えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

→オハヨウ夢見モグラ

長くなってしまったので死ねない男は棺桶で二度寝する、と感想を分けて投稿した。したけど、個人的には私はこの二本を一つ、として捉えてる。
というか、そう考えると更に楽しいと思う。興味深い。
それは、短編の中で、あるいはそれらを纏めるモグラの見た夢の中のキーワードたちが、死ねない男は棺桶で二度寝する、を思い出す時、共鳴するような気がするからだ。これは、死ねない男は棺桶で二度寝する、の感想の中でも少し書いた。分かりやすく言えば、共通のテーマのことだ。
だけど、もっと好き勝手に深読みするなら、たとえば一郎が人魚の肉を食べるシーンの真意を言葉では説明しなかったような、そういう語られず示された言葉に触れる手掛かりになる気がするのだ。
その作用は双方にある。


ともあれ、まずは、オハヨウ夢見モグラの感想。

短編集、全体のあらすじはこちら。
「オハヨウ夢見モグラ」
ミケランジェロは言った。『私は作品を彫るのではない。石の中に埋まっている彫刻を取り出すのだ』~
幼少期の事故が原因で、365日のうち、たった1日しか起きることが出来なくなった男がいた。
事故から15年が経った今でも、彼にとってはたった2週間しか経っていないのと同じ。その精神状態は依然として少年のままだった。
そんなある日、彼は「夢の中で思いついた」という物語を次々と語り出す。だがその内容は、およそ少年の頭脳で考えたとは思えない程に複雑怪奇で、時に奇妙奇天烈で、そして時に学術的な命題を抱えていた・・・。
「・・・彼の中には物語が埋まっている。ミケランジェロの前の石と同じだ」
365分の1に濃縮された人生を送ることになった男が語る、様々なジャンルのストーリーを綴る珠玉の短篇集。


きみはぼくのやさしいともだち
このお芝居の野口さんにただただ痺れた。そしてそれに呼応する加藤さんという、もう、極上感がある一本。
ようやくぼくたちは、ともだちになれたらしい、というシーンのゾッとするような哀しみと美しさと。
今回の二本立ては、時折この、ゾッとする哀しみと美しさに巡り合う。

このお話の中で、私は「友人とは、価値観を共有するひと」ということが印象に残った。

無音はお前の耳にも届いている
ひたすらに怖かったこのお芝居。もうずっと顔引きつってた。
ほたてひもさんの、あの、背中で話を聞いてる時の表情。本気で夢に見ると思った。
マスターも含めて、分かりにくい狂気を感じる。いや、ストレートな狂気でもあるんだけど。
後半の展開にもゾッとしたけど、興味深かったのはマスターと話す音の仮定の話だ。存在は、それを受信する人がいて初めて存在たり得る。

きみはぼくのやさしいともだち、でのキーワードもそうなんだけど、
どうしても死ねない男は棺桶で二度寝する、の六郎のことを考えてしまうわけで。
(劇中でも、彼がいかに魅力的な人物だったか、大島や総理が口にしてたけど、ほんとそう!人たらしというか、つい彼のことを考えてしまうくらい魅力的なひとだ!)
記憶から消えてしまう彼は価値観の共有ができなくなる。というよりも、彼、という存在の共有ができない。
認識する人がいなければ、存在がない、ということは、六郎はそのまま、存在しない、になってしまうのか。
死ねない男は棺桶で二度寝する→オハヨウ夢見モグラの順で観劇すると、その辺りがぞわぞわして、この無音や、ともだち、の話の恐ろしさが増すような気がする。


いつでもいつもホンキで生きてるこいつたちがいる
もうキレッキレだ。
ゾッとした後にこの話はずるい。
キレッキレだ。
黄色いあいつずるいし、設定が色々とずるい。設定だけで笑う。
コンプライアンスシーンの意味のわからないスピード感の心地よさったら!
笑えばいいのか、泣けばいいのか分からない黄色いあいつとのお別れのシーンも大好きでした。
ポケ○ン世代にはたまらない。

ただ、ラスト、気持ち悪いと言われながら幸せな夢の中で死ぬ彼を眠り続けるみつおが見てることに、なんとも言えない気持ちになるんだけど。これは、深読みだろうか。

黒豆
楽しかったー!黒豆はもう、ほんと、ずっと観たかった作品なので、最高だった。
テンポの良さと、こてこてなお芝居!
最高と言わずしてなんと言うのか。
オカマバーでのやり取りとか、もう、ほんと、もうブラッキーちゃんかわいい。
そして、赤カブトさんを全力で堪能できるすごく私得な作品でした。
散々笑ったんだけど、ラストのふたりのキスに優しくて幸せな気持ちになった。
なんだろう、あの不思議な気持ち。
唯一穏やかに見れた作品だった笑
好きです、黒豆。人気な理由がよく分かった。あれは楽しい。

じかんをまきもどす
無音に続いて個人的にめちゃくちゃ怖かった作品。
何が起きたの?ってぞわぞわしてた。
巻き戻した時間はなんだったんだろう。
フォロワーさんも言ってたけど、もう一度ボタンを押せば、って押せるはずないんだよね。
あの時間はどこまで戻り続けるんだろう。
そもそも、戻り続けた場合行き着く先はどこなのか。
その後のモグラの見た夢(みつおパート)で、一気にみつおが老けこんでいた(もちろん、それまでにもその兆候はあったんだけど)ひとりぼっちになっていたことを思うと、時間は巻き戻ったのか、一気に進んだのか、みたいな気持ちにもなる。
この一本に関しては感想を書けば書くほどつかみどころがなくなる気がするなあ。


そして、モグラの見た夢、である。
穏やかで優しくて悲しい、みつおとその家族の話。
彼が起きるたった1日を待つ家族や友人の、それ以外の364日を思う。
幼馴染は結婚し、妹も家をでる。
周りの友人たちは、普通に就職して自立する。
あの、お母さんと主婦2人の会話が苦しくて。
たぶん、あれがあの家族の抱える現実なんだろうなあ。
それでも、笑顔で明るくみつおが起きる1日を待つ。
あの笑顔に全く嘘がなくて、それが、尚更心に沁みた。

「お前は豊かな人生を送ってるよ」
パンフがいま手元にないので、ニュアンスになってしまうのが悔しいけど、あの台詞が本当に好きだった。吹原さんの書くあのシンプルで真っ直ぐな台詞の魅力爆発の台詞だった。
嘘でも慰めでもなく、本当にみつおの人生を肯定したお父さん。

死ねない男は棺桶で二度寝する、を見た時、死ぬことは希望なんじゃないか、と思った。
六郎も、モグラのみつおも。
当たり前の平凡な人生とは到底言えない人生を送った。モグラが見た夢の中の人物たちの中にも、そんな人たちがいる。
ずっと幸せというのも、ずっと大切な人と一緒にいることはできない。
みつおを見守りながら現実の中で生きてた高橋さん演じるお母さんの悲しそうな顔も忘れられない。
だけど、豊かな人生、っていう言葉は、優しかった。

ラストシーン、みつおは物語の中でお母さんに約束していたバースディカードを送り、また物語を語り出す。
その場には、六郎がいて、独りぼっちのブルースレッドフィールドのナップサックさんがいる。
うまく言葉にできないけど、あのワンシーンを見た時、死ぬことは希望なんじゃないか、という救いようもない気持ちが軽くなった気がした。
ノンちゃんと別れたくない、と泣いた六郎はまた孤独にいつか戻るだろうし、
みつおがみつおとして過ごした時間はあまりに少なくて、そして置いていかれてしまったけど、
たくさんの物語と出逢ってともにあったみつおの人生は豊かだ。
それに、生きることはなんとなく幸せなんじゃないか、と最後笑うみつおと六郎を見て思ったのだ。
それは、うまく理屈では説明できない気持ちだけど、確かに残った観後感だ。
なんとか、説明できないかと、考え続けてみたけどうまくいかなかった!
ただ、言葉として出てこなくてもそんな風に考え続けた時間がひたすらに楽しかったので、改めてオハヨウ夢見モグラが、そして死ねない男は棺桶で二度寝する、が好きだった、と思うのである。

死ねない男は棺桶で二度寝する→

死ぬことは希望なんじゃないか。
素直に言えば、最初に思った感想はそんなことだった。

PMC野郎さんの魂の二本立て。
死なない男は棺桶で二度寝する、から、オハヨウ夢見モグラと二本立て続けで観劇。
これ、たぶん、順番によって受ける印象変わるよね。

それぞれのあらすじはこちら
「死なない男は棺桶で二度寝する」
悠久の時を、ただ一人孤独に生きていく不死身の男。聖徳太子とイントロクイズに興じ、織田信長に王様ゲームを教えた彼の孤独を、誰も知る事は無い。何故なら、彼の正体を知ってしまった者は、誰一人として彼の事を覚えていられないからだ・・・。
一方、現代。恋人の六郎と別れようかと悩む記者の信子は、取材先の精神病院で、不死身の男の存在を聞く。
やがてそれは六郎や自身の家族、果ては時の総理大臣まで巻き込んで、遥かなる人類の歴史に、小さなうねりをもたらしていく。
自分自身の境遇を呪い、その悩みを誰とも共有できない孤独な男。
終わりなきパレードの果てに死なない男が行き着く先は、限りなく孤独な生か、限りある幸福な死か?


記憶、人間という種の集合体、死。
いくつかの共通したテーマと、設定で別々の物語でありながら、
二本観れば点と点が繋がる。
とりあえず、まずはひとつひとつ感想を書いて行きたい。

「死ねない男は棺桶で二度寝する」
前半の怒涛の不謹慎な笑いと、そして、後半明かされる事実。吹原さんワールドを堪能!みたいな気持ち。
死ねない、という言葉通り、六郎にとってはそれはマイナスだ。
パンフを開いたページのどこかを見つめる六郎の目が寂しい。死ねないことを知られればその相手の記憶から、彼は消えてしまう。だから、一緒に過ごす時間は束の間だ。ただでさえ、ひとり生き続けなければいけないのに。
吹原さん脚本の好きなところは物語の本筋以外のキャラクターたちがともかくぶっ飛んでて愛おしいことだ。あまりに愛おしくてどこか本筋か分からなくなるくらい。総理に愛人、秘書に息子、横綱。さらに、ノンちゃんのお姉ちゃん。
これでもか!というくらいキャラクターが濃い。
ノンちゃんとお姉ちゃん、とその手のやり取りには思い切り笑ったり和んだりしたし、総理をはじめとする友人たちとのシーンはもう、本当に最高だった。切れ味ありすぎだ。そして案外あっさり人が死ぬ。主人公は死ねないというのに!

死ぬ、といえば、今回PMC野郎さんの作品で初めて刀を使っての殺陣を見た。
ゲキオシ!さんのインタビュー記事にもあったけど、その泥臭さ、血生臭は凄まじかった。
吹原さんの描くキャラクターが愛おしいのは、同時に描かれる作中にとんでもない痛みや憎悪があるせいかもしれない。
それが今回は殺陣というある意味分かりやすい痛みとして描かれていたけど、それは今まで観てきた作中でも、感じてた痛さだったように思う。

一郎が、人魚の肉を食べるシーン。
あのグロテスクさ。
彼はそうまでしてでも、妹や村を傷付けた男たちを斬りたかったのか。
あのシーン、明確な言葉で一郎の気持ちが語られないことに、グッとくる。
ただただグロテスクな呻き声と照明とか、描き出す。
それらが、その後一郎が背負う地獄を思わせるようだ、と思う。

六郎が不老不死であることを、知った人間は忘れてしまうということの苦さは、下下さんの熱演が伝えてくれた。
忘れられること。忘れてしまうこと。
その苦しさに優劣はつけられないけど、下下さんの、そうだ、あいつにあったらあなたが彼を殺してあげてください!の台詞の熱量が忘れられない。
身体中に傷で名前を掘るほど、 彼は彼女は、六郎のことを想っていた。
そのことに、愛情と、そして彼の記憶を失うことの哀しみを想う。
そう考えると、総理と六郎のシーンの穏やかさはまた違った感慨がある。
総理、すごいな、と思う。
あのお別れのシーンも、本当に美しい。

統合失調で生み出した妹と友人との会話は胸を締め付けられた。
本当に存在してるように思わせてよ、という六郎の言葉に困ったように笑う妹と友人は、ある意味では、彼がまだ狂いきれないというか、まともであり続けてしまう、つまり、自分はひとり生き続けなきゃいけない事実を真っ直ぐに見つめ続けているということではないだろうか。

ひたすらに苦しい、死ねない男は棺桶で二度寝する、は、ラストシーンで優しく美しい光に包まれる。
死んでしまう、という希望を彼は選べない。生き続けなきゃいけない。それは、重く孤独な生だ。
だけどきっと。
傷付いてでも彼を覚えていようとしたノンちゃんや、愉快な友人たちの存在が、そんな生の中、ぽきりと折れてしまわないように支えてくれるんじゃないか。
だからこそ、彼は歩き続けなきゃいけないが、決してそれは、哀しいだけのことではないと思う。


ちょっとあまりに長くなったので、いったんここで止める。
オハヨウ夢見モグラの感想と、全体の感想はまた次回。
魂の二本立て、さすがすぎる!

ソウサイノチチル

誰もが一度は関わることになる「葬儀」
そして人ひとりが亡くなったからこそそこには浮き彫りになる色んなものがあるんだな、と思ったソウサイノチチル。

あらすじ
「俺は死んだ。お前が死んだら、どうする? さあ、おかしな葬祭をはじめろ。」
駄目人間を絵に描いたような父が死んだ。舞台は葬儀場。
招かれざる弔問客。見習いの僧侶。
果たして、無事に葬儀は終わるのか?
父が遺したもの、伝えたかったこと。

 

ようやく観ることができたえのもとぐりむさんの作品。
葬儀、というテーマとは裏腹に前半はともかく笑いが散りばめられていた。
いやむしろ、葬儀、という本当は笑うに笑えない状態だからこそ、それがズレた時あんなに笑えたのかも。コントのようなテンポでお芝居は進み、気が付けばそこにあるエグミや人が亡くなる、ということの重みに行き当たる。
死んだはずのダメ親父。死んで良かった、とまで家族に言われる彼が生き返るところから物語は始まる。
なんとか保険金で彼が遺した借金を返したい妻はそのまま死んでくれ、と懇願する。
このあたりのやりとりが松田さん・憲俊さん共にコミカルで楽しい。内容酷いこと言ってるのに笑
更には葬儀に参列したくない奥さんの弟や、招かれざる客である旦那さんの不倫相手や元カノ、更にはその娘まで現れる。もうこれだけでかなり賑やかで、普通の葬式になるはずがなく、まさしく「おかしな葬祭」だ。
その上、葬儀を執り行う葬儀屋の面々もかなり個性的。ドラマチックにしか司会をしない立石さん(黒組の前田さんの流れるような司会からの切り替えにも、白組の國立さんのバラエティ豊かなまさしくオンステージな司会にもそれぞれ沢山笑った)や、確信犯なのかただのそそっかしい人なのか微妙な田中さん。派遣のバイトで、いまいち葬儀が分かってない山口(山口さんの白黒のそれぞれのネタもズルいし、どちらも確実に笑わせてくる宮下さんすごい)
ギックリ腰になった僧侶の代わりにやってきたSHOGOさん演じる高橋や、同じく2代目植木屋として頑張る桜木夫婦と、武宮のやり取りも軽快で楽しい。
というか、彼らがかなりこの話が葬儀の話だ、ということを忘れさせるくらい貪欲に笑わせてくる。

全体的にともかく賑やかな舞台なのだ。お葬式の話なのに。

途中、何度かお葬式とは生前のその人を表すという台詞が出てくる。届いた弔電がその人価値、お葬式の雰囲気が、その人の生き方。
そう考えると、この宗一郎さんはどんな気持ちでこの葬儀を見たんだろう、と思う。
通夜を終え、告別式が始まり、死んで良かった!と言われ、
かと思えば、この人は天才だったという人も現れ。
万人に愛される人もそういないけど、こんなにも強烈に憎まれ愛される菊池宗一郎という人の人生は、一言で表すことができない気がする。ダメ親父、ではある。息子は、そんな親父が好きだった、というがその奥さんや娘が死んで良かったね、と笑いながら話すくらいだ。それまでどれくらい泣かしてきたのか。
そう考えると、ダメ親父なんて表現じゃあまりに軽い気もするのだ。
さらに、義理の弟である恵蔵夫婦のかけられた迷惑は、家族なんだから、じゃチャラにできない気がするし(というか、そもそも義理の、だし)子どもが出来なかった、の下りは前半のシーンだったが、息が詰まった。
でも、そんな人を愛した父親がいて、想い人がいて。宗一郎を慕うバンドマンは彼が遺した音楽がいかに何かを遺したか、ということだと思う。
そういう人たちからすれば、妻や娘、恵蔵の言った言葉は、どれだけ無神経で酷い言葉だろう。
死んで良かったのかもしれない、と父が息子に対して言う苦さはどれだけだろう。怒るアユや、水樹さんの表情に苦しくなる。本当に本当に、傷付いた顔をしてて、そしてお別れを言う時の顔は美しくて、それが尚更、宗一郎への想いを思わせた。

ただ!ね!
同時に奥さんや恵ちゃん、恵蔵さんがどれだけ生前の宗一郎によって傷付けられたか、とも思うんですよ。
愛情があればそれくらい、とか、もうそういう度合いを超えてると思うし、宗一郎さんがしてきたことは。
それに、奥さんに関して言えば、それくらい手に入れたかった相手を、結婚が決まって弟がいくら言っても聞き入れないくらい結婚したかった相手を「死んで良かった」と言いたくなるくらい傷付いてきたことだって、辛かったんじゃないか。愛し続けられなかった彼女より、そうなってしまったことの方が苦しいと、私は思ってしまった。

でも、それもこれも、たぶん、誰も間違ってないんだと思う。
宗一郎さんを喪って悲しいと思う気持ちも、故人だからと飲み込むことが出来ないくらい憎いと思う気持ちも。
そして、そういうものが剥き出しになってしまう「葬祭」というものについて考える。
人生は一度しか選べないし、傷付けた事実は許されることはあっても変わることはない。償う、ということはできるけど、償いたいと思った時に間に合うとも限らない。
そんなことを考えて、後半はただただ苦しかった。生きることってあまりにしんどい、と思ってしまった。前半あんなに笑ってたのに!


ずるいなあ、と思うことがふたつあって。
一つは、ラストシーン。火葬が終わってから葬儀場の桜の舞い散る舞台があまりに綺麗だったこと。それを見つめる彼らの顔が優しかったこと。
もう一つは、多恵さんの宗一郎さんへの想いだ。
生き返ってたの、というあどけない表情や、夜二人話しながら背中をかいてあげたり、足の紐を直してあげる姿が。
あまりに、優しかったことだ。
なんだ、好きだったんじゃないか、というと軽すぎると思う。
死んで良かった、という言葉にも嘘はないだろう。
ただ、好き嫌いだけで、割り切れるほど、人と人は単純じゃないんだ。そんな、ありきたりだけど、忘れがちなことをふと思った。だからこそ苦しいし、でも、愛おしいんだと思う。
万人に好かれることはないだろう。でも、ただ憎まれるだけの生き方というのも、難しいのかもしれない。
だから、あの、どうしたら良かったの、に無性に泣けたのだ。それは多分、見てる人も分からないから。


その上で、思い出すのは綺麗な桜だ。
どんな日でも吹く気持ち良い風だ。
そう思うと、そうさ、命散るとはすごく希望に満ちた優しい言葉に思えてくる。

光のお父さん 第1話

実話を基にした、とかファイナルファンタジーの、とか、そして大好きな吹原さんの脚本、とか楽しみが沢山あって見た光のお父さん

もーーーーー、さいっこうにいいドラマ!

もともと、あんまり長いものを見るのが実は得意じゃないので、深夜ドラマが大好き。だいたい30分だし。でも、内容は濃かったりするし。
そんなわけで、毎週の楽しみができました。
地域によって放映日が違うので感想書くのどうしようかな、と迷ってたんですが、
そういえばブログがあるじゃないか!と気付いたので、ブログで感想を。
2話放送前に、改めて振り返って1話目感想を書いてみます。


主人公と比較的年齢が近いせいか物凄く共感しながら、見た第1話。
何があった、というわけではないけどなんとなく距離が遠くなった父親の突然の退職。オンラインゲームを通しての親孝行。
私自身は親とはわりと仲良くはあるけど、でも、こう、なんとなく小さな頃の距離感とは変わったな、と思う。
仲が悪いわけでも嫌いなわけでもなく、ただ関わり方が分からなくなった、みたいなあの距離感は誰しも覚えがあるんじゃないだろうか。

勿論、ただただしんみりさせるドラマでもない。
ゲームキャラにつける名前で、井上、と言うお父さんのちょっとトボけたシーンは微笑ましくも笑ってしまう。そんな程よい笑いが散りばめられてるのも魅力だと思う。

そしてまた、台詞のひとつひとつが沁みる。
親子の会話も、上司との会話も、オンラインゲーム仲間との会話も。
(そういえばTwitterで見かけた感想で、オンラインゲーム仲間とまた明日、と声をかけるシーンへの共感を見かけた。ほんと、あの台詞、すごく、素敵)
ドラマの表現的にも、実際のゲーム映像が流れたり、と楽しい。すごくゲーム音痴なので、最近じゃめっきりゲームをしなくなった私も思わずプレイしたくなる。

その中でも一際、このドラマが好きだ!と思った瞬間は、終盤、父が主人公に「あのゲームなかなか楽しい」というシーンだ。
もう、心臓がギュッとくるくらい、キた。
そもそもこの親子の溝は、主人公曰く、ふたりで楽しくプレイしていたゲームを、「ゲームばかりやるんじゃない」と父に言われたことに発端がある。
そこから何年も経ち、父のことが知りたい、と思って動き始めた主人公に彼が愛してやまない世界を、楽しい、というお父さん。
もう、この、構図が愛おしいし、その後入る明るいナレーションがいい。

優しくて沁みるこのドラマのこれからがほんとに楽しみだ!
ひとまず、今夜もしも寝落ちてしまった時のために録画予約!

今 だけが戻らない

観れた!観れたよー!!
台本を既に見て、展開は知っていたけどやっぱり舞台は舞台として観た方が更に楽しいなあ、と思った。しあわせ!


あらすじ
取り戻したのは、二度と戻らない筈の「過去」だった。

そこで見たのは、やたらと遠い「今」だった。


タイムトラベルを「行って帰ってきた男」が語る 過去の未解決事件の真相
未解決事件の捜査を専門に扱う【警視庁特命捜査対策室】で捜査を続ける刑事たちに男が語ったのはまさかの「自供」!?
「過去」を取り戻せたはずの男が語る「今」とは?
「置かれ続けた【一輪の菊】」が全てを物語る ボクラ団義が送る!タイムトラベラー自供型サスペンス舞台劇!?

 

これは、男の執念の話だと思う。
この男、は渡部浩一であり、倉下保であり、瀬戸沼陽であり、岡本仁で、司冬雪で、そして、真壁啓のことだ。

話の雰囲気的にはボクラ団義さんの「鏡に映らない女 記憶に残らない男」に近い気がする。
他人には理解できない執念で、人々を不幸にする人間と、それに翻弄される人々。

久保田さんの描く「狂った」ひとの憎めなさはなんなんだろう。
やってることは狂気に満ち溢れていて、そこに理解できる要素はないはずなのに。

(この辺り、久保田さんのパンフ挨拶とかを見ながら読むと心が苦しくなる)

5年前、10年前、20年前とそれぞれ事件が起こり、それを捜査する警察がいて、その警察に技術を提供する科学捜査研究所がある。
今戻は出演者数的にもわりと、構造が複雑だ。
久保田さんの作品の中でシリアスな設定との比較としてのほのぼのパート(コメディパート)を担ってるのは、科学捜査研究所のふたりだ。ふたりじゃれてる姿はすごく可愛い。が、実際に今回ふたりが背負ってるのは、この作品の中心である「戻せない後悔」であり、また皇・志熊の同一人物が描くのは、執念によった行き過ぎた行動だ。
そう考えると、特命捜査対策室の伊丹さんはこの作品ないで一番自由かつ、明るい役だった。もうほんと癒し。特命捜査対策室の3人のトリオもすてき。もっとも、瀬戸沼にしろ、久遠にしろ重たいものを背負っているので・・・癒されれば癒されるほど後半辛いんだけど。
捜査一課組に関しては、司さんは例外(ポジション的にも、捜査側の人というより被害者の遺族の意味合いが強いし)として、比較的冷静に、だからこそ的確に事件を追っていく。ある意味、複雑に絡む話だからこその必要なポジションだったのかも。

で、起こった3つの事件と、その犯人だ。


真壁啓が、犯罪を起こさないこと、を諦めた20年前の事件。
怜美の言葉を聞いた辻堂(真壁)の表情が悲しい。本当に、友人としての親愛の情を理解できていない表情で、かつ、裏切られたとむしろ傷付いていたように見えた。
これは10年前、5年前の事件にも共通して言えることだけど。
被害者たちは全て普通のひとだ。
事件など、起こる必要もなく殺される理由もない。所謂、殺されそうオーラ(鏡に映らない女 記憶に残らない男より)なんてものはない。
普通に生きて、笑い、近くにいる人を大切に思ってる。し、当たり前に幸せになりたいしたい、と思っている。からこそ、起こるすれ違いや諍いも描かれてはいるんだけど。

それらをたぶん、真壁啓は理解できない。
それはスライドやラストに語られた彼の半生の影響だろうし、誰も彼に与えたりしなかったからなんだろうな。なんてことを、辻堂の台詞や行動に思う。
(誤解のないように言いたいのは複雑な出生とか、両親の関係とかましてや施設育ちだ、ということは関係ないというか、あくまで要素でしかなかったと思う。現象でしかないというか。それを受けて、どう変わったかどう与えたのか、みたいなことで)(うまくまとまらないけど)

決して真壁啓は許されないし、ほんとに独善的かつ彼の価値観でしか物を見ていない。
なんだけど、じゃあただ彼が悪なのか、と思う。悪なんだけど。
ただそれは、物語の中の空想の悪役ではなく、彼自身がたくさん傷付き、限界を超えたからこその今の姿なんじゃないか、とも、思う。まあだからと言って、何をしてもいいというわけじゃないけど。辻堂、の頃に怜美を「こいつも生かしちゃいけないのか」って言ったのがなんか印象的だった。生かさない、と自分で判断したというより、もっと主観とかを除いて客観的に判断した、みたいな言い方のように感じた。いやまあ、主観だし、悪なんだけど。
ある意味、この辺りは結論がでることはないんじゃないだろうか。

 

そして、この作品のラストシーン。
なんたらマシーンの、正しい使い方。過去の友人たちと会えるということ。
結局、今、しか戻らない。今を後悔しない、と最後に渡部は言うけど、後悔しないように過ごすことができるのは「今」だけなのかもしれない。
ただ、それを演劇サークルの彼らは失ってしまった。もうあのなんたらマシーンで再現された今、がくることはない。


正直、私はこのお話をどちらかといえばバッドエンドと捉えてしまったというか後味はあんまり良くないなあ、と(それは舞台として観たらだいぶ払拭されたけど)思った。思ったけど、気が付けば何度もDVDを再生してるのは、出てくる登場人物たちが、真壁も含めて必死に生きてたからだろうか。

飛ばぬ鳥なら 落ちもせぬ

先週、12日マチネに観劇。
久しぶりのボクラ団義さん!そして時代劇!
うきうきとドキドキで、初めましての吉祥寺シアター(お洒落でとても素敵な劇場でした)へ

あらすじ

聞いたまま書くのがそなたの仕事
そのまま書くか決めるのもそなたの仕事

 

ボクラ団義10年目公演第一弾

『忍ぶ阿呆に死ぬ阿呆』『耳があるなら蒼に聞け』以来、約3年振り3作目の“新作時代劇”!!

乱世の梟雄と呼ばれた【松永久秀

その「梟」が空に散る日そこにあったのは

久秀の言葉を綴り続けた【右筆】とその【手紙を運び続けた男】の物語だった

戦国の世と時の流れを飛び回る!ボクラ団義流、戦国スペクタクル舞台劇!!

 

 

ボクラ団義さんの歴史ものといえばifの物語の見せ方がともかく魅力的。もしかしたらこうだったのでは?と思わせる展開は毎回わくわくさせられる。

そして、個人的に、あー!ボクラ団義さんの歴史もの!と思う特徴は、大きな時代のうねりの描き方だ。

 

忍ぶ、耳蒼、そして他団体の上演ではあるんだけど、新撰組オブザ・デッドの舞台版。

どれも、歴史の大きなうねりの中で懸命に生き、そして飲み込まれた人たちの物語だと思う。

今回の飛ば鳥も、そのうねりは健在だった。

 

舞台セットや音響照明が作り出した空間と、色とりどりの衣装、そして、嘘のない全ての役者陣。
それらが、歴史のうねりを劇場に生み出すのは、いつ観ても、そして何度観ても壮観だ。
今回久保田さんが選んだ時代は戦国時代。それも、再び日本が戦乱の世へと進んで行く、そんな時代だ。
人気のある戦国時代の中でもちょっぴりマイナーと言われる時代なんだけど、そこは、ストーリーテラーがすごくうまい。
松永久秀、の真相について語る楠正虎の戦国パート
そして、タイムスリップしたゲーム会社HOMAREIの社員たち。
戦国パートは激しく渋く進んで行く中、
HOMAREIの社員たちが笑いを生み出してくれて、そのバランスが魅力的。

今回、対比がすごく好きで面白かった。
HOMAREIチームと戦国時代組、正室と側室、忍びを抜けて生き様死に様を決めることにした飛脚たちと気が付けば歴史に飲まれた松永や三好たち。生きるひと、死ぬひと。
そしてそれらが、全部揃っての飛ば鳥だった。

2時間40分という時間やテーマも相まって大河を1年見切った後のような気持ちになった。
そして、それは全体としての舞台(物語)の美しさだったと思う。

飛ば鳥の感想書くのを個人的に難しいなあ、と思ってて。
どんな話だった?どうだった?と聞かれると面白かった!しか出てこない。
そこから何を思ったとか、そういうのがうまく言葉にならない。ともかく何か大きなものに触れた気がする。
ただ、じゃあたとえば役者さんやシーンに絞って話すと、ここがこうで、と語り出せてしまう。
それがまた、面白い。
大きなうねりを出すために死力を尽くして、それぞれが必死に歴史の中で生き抜いたから、こんな感想になるんじゃないだろうか。

そして、それって歴史っぽいなあ、と思う。
例えば坂本龍馬とか、それこそ今回の松永久秀に絞って話せばいくらでも話したいことはある。
んだけど、大きく見た時はただただ連続して続いた時間の流れだ。
でも、そこには大きく名を残した人たちもいたんだな。

前説での久保田さんの知らない歴史上の人物がいても大丈夫です、はそういうことかな、と思ったり。世界観の話であって、個人はある程度、その瞬間の感じ方で理解すればいいというか。

そんな、感じだと思った。
そんな気持ちに、今回の飛ば鳥はなった。


ただあれだなー!もっと細かく観たいからDVDを大人しく待とうと思う!

 

人生の大事な部分はガムテで止まっている 現代編

現代編だけしか見れないのが悔しい!

長いタイトルの、気持ちのいいドタバタコメディを観てきました。
松本さんの作品ならではの気持ちのいい台詞回し。観てスッキリのお話。

あらすじはこちら
古びた洋館に再現ドラマの撮影でやってきた撮影クルー。まもなく解体する物件と聞き、好き勝手に改造を始める。そこに現れたのはこの建物の資産を受け継ぎ、管理人となっていた若夫婦。その若夫婦はこの建物を存続すると言い始め撮影現場は紛糾。そんな中、主人公である助監督は、この建物を建造したであろう若夫婦の曽祖父の遺言を発見する。そこには「ガムテープを忘れるな」と書かれていた。そして助監督は大事な撮影備品であるガムテープを忘れていた…。


90分のランタイムに対して、作中の時間もリアルに90分進んでいく。
一昨年(もう一昨年!)上演されたミキシング・レディオと同じタイプ。
もー、ともかくテンポも台詞回しも展開も気持ちがいい。リアルに作り込まれたセットと、自然な役者さんの佇まいが、より90分の進行を楽しませてくれる。
ほんとに、楽しい90分。
ともかく聞いててまず楽しい。
で、あの楽しさって覚えがあるなあって考えてたんだけど、
気心の知れた友人とただただ話してる時に似てる。
その人たちにしか生み出せないテンポで、聞いてるだけで幸せなやつ。

それはたぶん、出演者さんたちの息ぴったりなお芝居があればこそというか。
夢麻呂さんがブログに書いていた「全員がいて成立する、あのシーンがよかった、ではダメ」の言葉に深く深く納得。

そんでもって、その上で「劇」的な登場人物たちばかりなのが楽しい。
撮影クルーたち。出演者。そしてそれに協力したり邪魔したりする色んな人たち。
90分の割に人数も多いんだけど、そのひとりひとりがしっかり印象に残ってる、し、どの人も見終わった後、愛おしいと思った。さすが!
そして、「劇」的なやりとり。
千尋と茜の笑いを誘う会話はもちろん、時にハッとさせられる会話をはじめ、ぐっと笑いから緊迫感のある空気への切り替え!痺れるー!!!
そして、台詞が、やっぱり共感できる。
千尋の「たかが再現V」と言わせない仕事への誇りというか、半ば意地、みたいなのって、覚えがあるもので。
胸はって誰から見ても褒められる仕事ばかりじゃないけど、そこで意地はって拗ねず腐らず、自分にとっての精一杯と、仕事の最善を探し続けながら仕事する、って、やっぱりある。
し、それを清々しく肯定しつつ迎えるあのラストシーンは、本当に好き。

あと、瞬さん演じる夢田さんが、ガムテで次々と止めていくシーンもすごく良かった。
すごくあっさりなんでもないように止めていくのが本当にいい。
だってそれにめちゃくちゃ翻弄されたのに!みたいな。
そんなあっさり!みたいな。
でも、すごく、希望に溢れたワンシーンというか、思わず笑っちゃうような、でもなんか元気になるような最高のシーンだった。

松本さん作品の、なんとなく当たり前の、でも特別で刺激的な時間の切り取り方と、
それってなんかいいよね、みたいなストーリーがたまらなく好きだし、
それを最高の形で具現化できることが劇団6番シードさんが好きな理由かもなあ、と改めて感じた人生の大事な部分はガムテで止まっている、現代編でした。