよなあ。
全員主役なことのほうが(特に90分芝居では)難しいというか。
人生で、みんなが話の中心にいることって少ないよね、みたいな、そういう感覚。

とは言いつつ、いやでももっと中心近くにいる彼らも観たかったよーーーと思うボクラ団義さんファンよりの感想もないではないけど笑
いやでもなーずっともっとランタイム短いものを、と思ってたことを思うと、どちらかを選んで、どちらかを選ばない、になるのか。

同級生たちの話として進んでいくから、あれだけど、此原も律子も本人たちにとってはこの出来事の中心にいるような気持ちだろう。


初日終演後、見送りの際、思わず福田さんに怖かったです、と伝えて、え?ってなってしまったんだけど。
いやでもめちゃくちゃ怖かったんですよ。
あの状況で、あそこまで執着して自分の知りたいことを通そうとする、妹への気持ちを昇華させようとする。
え、いや、人ひとり今死の境で苦しんでるからね?!みたいな。そして、大切な友人を亡くそうとしてるからね?!みたいな。
でも、こうして文にしながらだからお前の悲しいとか苦しいを我慢しろっていうのも違うよなあって思いもするんだけど。
なんか、怖かったんです、此原が。
此原、風見はなんでそこにいるか分からなかったってのが正直なところなのかもしれない。その中でああしてあの状況で爆発的な攻撃に転じてしまう此原が怖かった。
ただぐっと堪えて睨むようなお芝居をする福田さんは好きだなあと思う。青い強さを持ち続けられる役者さんだ、とそういう役を見るたびに思う。

律子は、消えてしまいそうな、あの場で当事者になるのを怖がってすらいそうな印象。なりたくない、というよりなる資格がない、と思ってそうな。
顕一に別れを告げた律子の感情をずっと考えてた。考えてても結局分かったような分からないような、でイマココなんだけど。

まだ好きではいるんだと思うんだけど。

ただ、結婚だからか、子どもがいるからか、好き、だけじゃダメだったのか。
むしろ好きだからこそ自分のたちの為にそうしてしまう、そうすることを良いことだ、と思う本人やその結果が怖かったのか。

渋谷と律子は少し似てて、動くことを選べはしないんだけど
知らないまま終わってしまうことも受け入れられない、なんか、そういうところがある気がする。
それを含めて、ばかだなあ、と私は思っちゃう。このばかだなあ、は愛おしいなあ、という意味をたぶんに含んだものなんだけど。
もっと、知らんぷりできる人ならあるいは離婚なんてそもそもしなかったのかもしれない。


なんか、キャラクター的な人が少ないお芝居な気がする。
デフォルメ化された、物語的な。
だから、そういうシーンも極端に少なかったように思う。そう考えると前説で言われた覗き見してください、という言葉をしっくりした形で思い出す。

どちらかといえば、デフォルメ化されたお芝居が好きだから、だから手放しに面白い!ってならなかったのかな。
でも、なんか、そういう、キャラクター的な人が出てこないからこそ、お芝居の物語の奇跡なんて起こらなくてそこでは淡々と分からないまま過ごした時間が経っていくだけだから
だから、いつか、どこか、私たちの生活の延長線上にある物語だったのかもしれない。
それをああして、形に触れるというのは、逆に寄り添ってもらうというか、覗き見のし合いみたいというか。
物語になり得ないような、でも誰しもどこかで出会って淀んでいって残り続けるそんな後悔とか、じわじわとした怒りとか悲しさとかそういうのが物語になるのは、いいことなのかも。
後悔するな、ということじゃなくて、そういうこともあるよ、って。あるよ、ってことで何が変わるんだよ、と言ってしまえばそれだけなんだけど、なんか、あるよ、って心強くないですか。


と、言いつつそのお芝居にもデフォルメ化寄りの人たちが出てくる。
医者の南原さんと、近所のおばちゃんの貝沼さんだ。

あの役を嫌味なく、だけど浮かさずにする内田さんは凄いなあ。
私はいつか、どこかでバリバリ話す内田さんを見て!みたいん!ですけどね!
でも、なんか、ああして当たり前にストーリーにいる南原さんは、いないとダメな人だと思う。
そして、どちらかといえば重くなりすぎそうな話題を重くなりすぎず持っていく南原、という医者の必要性を思う。
人が死の境にいる時って、なかなか緊迫感を持ったまま進まない。
いや、状況にもよると思うけど。
ただ、もう長くはないけどなんとか頑張れば話せるくらいの、そういう時ってなかなか非現実的なのに、でもご飯食べなきゃダメだしなんならふつうに話せば笑いもするし、みたいな
だって、いつ終わるか分かんないし。光希のいう通り、その時間は短い方がいいわけないけど。
ただ、その状況をお芝居で、しかもあのシチュエーションでやれば当たり前だけど重くなるしエンドレス修羅場状態になる。
でも、それって、一気に覗き見、の状況から客席に連れてかれちゃう気がする。
そう思うとどっかズレたあのお医者さんは、一番ぼく戦にリアリティを与えていた気がする。

貝沼さんはもう、ひたすらに、見れて良かったー!の気持ちだ。これはもう、ファンとして普通に嬉しい、のやつ。嬉しい。
やっぱり好きな役者さんが舞台の上に立ってるのは、観たい、し、見れたら嬉しい。
これからも、どんな形でも立ってほしいなあと思っちゃう。
そうして、続けてくれてる限り、私たちも応援できるもの。


友人が、ぼくらの90分間戦争は、なにかを選んでだからその代わり喪った人たちの話、と言ってて、ああそうなのかもなと思った。
全部を選ぶことは出来ないわけだし。なんにおいても。
ストーリー的にも、そのほかの要素でも、そんな公演だったと思った。
ふたつの選択肢を、もしかしたらもっと多い選択肢を選んで、止まってまた選んで、その選択が積み上がった結果があのお芝居だろう。

素直に、面白いとは思えなかったけど、私は10周年でこの芝居が観れたのは嬉しいと思う。
というか、どうあったって、私はとりあえず少なくともいまは舞台の上にいるボクラ団義さんが観たい。観続けたい。これからも選択を続けるだろうボクラ団義さんを、私も選択し続けられたらいいなあ、と願ってる。

そんでもって、もし、選ばなかったものが欲しいと思ったら拾いに行っちゃってもいいんじゃないか、と思う。

顕一たちが、第三者からみて百点満点の幸せをほぼ確実に手に入れられない中で生きていくしかなかったみたいに、分からないままあの場所でいる選択をするしかないみたいに、生きてくしかないならそれくらい、やっちゃってもいいと思う。
誰に分からなくても、そうして欲しいなんてことを私は思う。
この感覚的な感想が私の一ヶ月このお芝居のことを考え続けるという選択の末の答えです。

 

ホットロード

完全に、役者さん目当てで観ることにしたホットロード
光がとても美しい、愛された映画だった。


あらすじ(ウィキペディアより
悩みを抱えながら、暴走族に憧れ、仲間に入り不良の道を進んでゆく主人公・和希、バイクに命をかけ、死をも恐れず暴走する春山の姿が描かれる。

母から愛されず、自分が誰からも必要とされていないと心を痛める14歳の宮市和希は、学校で周囲と打ち解けられず孤独を抱えていた。そんなある日、学校の友人である絵里に誘われ不良の春山洋志と出会い、しだいに彼らの世界に自らのよりどころを見いだすようになる。少しずつ春山にひかれていく和希だったが、暴走族のリーダーとなった春山は反目し合うチームとの激しい争いにしのぎを削ることとなる。

 

 

最近、ハイロー・デメキンと立て続けに拳という文脈で足掻く人たちの映画を観たというのもあって、なんだか尚更色んなことを考えてしまったり。ホットロードはどちらかといえばそんな文脈を女性目線で読み解いた話だと思う。

 

和希って女の子をのんちゃんが演じてることになんだか、へーーーって思った。

のんちゃんは、あまりトンがってるような印象は受けない。なんならどこか独特な緩やかなリズムで生きてる、そんな印象をどちらかといえば受ける。

和希はそういう意味ではなんとなくちょっと印象が違う。荒い言葉もほんの少し言ってる感じ、があった。最初は。

 

でも、なんとなく。

大人しそうとか真面目そうとか、そういうイメージをともすれば押し付けられかねないのんちゃんが、誰だよそんなこと言ったやつ!と声を荒げたり、春山を殴ったり

なんか、そういう、勝手にきめてんじゃねーよ!と睨みつけるような姿は、それこそ、のんちゃんそんな役もするんだ、と勝手に決めてた私への一喝にも思えて、途中からなんだか小気味好く感じた。

真面目そうとか、やんちゃだとか、思春期特有のどーのこーの、とか、なんか、そういう勝手な思い込みみたいな、押し付けに潰されそうになりながら潰されてたまるか、と生きてるふたりの話だと思った。

だとしたら、こんなに合ってるキャスティングないでしょ、と思う。

 

どことなく、のんちゃんも臣ちゃんも危うさがあって、危ういのに妙にとんがる強さというか、とんがるじゃないな、ブレない軸を持ってて

それはあの和希と春山そのものみたいだった。

 

そのふたりが寄り添うまでも、寄り添ってからも手を繋ぐだけみたいないっしょにいて笑ってご飯食べて寄り添って眠るだけ、みたいなあの空気感をあんなに綺麗な光と共に撮られたらもう、好きじゃん。

かなり、光とか湘南(だったはず)の景色もああ、これは漫画の絵もとても綺麗だったんだろうなあって思わせてくれるカットでたまらなかった。

 

この話を、思春期の話、とは言いたくない。

言いたくないんだけど、たしかに覚えのある痛みに呻く。覚え、とは自分の体験した、という意味でもそうだし、周りで見た、でもそう。

もう私は和希みたいにどうしようもなくなって、春山のアパートの前で座り込まなきゃいけないような思いからは随分離れた気もする。

だから尚更、和希や春山の剥き出しのままの傷の痛さとかを思って何回も再生を止めては呻いてたんだけど。

 

ラストシーン。

春山が、和希と生きたいから死にたくないって言ったこと。

お気に入りのカーディガンをぼろぼろにしても助けたいとお母さんが和希を背負ったこと。

和希が、春山の赤ちゃんを産みたいという夢を見ること。

 

誰かに愛されて、人は自分の命の大切さを知るって言ってたけど

それは親から最初に与えられるって言ってたけど

でも、きっと親からじゃなくても良くて、親から貰ってないから不幸とかダメとかそんな話じゃなくて、と纏まらない気持ちのまま思ってた。なんかもし、それをそうだって言われるとしたらちょっとしんどすぎると思う。

親だから、とかじゃなくて、大切だから、でいいじゃん。というか。親ってすげえってのは思うんだけど。でも、春山から和希の和希から春山への気持ちはなんか、言葉にして関係性に縛って定義付けたくないなあと思う。

あと、死をも恐れず生きてきた春山が、死にたくないって思ったみたいに、投げ出そうとした和希がごめんなさいって生きようとしたみたいに、なんか、勿論、愛されて自分の命の意味を知るってのは間違いないんだけど、

それだけじゃなくて、それくらい大事な相手を愛して知ることもあるんだなあとラスト、肩を組むふたりを見て泣きながら思いました。

たぶん、それを幸せと呼ぶんだと。

 

 

【雑記】お芝居とか魔法とか


キャガプシー初日を見た一週間後の、クレプト・キングの開演前のロビーにて、
観劇仲間の方とキャガプシーの話をしながら、末原さんって妖精っぽい、という話題で盛り上がった。
そしてふと「淳さんの魔法と末原さんの魔法は同じ魔法ではあるけど系統が違う」って話をしたので、
ちょっと文にしてまとめてみる。

常々、演劇は魔法だ、と言っているし高田淳さんは魔法使いだ、と公言しているわけだけど、
それを文にしているので読む場合は、だいぶ頭の中お花畑だなーくらいの気持ちで読んでください。お花畑です。


※いつも以上に好き勝手です
※個人の感覚の話です
※おおよそ妄想であり、事実に基づいてません
※演劇・演技について専門に勉強したことはないので、おかしなところはむしろある前提です

 


高田淳さんについて魔法使いだ!と言い出したのは2015年夏頃からなわけですが、
まずもう言わずと知れたスマートさが印象に残ったのがはじめ。
そして、気持ちいいタイミングで入る台詞!動き!余韻の残る表情!!
かつそれがただ「完璧」というに留まらずチャーミングだからこそ、魔法使いだと思うのです。
余韻というかゆとり感。
完璧だと研究家とかまた違うジョブになるよね。
あれです、イメージRPG錬金術師みたいな感じ。
天然由来の魔法じゃなくて、たぶんこの魔法はこんな意味があって、とか
これとこれを繋ぎあわせたらこうなって、って組み合わされて魔法になったようなイメージがある。
ひとつにはこれは高田さん自身が持つ知的さの印象が先んじて生まれたものだなぁと思うけど。
無から有への魔法というよりかは別のものへと変化させる魔法を使うのが淳さんだと思うのです。


対して、冒頭の話題にあがった末原さんは妖精よりな魔法のイメージ。
ゲームで言うと、淳さんの魔法はジョブ…戦士、司祭、の流れでの魔法使いだけど、末原さんはキャラクター属性としての魔法。


属性っていうか種族…。
なので同じパーティで組んだとしてもジョブが被らないね!(といっても私がそういうゲームしてたの随分前だしそんなにタイトルプレイしてないからわかんないけども)
一括りに魔法って言ってしまうと同じなんだけど、たぶん力の源とかが違う印象。
あの、はがれんで東洋と西洋の錬金術の違いを話すシーンがあるんですがそんなイメージでお読みいただくと分かりやすいと思います。
もっともっと突き詰めれば「お芝居という魔法」が根っこなので結局イコールなんだけど。
ああそうか、アプローチの方法が違うっていうと分かりやすいのかも。

末原さんの魔法は理論というか魔法それぞれの意味、というより単品での魔法。
呪文は使わない気がする。
呪文は使わないけど歌は使いそう(これ絶対作品のイメージに引っ張られてるけど!)
術式を描いて発動させるのが淳さんなら、歌って発動させるのが末原さん。
むしろ、発動させる感覚はあまりないのかもしれない。自然発動型。だから予測不能な感じがする。

ところで、お芝居の世界にはほかにもジョブもちの方がいて
重力使いとか、戦士とか格闘家とか(もちろん、お芝居としてのアクションの印象じゃなくてその人の演技から受ける印象の話
それはたぶんそれぞれがお芝居っていう魔法に対するアプローチが違うからなのかもしれない。

私が言い出した「魔法使い」という話は仕草などから受ける印象だったけど、
出る結論はお芝居が魔法だー!だし、それを根拠付けるいろんな要素がお芝居にあるのが面白い。
いやもう好きだなぁって話なんだけど。

同じ奇跡を起こすって現象に対していろんな起こし方があること。
なんかこれって素敵だなぁって文にして思いました。
オチはね、ないね!

 

ビジランテ

吐きそうになるくらい救われない気持ちもあったのに、なんだか妙に清々しいような気持ちになった気がする。

ビジランテ、観てきたよ!

まずはツイッターから引用のあらすじ。

ビジランテ
幼い頃に失踪した長男。市議会議員の次男。デリヘル店長の三男。別々の道、世界を生きてきた兄弟が、父親の死をきっかけに再会―。深く刻まれた、逃れられない運命は交錯し、欲望、野心がぶつかり合い、凄惨な方向へと向かっていく…。

 

画面から目を背けたくなるような「痛み」の描写の連続。
でも、それ以上に目を背けたくなるのは、閉塞感。常に、それが画面の、台詞の、物語の中にある。

地方都市の、あるいは独裁的な父親の。
その両方が絡みつき、嬲ってくる。
たくさん、痛みや閉塞感を象徴するシーンはあるけど、中でも私が一番ゾッとしたのは自警団の青年が三郎のバンにひたすら小声で、事故れ、事故れ、事故れ、と念じるシーンだ。
自警団の青年は痛みを知っても、人の死に鈍感だ。
火事を起こして誰かが死ぬかもしれないことも、殴り殺すかもしれない可能性もない。
痛みを理解してないわけでもない。
たぶん、もしかしたら、鈍感なわけでもないのかもしれない。

どーでもいいんだ。

繊細な描写も、執拗なまでの描写もあるのに、そしてそれらは全部リアルなのに、どこか感覚が遠い気がした。
後でふと思い出したのは、感情描写が物凄く削げ落とされてるんだなあ、ということなんだけど。
三郎くらいじゃないかな?人間の感情らしいものが描かれてるの。
二郎が思わず三郎を抱き締めたのも、ある意味では感情なんだけど、それを手放し突き放すことを思えば、あれは上げて叩き落とすためのものに思えて仕方ない。

感情や人情が追いつかない。
痛いから、可哀想だから、人として大切にしないといけない、三郎の言う「遺産とか、土地とか、そんなんよりもっと大切なものあるはずだろ」っていう、その大切なものがどんどんこぼれ落ちていく。
もっといえば、たぶん、それじゃあ、追いつかないし、受け止められないし、救えない。

所謂、地方都市の出身なのですが。

自警団の空気感とか、市議会のあの空気感とか、なんとなく覚えがある気がして。
いや、市議会には出たことないけど。
地方都市は、地方都市だけで成立するわけではないのに、なんだか妙にそこだけで完結してる。
そこがなくてもどうとでもなるのにそこでの終わりは完全な終了な気がする。
ギラついてて、でもどこか冷めてて、やっぱりここでも感覚が遠いんだ。


エグいなあ、と思ったのは三郎の店の女の子たちの描写だ。
どん底に決して落ちはしない彼女たち。だけど、私には彼女たちも感覚が遠い気がして。泣き叫びはするけど、どっか他人事。ゆっくり沈んでいく。
だけど、彼女たちが笑うことや、彼女たちを三郎が守ろうとすることが、無性にあたたかくて、それをあたたかく感じること含めて私には頭がくらくらした。それでは人は救えない。
もしかしたら、三郎はあの後、静かに息を引き取るのかもしれない。誰も救えないし、救われないまま。
兄弟の死の上にただひとり、二郎はああして生きていくのかもしれないし、街は何も変わらない。


でも、それもこれも、ただそこにあるだけだ。
どうしようもない痛みも、人の温もりも。
大袈裟に感傷的に解釈できない、圧倒的な事実として。